二章 九節


 瞼を朝日が射す。イポリトは瞼を開ける。腕の中でアメリアが安らかに眠っていた。彼女の眼下の隈は薄くなっていた。


 悪夢を見ずに眠れたみてぇだな。


 自室へ戻って寝直そう。イポリトはアメリアを起さぬよう静かに起き上がろうとした。しかしそれは叶わなかった。彼女がシャツを握っていた。


 溜め息を吐く。諦めて彼女のベッドで眠る事にした。しかし眼が冴え、瞼を閉じても眠りにつけない。再度溜め息を吐くとアメリアを見つめた。


 ……優しい顔して寝るもんだな。


 彼女の寝顔は、戦場で死に逝く兵士の手を握るローレンスを思い起こさせた。


 ……天使みてぇだな。


 アメリアを見つめていると触れたい衝動に駆られた。そっと手を伸ばし彼女の指通りの良い、艶やかな黒髪を撫でた。髪からシャンプーの香りと共にアメリアの甘い香りが漂う。


 アメリアが身じろぐとイポリトは手を引っ込めた。彼女は暫く口をもぞもぞと動かしていたが再び寝息を立てた。イポリトは小さな溜め息を吐く。


「……イポリト」アメリアの口から寝言が発せられた。イポリトは鼓動を跳ね上げた。


「……パス……頂戴。……ダメだよ、手ぇ使っちゃ。フットボールなん……だから」


 ……お前の夢でフットボールなんかしてんのかよ、俺。


「……やり直し。……そうそう……巧いじゃん」


 ……なんだか嫌な気がしてきた。


「……じゃあ、今度はあたし。……いくよ」


 ……待って、来ないで!


 イポリトはアメリアの手をシャツから放そうと試みた。しかしシャツを握り締められ簡単に離せない。そうこうしている内に思い切り股間を蹴られた。


 その日アメリアはイポリトに怒られて目覚めた。


「俺のボールを蹴るんじゃねぇ!」


 何事かと寝ぼけ眼で見つめるとイポリトが股間を押さえて悶えていた。自分の膝にも生暖かい感触が残っている。アメリアは表情を歪めた。


 すると再びイポリトに怒られる。


「顔を歪めたいのは俺の方だわ!」


「……金的打ったのは謝るわよ。ってか何であたしのベッドにいるのよ?」アメリアは訝しげな視線をイポリトに送る。


 溜め息を吐いたイポリトは昨夜の経緯を説明した。アメリアは頬を真っ赤に染めて俯く。


「……本当なの?」


「嘘吐いてどーすんだよ」


 アメリアは顔を更に真っ赤に染める。


「……あの、その、えっと……ありがとう」


「やけに素直だな。気持ち悪ぃ」


 アメリアは睨むと枕を彼に叩き付けてバスルームへ向かった。


 仕事へ出るアメリアを見送るとイポリトは街へ出た。映画を二本見て、大型書店で演劇や映画の専門書をじっくりと選んでから購入した。そして食料品店で買い物を済ませると夕方には帰宅した。


 既にアメリアは帰宅していた。彼女はリビングのダイニングテーブルにミシンを置き、黒い生地とにらめっこする。ミシンの側ではユーリエが彼女を見守っていた。


「あんだぁ? 今日は随分早いな」イポリトは紙袋をキッチンのワークトップに置くと中から食品を出した。


「お帰り。久し振りに良く眠れたから調子良かったの。件数少なくて早く終ったから新しい人形の洋服を作ってみようと思って。ほら。まだパーツ組上げてない子の。組み立てた時裸じゃ可哀想でしょ?」生地を置いたアメリアはキッチンに向かい、イポリトの手許を覗いた。


 節くれ立った大きな手が紙袋から強力粉やトマト、アンチョビの缶詰、ロメインレタスを取り出す。


「メシか? 今夜はピザとシーザーサラダにしてやるよ」


 満面の笑みを浮かべたアメリアは鼻歌を歌いつつミシンの許へ戻った。


「もうケガすんじゃねぇぞ」イポリトは丸めた紙袋をゴミ箱へ放った。


「うん!」


 素直な返事を聞くとイポリトは自室へ籠って専門書を読もうと踵を返す。しかしミシンを稼働させる音が聞こえた刹那、悲鳴が聞こえた。


 またかよ。もう勘弁してくれよ。イポリトはリビングへ駆けつけた。


 指に針を刺したアメリアが嫌がるので、以前かかった近所の病院へ行くのはやめた。代わりにイポリトが通院している大きな病院へ向かった。彼はそこへ行きたくなかった。しかし瞳を潤ませた彼女が『あの中年悪魔医者は嫌だ』と駄々をこねるので仕方が無かった。


 受付と外来があるホールに着くと見知った女性看護師と擦れ違った。彼女はイポリトを見ると彼に手を引かれ瞳を潤ませたアメリアを見る。看護師はクスリと笑うと口許を手で覆って先を急いだ。


 違ぇって。そんなんじゃねぇよ。


「……看護師に笑われたぁ」アメリアは涙を頬に伝わらせた。


「お前を笑ったんじゃねぇよ」イポリトは問診票を手にするとシートに座しアメリアの代わりに記入した。


「……じゃあ何よ?」


「いいだろ別に」イポリトは手を休めず答えた。


 問診票を受付に提出し、二柱はシートに座して診察室へと呼ばれるのを待っていた。


 イポリトは意識を集中させ地獄耳を駆使した。院内のあちこちで会話が聞こえる。患者の会話、心臓マッサージを施す救命士の息づかい、会議室に集まった医師達のカンファレンス、ナースステーションでのおしゃべり。彼は先程の看護師の声を追った。


 ……やっぱりな。あいつベラベラと俺の事喋ってやがる。


 女を初めて連れてきただぁ? 放っとけよ。今日はそっちの案件じゃねぇよ。一昨日性病チェックの結果聞いたばかりだろーが。俺はいつでも白だっつーの。……だから来たくなかったんだよ。


 苛立つイポリトに眉を下げたアメリアが問う。


「……どうしたの? さっきから変だよ?」


「別に。それよりも手前ぇの心配してな」イポリトは鼻を鳴らした。


 アナウンスが流れ、二柱は外来の診察室へ向かった。


 診察室に入る。すると医学書や書類が積まれたデスクの前で大男の医師が座していた。短髪の黒髪の医師は幽玄と清廉とした雰囲気を纏いランゲルハンスに似ていた。


 眼鏡をかけた医師はアメリアに微笑み挨拶をする。そして患部を眺め、問診票に目を通す。アメリアは大好きなハンスおじさんに似た医師に涙を見せまいと背筋を伸ばす。そして凛とした表情を作った。


 ……なんだ、俺必要ねぇじゃん。


 腕を組んだイポリトが窓の外を惚けて眺めていると、医師に声を掛けられた。


「彼氏さん、針を抜くのでアメリアさんの固定をお願いします」


 アメリアは表情を崩し再び泣き顔になった。

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