二章 八節


 未明にイポリトは気を失っているローレンスをアレスに託した。そして頭を下げて頼み事をした。


「頼む。戦場の神々の足になってくれ。仕事し易いように戦車に乗せて運んでくれ」


 アレスは面喰らった。主神ゼウスの息子である自分は位の低い神に命令されるなんて一度も無かった。腹違いの姉のアテナは仕方ないがこんな人間に近い神に命令されるなんて愚弄されている。アレスはイポリトを睨み殺そうと見下ろした。


 頭を下げつつもイポリトは言葉を続ける。


「俺の考えや態度が不敬だってのは承知だ。だがあんただからこそ俺は頼んでるんだ。偉い奴が率先して小さな仕事をやるからこそ、部下は動く。あんたは主神ゼウスの息子だ。俺は太古からの存在であるニュクス女神の末裔とは言え大分人間の血で薄まっている」


 アレスは鼻を鳴らした。イポリトは言葉を続ける。


「俺達ヒュプノスやタナトスに配布されるリストは死者の数が多過ぎる上に効率的ではない。同盟国軍と連合国軍の塹壕を行ったり来たりでロスが多い。空は数多くの魂達が昇るから翼を広げて飛ぶとぶつかる。人が死ぬタイミングは正確に図れないからどうしようもない。少しでもロスを減らす為にあんたの戦車に死神を乗っけて塹壕の間を行き来して欲しいんだ」


「……神聖な戦車を辻馬車にしろと?」アレスはイポリトの胸倉を片手で掴む。


「ああ」地から足が浮いたイポリトは顔色一つ変えずに返事した。


「万死に値する発言だな」アレスは肉薄する。


「重々承知だ」


 イポリトはアレスの瞳を見据える。


「タルタロスにでも肥溜めにでも何処へでも落としやがれ。でもそれは戦争が終った後でだ」


 アレスはイポリトの瞳の奥を見据えた。イポリトは怯む事無くアレスを見返す。アレスは鼻を鳴らす。


「……俺はアテナに幾度となく罵られている通り阿呆だからな。お前みたいな酔狂な奴の考えてる事が分からん。だが信念があるのは確かなようだ。貸してやろう」


「恩に着るぜ」イポリトは口の片端を少し上げて笑った。


「ただし!」


 アレスは声を荒げる。


「少しでも気に喰わねぇ事をしたら俺の権限でタルタロスに落とすからな」


 鼻を鳴らしたアレスはイポリトの胸倉から手を離した。イポリトは軽やかに着地する。


 アレスは戦車にローレンスを乗せるよう促した。イポリトはローレンスの頬を打って起こし、状況を把握していない彼を無理矢理戦車に乗せた。ローレンスとアレスが乗った戦車は窮屈だった。しかし詰めれば一柱くらい乗せられそうな余裕はあった。


 ローレンスは双子の幼子のフォボスとディモスに気に入られたようだ。肩を齧られ長い髪を引っ張られてベソをかいた。双子は嬉々としていた。それを見たアレスは鼻で笑うと馬を走らせ彼方へ消えた。


 イポリトは日中、人間の兵士と同じくよく働いた。馬車馬のように働いた。同盟軍と連合軍の塹壕を行き来する。膨大なリストに描かれた人相書きを片手に泥と血で汚れた兵士の顔を慎重に確認して任を遂行した。


 一方アレスはローレンスを乗せつつ死神を一柱乗せて戦車を疾駆させた。初めの内はヒュプノス達もタナトス達も遠慮していた。しかし乗らないとアレスが舌打ちするので遠慮深げに乗った。アレスはぶっきらぼうに行き先を聞くとローレンス共々死神を目的の塹壕へ送ってやった。


 ローレンスや同乗した死神が眉を下げて縮こまる。アレスは眉をしかめてぶすっと手綱を握る。しかし重い空気を破ったのはアレスの肩に乗っていた双子だった。彼女達はローレンスや同乗した死神、アレスに子猫のような声で他愛も無く話しかけた。愛らしいフォボスとディモスのお蔭で空気は和らいだ。アレスはローレンスや同乗した死神と軽く話すようになった。下車した死神は『アレス様が死神の仕事を手伝って下さっている。大変お心の広い方だ』と噂を流した。アレスの戦車を利用する死神は後を絶たなくなった。


 日が落ちて任を終えるとイポリトはアレスからローレンスを受け取る。そしてローレンスの残りの仕事に付き添った。ローレンスの長い髪は双子がしゃぶった所為だろうか涎まみれで臭かった。


 仕事が終わるとリストを配り終えたカーミラと合流し、三柱で芝居の稽古を始めた。人間が争っているのに明るい事をする気持ちになれない、とローレンスは渋った。しかし魂を導かなければならないからこそ正気を保つ為にやるんだ、とイポリトは諭した。ローレンスは遥かに歳下のイポリトに説得されて芝居に参加した。


 観劇好きのイポリトは管轄区の劇場で観た芝居の台詞を全て覚えていた。賢い彼は面白い芝居もつまらない芝居も真剣に観ていたので一度観れば覚えてしまった。彼はカーミラやローレンスに台詞を教えつつ演出や演技指導をした。カーミラは筋が良かったが、ローレンスは演出泣かせのどうしようもない大根役者だった。


 昼は戦火を潜り抜け、夜は芝居の稽古をする過酷な日が幾日も続いた。


 戦場のど真ん中である無人地帯で稽古をしていた三柱は嫌でも目立った。昼の仕事に疲れ切った神々は地に寝転びつつ遠巻きに三柱を訝しげに眺めていた。


 視線を感じる度にローレンスとカーミラは『誰もいない所でやろう』と提案した。しかしイポリトは二柱の願いを却下した。人前でやった方が度胸はつくし宣伝効果もある。イポリトは一柱でも多くの神に完成した芝居を観て欲しいと思っていた。ほんの僅かな間でも笑顔になって欲しいと願っていた。三柱とも仕事で疲労していたが幾日も練習を重ねた。




 ある夜、様になった芝居を披露しようと三柱は戦場のど真ん中に佇み、呼び込みをした。イポリトは腹から声を出して神々を呼び込んだ。初めの内は恥ずかしがっていたカーミラも大きな声を出して呼び込みをした。ローレンスは相変わらず口をもぞもぞ動かし頬を染めていた。


 懸命な呼び込みに神々は冷たい態度をとっていた。誰も側に寄って来ない。イポリトは諦めかけた。するとフォボスとディモスに腕を引っ張られたアレスが三柱の前に現れた。幼い双子は大好きなローレンスが出る芝居を観たいと、父アレスの腕を引っ張ってせがんだのだった。アレスは興味が無いようで渋い顔をしていた。


「つまんなかったらタルタロスに落としてやるからな」アレスはイポリトに肉薄した。


「望む所だ」イポリトは嫌な笑みを浮かべた。


 アレスが現れたのは強みになった。アレス様がご覧になるのなら観なければ失礼だ、とヒュプノスやタナトス達が集まる。


 イポリトは神々が集まると口上を軽く述べ二柱を立ち位置に立たせ、手を大きく鳴らした。


 芝居が始まった。血生臭い戦場に別世界が広がる。満天の星空の下、イポリトの朗々とした声が響き渡る。


 イポリトは主役や悪役、道化を見事に演じ分け観客の神々を魅了した。仕草や表情、声音を変えて何役もこなした。カーミラは愛らしく利発なヒロインを演じきった。ローレンスは相変わらずの大根役者だった。しかしそれが観客に受けたようで客席である地面からはクスクスと小さな笑いが湧き起こった。


 初めの内は渋い顔をして眺めていたアレスも話が進むに連れ、口角が上がり芝居に喰い付いた。


 芝居が跳ねるとアレスは盛大な拍手を贈った。他の観客の神々達も惜しみの無い拍手や賛辞を贈った。愛らしく利発で素敵だった、とカーミラは男神達から握手を求められた。フォボスとディモスは父の膝から下りるとローレンスの許へ駆けつけ彼を褒めた。


 アレスはイポリトを手放しで褒める。


「やるじゃねぇか、クソ坊主! 面白かったぞ! 明日も見せろ!」


 イポリトは悪戯っぽく笑った。


 アレスの一言によって翌日も、たった三柱による『ヴェニスの商人』は上演された。観客は昨日よりも多かった。ローレンスを殴ったタナトスの他に、他神族の神々も噂を聞きつけ姿を現した。


 その日も三柱は盛大な拍手を贈られた。


「ねぇ、もっとお芝居観たいよ」


「今度は私もやりたい」フォボスとディモスはローレンスの袖を掴んで引っ張った。


 ……その言葉を待っていた!


 アレスと話しつつも聞き耳を立てていたイポリトは、彼らの話に割り込む。


「他の芝居をやろうぜ。今度は大人数で出来る芝居をしよう」


 イポリトは観客達に声を掛け、役者を募った。すると直ぐに十柱の神が手を挙げた。イポリトは快く彼らを迎えた。その中にはローレンスを殴ったタナトスも居た。彼は複雑そうな表情を浮かべていた。イポリトは彼も温かく迎え入れた。


 日中は戦火を潜り抜け各々の任に着き、仕事を終えた夜は三々五々に集まって稽古をした。神々は互いを知らないので初めの内はぎこちなかったが稽古を重ねるにつれ会話するようになった。互いに演技の研究をしたり滑舌を直したり、怪我を治療してやったり、綻んだ服を直してやったりした。ローレンスも自分を殴ったタナトスと話すようになった。時折互いの体の心配をする程度まで距離を近付けた。


 そんな神々を遠巻きに眺め、イポリトは安心して溜め息を吐いた。人間よりもずっと長命の死神でさえ、互いを理解するのは無理に等しい。しかし嫌い合っていたとしても程々の付き合いは出来る。……ティコ、お前が言ってた事は証明されたぜ。


 幾度も稽古を重ね、出来に満足がいくとイポリトは役者陣に芝居の宣伝をさせた。効果があり上演日の夜は前回よりも多くの観客で賑わった。噂を聞きつけた芸術の神である九柱のムーサも訪れた。彼女達は銘々、竪琴や笛、書版、悲喜劇の仮面等、己が司る芸術の道具を携えていた。


 彼らが上演した『真夏の夜の夢』は好評の内に幕を閉じた。


 ハーミアを演じたカーミラや妖精を演じたフォボスとディモスの評判も良かった。しかし群を抜いていたのは演出し自らもパックを演じたイポリトだった。彼は数多くのヒュプノスやタナトス、そして他神族の神々から顔を覚えられた。『死神にしておくのには惜しい』『ゼウスに頼んで人間にして貰いよ』とまで言われた。


 ムーサ達にイポリトは声を掛けられた。彼女達の協力を得て新しい芝居の稽古をする事に決まった。しかしイポリトは役者を降りた。驚いた役者陣は引き止めようとしたがイポリトは頑に首を横に振る。そもそも彼は役者をやりたい訳では無い。戦場で人間が苦しむ中、せめて人間を導く神々が争わずに任を全う出来れば良い、と芝居を始めたのだ。


 カーミラやローレンスが瞳を潤ませて不安がった。役者陣もざわめいた。イポリトは彼らに声を掛ける。


「心配すんなよ。言い出しっぺがお前らを見捨てる訳ねーだろ。俺はプロンプトと演出に徹するぜ」


 役者全員の顔が綻んだ。


 それから幾度も稽古を重ねた。ムーサ達との曲やダンスの打ち合わせ、合同稽古をし『じゃじゃ馬ならし』を上演した。芝居は大好評に終わった。


 日中は戦場に散り逝く魂に触れ、夜は芝居の稽古に懸命になる日々が過ぎた。


 数年経ち、戦争は終結した。人間達や神々が戦地を引き上げる中、イポリトとローレンスは戦地に残った。彼らは泥に埋もれた亡骸の一体一体に祈りを捧げた。


 月日は更に経ち、別大陸から帰国したイポリトは愕然とした。ピアノが消えていた。


 彼の管轄区は大陸間の相互不干渉を掲げていたので戦地にならなかった。従って懐かしき家は残っていた。家財は残っているがピアノは消えていた。ティコが持って行ったのだろうか、それとも勝手に大家に売り飛ばされたのだろうか。


 ……あまり弾いてやらなかったからな。不貞腐れて何処かへ行っちまったのかもしれねぇな。


 イポリトは家を出ると街へ向かい映画を夢中になって観た。珍妙な家を建てる夫婦の作品でゲラゲラ笑った。そして久し振りに会った売春婦達を抱いた。心行くまで酒を飲んだ。


 彼の心は雑踏へ消えた。

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