二章 十節


 長期休暇も残す所三日となった。


 ナニも騒ぐしおねーちゃんでも抱くかとイポリトは夜の街へ出ようと腰を上げた。すると玄関先で仕事上がりのアメリアと出くわした。眼の下に薄い隈を作った彼女は息を切らせていた。


 アメリアは深呼吸をして息を整える。


「出掛けるの?」


「おう。今夜は帰らねぇぞ」イポリトは猫のマグネットフックに掛けられた家の鍵を取る。


 その鍵をアメリアは引ったくった。


「あ?」イポリトはアメリアを見据えた。


 俯いて口をもぞもぞと動かしていたアメリアは言葉を紡いだ。


「……お願い。今日はやめて。一緒に出掛けて欲しいの」


「嫌だね。俺はおねーちゃんと遊びたいの。もうナニが暴発寸前」イポリトは差し伸べた手を振り、鍵を催促する。


「お願い。夕飯くらい奢るから」顔を上げたアメリアはイポリトを見据える。


「食欲より性欲なの」


「お願い。一緒に出掛けたいの」


「あ? 言う事聞きゃお前を抱かせてくれるってか?」イポリトは悪戯っぽい笑みをアメリアに向けた。


 コンラッドとの件を想い出したのだろう、彼女は瞳から涙を一筋流した。


 しまった。馬鹿言っちまった。イポリトは溜め息を吐くと頭を掻きむしった。


 俯いたアメリアは大理石の三和土に涙を零す。


「……それでイポリトの気が済むなら……いいよ」


 イポリトはアメリアの頭に軽く手を置く。


「馬鹿。冗談だ。真に受けんな」


 アメリアは洟をすすった。


「ンな顔で出掛けるつもりか? 別嬪が台無しだ。付き合ってやるから支度しろ。何か喰いたい物はあるか?」イポリトはアメリアの髪を軽く撫でた。


 眉を下げたアメリアはイポリトを見上げた。そして微笑む。


「ありがとう、イポリト。大好き」


 アメリアは彼を抱きしめると、ブーツを脱ぎ捨てて自室へ駆け込んだ。


 彼女の後ろ姿を見送りつつイポリトは急に速まった鼓動を感じた。胸が甘く疼いた。なんだ、あいつ。前まであんな事しなかったじゃねぇか。ケツを蹴り飛ばすのがルーチンだったぞ。


 胸板に残るアメリアの感触に戸惑った。つい数秒前まで心地の良い重みが押し付けられていた。彼はカーキ色のミリタリージャケットと黒いTシャツを撫でた。すると服から彼女の芳香が漂った。汗とマグノリアのコロンが混じった芳香を吸い込む。鼻腔から体内に侵入した芳香は、火で炙ったマシュマロのように彼の心をぐんにゃりと溶かす。


 イポリトは天井を見上げTシャツを握り、瞳を閉じた。


 暫くして鼓動を落ち着かせるとリビングで彼女を待とうと考えた。ブーツを脱ごうと俯く。するとジーンズの股間部がテントを張っている。項垂れたイポリトは玄関で素数をひたすら数えた。


 二五七まで数えた所で着替えたアメリアが駆け寄った。アイギパーンのタンクトップに着替えた彼女にイポリトは鍵を返して貰うと、夜の街へ繰り出した。アメリアが行きたがっていたのはステュクスだったので、食事をしてから向かう事にした。


 開店したばかりのパブでシェパーズパイを食べていると、微笑んで咀嚼していたアメリアが突然表情を歪めた。


「あんだぁ? 腹でも痛くなったか?」イポリトはビアグラスをテーブルに置いた。


 アメリアは暫く俯いて黙っていた。しかし『大丈夫』と小声で言うと小皿に盛ったシェパーズパイを口にした。左頬が膨らむ。彼女はシェパーズパイを左頬に入れ咀嚼していた。


 指串刺しの次は虫歯かよ。イポリトは鼻を鳴らす。


「明日、休みだろ? 歯医者行けよ」


「ヤダ! 死んでもヤダ!」


 アメリアは首を想い切り横に振るが虫歯に響いたらしい。苦悶の表情を浮かべて右頬を押さえた。しかし抑えた事により患部が圧迫され涙を流した。


 イポリトは溜め息を吐く。


「動作するだけで痛むなんて相当悪化してんぞ。総入れ歯になる前に行っとけ」


「ヤダ! この前病院行ったもん!」


「アレは指にミシン針刺したから行ったんだろーが。今度は歯に穴が空いてんの。お分かり?」イポリトはアメリアの額を指で弾いた。


 虫歯に響いたようでアメリアは苦悶の表情を浮かべる。しかし堪える。


「……お医者嫌い。あたしばっかりヤダ。イポリトお医者に行かなくてずるい」


「ずるいって阿呆か」イポリトは豪快に笑った。


「何よ」


「……俺だって健康管理の一環で医者行っとるわ。健康管理も仕事の内だ。行け」イポリトは鼻を鳴らした。


「イポリトはいいな。虫歯が無くて」アメリアは頬を膨らませた。


「これでも定期的に歯医者行ってんぞ。まあ虫歯なんてこさえた事一度もねぇがな」


 俯いたアメリアは『ずるい』と呟くとシェパーズパイを口にした。


 二柱はパブを出てステュクスへ向かった。




 パンドラがいつも通りの笑顔で二柱を出迎えた。店内には客は誰も居ない。イポリトはカウンター席に腰をかけるとサンダークラップを頼んだ。アメリアは虫歯に響くようなので何も頼まなかった。


「茶ぁくらい頼めよ。何の為に来たんだよ」


 イポリトはアメリアを窘めた。彼女はイポリトの腕を引くと店奥を指差した。


「んだよ?」


「行って」アメリアは微笑んだ。


 イポリトは腰を上げ、薄暗い店の奥へ進む。眼前には大きな物が鎮座していた。薄暗さに眼が順応するとイポリトは眼を見開いた。眼前には古ぼけたアップライトのピアノが鎮座していた。


 腕木を撫で鍵盤に触れる内に彼は想い出した。青白く光る不思議な瞳が潤む。二度と会う事はないと想っていた物に再会した。眼前に鎮座していたのはティコと共に弾いたアップライトピアノだった。


 イポリトの頬に涙が伝った。


「演奏をお聴かせ下さい」


 振り返るとパンドラとアメリアが微笑んでいた。


 鼻を鳴らしたイポリトは椅子に座した。また触れられるなんて想ってもみなかった。正に青天の霹靂サンダークラップだ。気が遠くなる程にあの曲を弾いてねぇ。それでも俺の指や耳は覚えてるのだろうか。


 イポリトは鍵盤に指を添えて一呼吸すると静寂を破った。押し込めていた感情が走り出す。相変わらず片手三拍子と四拍子には泣かせられる。でも今はそれすら心地良い。鍵盤に指を走らせる度に戦地から帰国した事やティコとの想い出が甦る。


 あれから大分時が過ぎた。でも俺の中でずっと時は止まっていたんだな。今、お前を弾けて良かったよ。再び出会えて良かった。


 想いの丈を愛する『幻想即興曲』にぶつけ、ピアノと対話した。


 胸の内を吐露するように曲が終息すると背後から拍手を贈られた。長い溜め息を吐いたイポリトが振り向くとティコが佇んでいた。壁に寄りかかった彼女はあの頃の姿のまま拍手を鳴らしていた。イポリトは鼻を鳴らした。


「指が少しもたついたようだけど、あれから少しは弾いていたようだね」ティコは悪戯っぽく微笑んだ。


「お前がピアノを持ってっちまった所為で大分腕が鈍ったわ」椅子から立ち上がったイポリトはカウンター席に座した。席にアメリアは居らずパンドラもいなかった。カウンターには先程注文したサンダークラップが置かれていた。


「あいつら仕組んだな」イポリトは鼻を鳴らした。


「そのようだね」


 ティコは隣に座すとグラスを傾けた。


 二柱は暫く無言だった。しかしサンダークラップを呷るとイポリトは静寂を破る。


「……なんであの時ピアノを持って行った?」


 ティコはカクテルを一口飲むと口を開く。


「ピアノが寂しいって悲鳴を上げていたからさ。……それに戦時中だろ。大陸間相互不干渉たぁ言え明日をも知れない状況だ。預かったんだ」


「預かったって……よく言うぜ九十年も返さずに」イポリトは鼻を鳴らした。


「九十年経ったからさ」


 ティコは悪戯っぽく微笑む。


「新米のくせによく戦争になんて参加したもんだ」


「ハデスから辞令がきたんだよ。じいさんと嫌々向かったわ」


「噂は聞いたよ。アレスの戦車を辻馬車代わりにして死神の仕事を円滑にしたそうだね。それに戦場のど真ん中で神々集めてイポリト劇場を開いたって。……あんな悲惨な仕事の最中、救われた奴は多かっただろうね」


 イポリトは鼻を鳴らした。


「……よく気張ったよ、イポリト」ティコは微笑んだ。


「うるせぇ。クソばばあ」仄かに頬を染めたイポリトはそっぽを向いた。


「クソは余計だよ、クソ坊主」


「うっせクソばばあ」


 イポリトは会話に違和感を覚えた。『クソばばあ』と言うとティコは『クソじじいだっつってんだろ』と返す。それが通常のやりとりだ。


 イポリトはティコを見据えた。


 ティコは微笑むと天井を仰いだ。そして溜め息を吐く。


「……私、結婚するんだ」


 暫くティコを見つめるとイポリトは微笑む。


「おめでとう」


 悪戯っぽく笑ったティコは溜め息を吐く。


「なんだい。映画みたいに泣いて止めてくれると想ったらあっさり祝ってくれるじゃないか」


「九十年も経ちゃ心の整理もつくさ。だからアメリアの世話を頼んだんだ」


「そうかい、そうかい。なーんだ、勿体振って損したわ」ティコは豪快に笑った。


「昔恋慕ったロクサーヌは相変わらずおっさんみてぇだな。お前の旦那は奇特な男だよ」


「同じ育て屋の男なんだ。無論子供は望めないが、同じ悩みを持つ神同士気が楽だよ。……お前さんは相変わらず売春婦相手かい? 気になる女はいないのかい?」


 イポリトは苦笑する。


「それも筒抜けかよ。……俺、こんなんだし当分いいわ」


 ティコはイポリトの額を指で弾いた。


「いてっ。何すんだよ、クソばばあ」


「いつまでお前さんはシラノ気取りだい!?」ティコは語気を荒げた。


「俺はメソメソ詩も詠んでねぇし、天下無双の剣客でもねぇよ」


 ティコはイポリトの向こう脛を蹴り上げる。


「大馬鹿! 本当に馬鹿で阿呆でどーしょーもないね! お前さんはシラノじゃない! 私がシラノだったんだ!」


「もうどうでもいいじゃねぇかそんな事。奇特な旦那を大事にしてやれよ」イポリトは鼻を鳴らした。


 ぶち切れたティコはカウンターを拳で叩く。


「無論だとも! だがね、一つ言わせて貰うよ。シラノと同じくお前さんは天才で心優しく逞しい。だがシラノには無い勇気を持っているんだ。自分が醜いとメソメソしたシラノは死ぬ間際まで愛しい女に気付いて貰えなかったんだ。気付いて貰おうなんざおこがましいね! 伝えろ! ちゃんと伝えないでどうする!?」


「何を伝えろってんだ!?」イポリトもぶち切れた。


「愛を自分の声で、その姿で伝えないから悲劇になったんだ! だからロクサーヌは修道院でメソメソ暮らす羽目になったんだ!」ティコは再びカウンターを叩いた。


「うるせぇ! 放っておいてくれよ!」イポリトもカウンターを叩いた。


「アメリアをメソメソ暮らさせるつもりかい!?」ティコはイポリトを指差した。


「相棒の娘になんて、家族になんて手ぇ出せると想ってんのかよ!?」


「出来るね! 私が男なら襲ってるよ! お前さんは玉無しかい!?」


「阿呆で心優しくて泣き虫ボインで美人ときた! そんな女と暮らして辛抱してる俺の身にもなれよ!」


 イポリトは肩を上下させて呼吸を荒げる。想いを吐露すると嵌められた事に気が付いた。


「……クソばばあ、謀ったな」イポリトは大きな溜め息を吐いて項垂れた。


「大人を舐めるんじゃないよ、クソ坊主」


 ティコは鼻を鳴らす。


「お前さんに監視を頼まれた時には気付いていたさ。私の他にそこそこの地獄耳を持つ男神は居る。そいつらに頼まないで喧嘩別れした私を頼ったんだ。その時分かった。お前さんは自身の心に気付いていないようだったがね」


 イポリトは舌打ちした。


「大事な女だから他の男に横取りされたくないんだろ。だったらさっさと振り向かせな。家族は家族でも、夫婦も家族だ」


 ティコは鼻を鳴らすとカクテルを呷った。そして紙幣をグラスの底に挟むと『ごっそさん』とステュクスを後にした。


 するとカウンターからパンドラがひょっこりと現れ、紙幣とグラスを回収した。


「……んだよ。パンドラの姐さん隠れてたのかよ」イポリトは項垂れたまま独りごちた。


 パンドラは淑やかに笑う。


「まあ。私はホムンクルスで御座いますよ。瓶である店から外へは出られませんもの」


 イポリトは苦り切った顔を上げる。


「……そうだったな」


 パンドラはふふふと笑う。


「ご安心を。愛しいアメリア様は既にここを出ていらっしゃいます」


「そりゃどーも」


 イポリトは鼻を鳴らすとカウンターに紙幣を置きステュクスを後にした。


 歪んだ空間と河の護岸を透過したイポリトが抜ける。管轄区に戻った。護岸の側に設えられた鉄製の黒いベンチにアメリアが座していた。イポリトは眼を細める。街灯の青白い光に照らされた彼女は儚げで美しかった。


 イポリトはベンチに近付くとアメリアの隣に座した。


「……ティコと仲直り出来た?」アメリアは微笑んだ。


「また大喧嘩してやったわ」イポリトは鼻を鳴らした。


 アメリアは眉を下げた。


「ンな顔すんなって。あいつとはいつも喧嘩してんだ。仲良く喧嘩してんの」イポリトはアメリアの頭を掻き撫でた。


 虫歯に響いたのかアメリアは表情を歪ませた。イポリトは豪快に笑った。彼女は暫く渋い顔をしていた。


 笑い疲れたイポリトは溜め息を吐く。


「……あいつ結婚するみてぇだぞ」


 アメリアは眼を見開きイポリトを見据える。


「嘘! だってイポリトはティコの事……」


「やっぱりお前の仕業か」イポリトはアメリアの両頬を摘まみ引っ張った。


 虫歯に響いたアメリアは眼を白黒させた。


「お前とパンドラの姐さんが画策したんだな。だが残念だったな。恋って奴はそうそう巧くいくモンじゃねぇんだ。エロスになった気になんなよ」


 歯痛に限界がきたアメリアはイポリトの向こう脛を蹴り飛ばした。イポリトは彼女の頬から手を離し悶絶した。


「痛いでしょ馬鹿!」


「……俺の方が痛いわ」


 歯痛と恋愛成就してやれなかった悔しさでアメリアは眉を下げる。するとイポリトが彼女の肩を抱く。


「気に病むなよ。九十年も前に終わった恋だ。引きずっちゃいねぇよ」


「……でも」


「俺はシラノじゃねぇんだ」


「……シラノ?」アメリアは小首を傾げた。


「帰ぇるぞ。『シラノ・ド・ベルジュラック』見せてやる。久し振りに独り芝居やってやろうじゃねぇか」立ち上がったイポリトはアメリアに手を差し伸べた。


 大きな手にアメリアは戸惑った。彼女は頬を桜色に染めるとイポリトの手を取って立ち上がった。


 穏やかに流れる河は二柱の足音を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る