二章 四節


 翌日、午前中だけの仕事を終えるとイポリトはティコを振り切り黒い翼を広げて街を出た。以前ローレンスが追いかけて来た田舎道の真上を彼は飛んだ。亡き母と共に住んでいた町を越え母が眠る山の平へ着地した。平の花畑は今が盛りのようで美しかった。


 翼を背に収めたイポリトは花畑を分け入り、最愛の母の亡骸を探す。幼い彼の腰を背の高い花が隠した。ローレンスと一緒に弔ってから来てなかったな。随分久し振りだ。遠くの国へ行く前に挨拶しておきたい。例えここに母ちゃんの魂が居なくても。


 花の茎を優しく分け入り母の亡骸を探しているとイポリトの爪先に何かが当たる。軽い音がした。イポリトは花を分け入り地面を覗いた。土色に染まった頭蓋骨が爪先に当たっていた。リンダの遺骨だ。


「……母ちゃん」面影すら浮かばない様になったリンダの遺体にイポリトは触れた。彼は生まれて初めて人骨に触れた。


 ああ、これが『死』なんだな。死ぬってこういう事なんだな。……ローレンスが島へ魂を送っても、肉が腐って骨だけになるんだ。温かくて柔らかかった母ちゃんじゃなくなるんだな。


 イポリトは溜め息を吐くと、雲一つ無い空を仰いだ。


 俺が触れた人達も数日後には死んで腐って骨になるんだな。こうなっちまうのなら……母ちゃんの亡骸を放っていたあいつの気持ちも少し分かる気もする。


 ……でも亡骸に魂は宿っていなくても、弔いが自己満足だとしても、やっぱり死者は弔うべきだ。残された者の心を慰める為に、死んだ魂の記憶を生きている人に刻む為にやるべき事なんだ。


 長い祈りを捧げるとイポリトは最愛の母に話しかける。


「なかなか来られなくてごめんな。遠くの国に引っ越さなきゃいけねんだ。もう二度と来られないかもしれねー。寂しい想いさせてごめんな。……俺、立派な死神になるよ。自分の為じゃなくて人の為に生きる。ずっと愛してる。愛してるよ、母ちゃん」


 その晩帰宅すると、虚ろな瞳で荷物をまとめるローレンスに声を掛けられた。


「……お帰り、イポリト。ティコが君を褒めてたよ。『私を撒くたぁ先が楽しみだ』って」


 イポリトは鼻を鳴らすと自室へ下がった。


 翌日、夕方までの仕事を終えたイポリトは再びティコを撒いた。そして三人の女に別れを告げる為に夕闇に包まれた路地裏をひた走った。これから男相手の仕事を控える女達は気怠そうにシガーを吸っていた。三人の女の足許には小さな黒い塊が蠢いていた。


「可愛いイポリトが来たよ」


「モリーの愛しい愛しい男が来たよ」


「うるさいね。おだまり」


 モリーは二人の女を窘めるとイポリトに問う。


「どうしたんだい。こんな時間に来るなんて珍しいじゃないか」


 イポリトはポケットに両手を突っ込み、口をもぞもぞと動かしていたが意を決す。


「……別れを言いに来た。遠くへ引っ越すんだ」


 モリーの表情が一瞬凍り付いた。しかし彼女は瞳を伏せて微笑む。


「……随分と突然だね。残念だ。……短い間だったけど楽しかったよ」


「……ん、俺も。モリー達に出会えて良かった」イポリトも俯いた。


「いつ発つんだい?」


「ん、明日の朝」


「そうかい……」


 二人の間を沈黙が支配した。


 彼らは互いの顔を見ないように努めていた。しかし足許で小さな黒い塊が『にー』と鳴き、沈黙を破る。モリーは黒い塊を抱き上げた。黒い子猫だった。


「可愛いな!」イポリトは顔を綻ばせた。


「母ちゃんに捨てられたみたいでカラスに目ん玉突っつかれてたんだよ。イポリトみたいにチビ助だから誰かが世話しなきゃならないね。……でも店じゃ飼えなくて困ってるんだ」モリーは黒猫の耳の後ろを掻いた。黒猫は片眼に包帯を巻かれていた。


 母ちゃんがいないのか。イポリトの胸中で子猫と自分の姿が重なる。


「……俺が飼うよ!」イポリトは子猫を抱くモリーに手を差し出した。


 驚いたモリーはイポリトを見つめる。


「いいのかい? 引越しするんだろ? それににーさんが猫苦手だったらどうするんだい?」


「俺が飼う! 俺の嫁さんって言えば許して貰える……と想う!」


 三人の女達は豪快に笑う。


「やられたね、モリー!」


「子猫に男を横取りされたね!」


「うるさいよ、あんた達!」モリーは二人の女達を窘めた。


「な、お願いだよモリー。大切にする。誰よりも大切にするから!」イポリトは懇願する。


 モリーはイポリトを見つめていたが子猫を彼の腕に抱かせた。


「男に二言があっちゃいけないよ」


「ん!」破顔したイポリトは子猫に頬を寄せ、声をかけてあやした。


 モリーは悲しそうに微笑み小さな声で独りごちる。


「……『誰よりも大切にする』なんて言葉、成長したあんたに言われてみたかったね」


「ん? 何?」子猫に頬をすり寄せていたイポリトはモリーを見上げた。


「なんでもない。誰よりも大切に……幸せにしておあげ」モリーはイポリトの頭を撫でた。


「ん!」イポリトは満面の笑みを向けた。


 三人の女と別れを告げるとイポリトは子猫を優しく抱いて路地裏を出た。路地裏の出口ではティコが佇んでいた。彼女は男物の外套のポケットに両手を突っ込んで待ち構えていた。


「げ。クソばばあ」イポリトは立ち止まる。


「クソばばあじゃねぇ。クソじじいだろ、クソ坊主」ティコは片手をポケットから出すとイポリトの額を指で弾いた。


「どうしてここに俺がいるって分かったんだよ」イポリトは痛みに顔をしかめる。


「うん? 言ってなかったっけか? 私もお前さん程ではないが耳が良いんだ。地獄耳って能力らしいね」


「……それで俺を尾行したのか」イポリトは舌打ちした。


 腕の中で子猫が鳴いた。


「なんだい。子猫かい」ティコ子猫を見遣った。


「違う。俺の嫁さん!」


 ティコは腹を抱えて笑う。


「猫と死神は結婚出来ないよ、クソ坊主」


 イポリトは首を横に振る。


「する!」


「じゃあ愛しい嫁さんの名前は何て言うんだい? 結婚してるなら知ってるだろう?」ティコは悪戯っぽく微笑んだ。


 腕の中の子猫を真剣に見つめイポリトは思案した。名前なんて考えてなかった。どうしよう。真っ黒。綺麗なモリーの髪みたいだ。


「……モリー! 俺の嫁さんはモリーってんだ!」イポリトはティコを見据えた。


「ほーん。んじゃ、一緒の部屋に住んで一緒のベッドで眠るこったね」ティコは踵を返し歩む。


「ん!」イポリトは子猫のモリーを抱き直すとティコの後を追いかけた。


 その晩イポリトはモリーをベッドに入れて眠った。小さなモリーを潰さないように枕許に寝かせた。温かいモリーはふにゃふにゃと柔らかく儚げだった。そんなちっぽけなモリーに愛しさが込み上げる。


「愛してるよ、モリー。俺の大事な嫁さん」


 安らかに眠るモリーの口にキスを落とすとイポリトは眠りについた。


 引越しの日、窓から差し込む朝日に瞼を照らされイポリトは目覚めた。支度をするローレンスやティコの慌ただしい足音や声がドアの向こうから聞こえる。


 枕許ではモリーが安らかに眠っていた。慈愛を込めた眼差しでイポリトはモリーを見つめ、丸まった小さな背を撫でた。しかしそれだけでは彼の愛は満たされない。モリーの全身を眺めて抱きしめたい欲に駆られた。イポリトはそっとモリーの前脚を抱き上げ朝日の下へ掲げる。


「モリー、今日も可愛いね」


 眼を細めて愛しい伴侶をイポリトは見上げる。しかしある物が視界に入る。安らかに眠るモリーの股間には見慣れた物が付いていた。自分の体にも付いている物だった。産毛に包まれた可愛らしい玉が愛しい伴侶の股間に付いていた。


 イポリトの部屋からこの世の終わりのような悲鳴が響き渡った。


 驚いたローレンスとティコは部屋に駆けつけた。すると金玉付きの子猫を掲げたまま背から倒れたイポリトが二柱の眼に入った。イポリトは白眼を剥いて気絶している。


 昨日の仔細を知っているティコは腹を抱えて笑い転げた。何も知らないローレンスは子猫を離してやるとイポリトの介抱をした。ティコはイポリトの頬を軽く打つローレンスにイポリトと雄猫モリーの婚姻関係について話した。虚ろな瞳をしていたローレンスは眼を細め、失笑した。




 三柱は幾日も掛けて海を渡りティコの管轄区がある国へ着いた。片手でモリーを抱き新居に荷物を入れるイポリトは、リビングにある大きな黒い箱を見つけた。不思議な魅力を放っていた。まるでイポリトを呼んでいるようだ。


 提げていた荷物を放ると大きな黒い箱に近付いた。箱には無数の白い棒と黒い棒が並んでいる。きっちり並んで歯みたいだな。面白ぇな。イポリトは棒に触れた。すると指に押された棒が箱に沈み、音を立てた。イポリトは肩を瞬時にあげた。


「ピアノに興味があるのかい?」背後でティコの声がした。


「……ピアノ?」イポリトは振り返る。


 ティコは悪戯っぽく微笑むとピアノに近付く。椅子に積まれていた楽譜を開き、譜面板に立てる。そして『退いてな』とイポリトを後ろに下がらせ椅子に座した。彼女は軽く一呼吸すると鍵盤に指を走らせ『英雄ポロネーズ』を弾いた。


 軽やかに誇らしく鍵盤を走る、白く美しい指をイポリトは瞳を輝かせて見つめた。耳を澄ませ、絶対に忘れまいと真剣に音楽を聴いた。すげぇ。箱が歌ってる。指ってあんなに速く動かす事が出来るんだな。綺麗だ。音もティコの指も綺麗だ。イポリトの腕は粟立った。


 演奏が終わるとイポリトは『もっと箱を歌わせろ』とせがんだ。ティコは唇の片端を吊り上げて笑むと、立て続けに『紡ぎ歌』『ラ・カンパネラ』『主よ、人の望みの喜びよ』を弾いた。


 久し振りにピアノに触れたティコは椅子の背に凭れて溜め息を吐いた。


「すげぇ! すげぇな! ティコってすげぇ! 箱を歌わせれるんだな!」イポリトは手放しで賞賛を贈った。


 ティコは椅子の背凭れに頭を預けたまま、イポリトを見遣る。


「……坊主もピアノを歌わせてみたいかい?」


 イポリトは瞬時に頷いた。


 身を起こしたティコは譜面板に立てかけられた楽譜をイポリトに渡した。イポリトは五本の平行線に並んだオタマジャクシの化け物を渋い顔で見つめた。


「何これ?」腕を組んで脚を広げるティコをイポリトは見上げた。


「ピアノの歌の字だ。読めるか?」ティコは悪戯っぽく微笑んだ。


「読めねぇ」


「ピアノの歌の字も、死神文字もギリシャ文字もこの国の言葉も覚えなきゃ何も出来ない。何をするにもまず『言葉』ありきだ。歴史を知るのにも音楽を知るのにも、演劇を知るのにも人の心を知るのにも『言葉』が必要だ。『言葉』があれば昔を知り、今を見つめ未来を紡ぐ事が出来る」


 イポリトは楽譜を見つめた。死神文字とかギリシャ文字とか書けなくても今まで何とかなってたけど……字や座学って大切な物だったんだな。


「な、ティコ。頼みがあんだけどよ……」イポリトはティコを見つめた。


 鼻を鳴らしたティコは悪戯っぽい笑顔を向けた。


「紙とペンを持って来な。死神文字もギリシャ語もピアノの歌の字も全部教えてやる」


「ん!」嬉々としたイポリトは勉強道具を荷物から取り出しテーブルに広げた。


 二柱が座学に夢中になっていると痩躯を汗塗れにしたローレンスがふらつきながら現れた。


「……休憩も良いけど搬入手伝ってよぉ」彼は溶けかかったアイスクリームのようだった。


 イポリトとティコは顔を見合わせて笑うとローレンスの手伝いをした。

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