二章 五節

 ティコが睨んだ通りイポリトは賢い少年だった。要点を搔い摘んで説明すれば直ぐに理解した。意地悪なティコは基本を説明した直後に応用問題を解かせた。イポリトは少し思案すると機転を利かせて問題を解いた。


 やはり、やる気が無いだけだったんだな。問題を解くイポリトを見遣りティコは鼻を鳴らした。


 一日で死神文字をマスターし、ものの半月でギリシャ語をマスターした。イポリトはティコから管轄地区の言語や文化、楽譜の読み方、運指を教わった。仕事を終え帰宅すると真っ直ぐにピアノに向かいブルクミュラーの二十五の練習曲をさらった。夕食を終え、座学を終えると美しく愛しいモリーと戯れた。


 ティコはそれを横目にハデスへの報告書をしたためていた。教育係である育て屋や次世代の死神を持つ父母はハデスに教育過程の報告書を送らなければならない。


 モリーと戯れていたイポリトは、ティコの手許の書類を覗き込んだ。


「こら。見るんじゃない、クソ坊主」ティコはイポリトの耳を引っ張った。


「『イポリトは学力も低く、向上心が甚だ乏しい』って、酷ぇな!」成猫になったモリーをイポリトは抱きつつティコを睨む。


「『お利口さんですよー』なんて書いたらピアノ教われなくなるぞ。賢いお前さんは語学を修めた時点で立派な死神なんだ。本来なら私はお前さんを突き離さにゃならん。だから嘘こいて『馬鹿だ、阿呆だ、どーしょーもねぇ』って書いてんだよ」


 イポリトは悪戯っぽく微笑むとティコに問う。


「何? 俺と一緒に居たいって? ティコは俺の事好きなの?」


 ティコは鼻を鳴らし答える。


「ああ好きさ。クソ坊主は面白いからな。棹付きモリーと結婚してるし」


「うるせぇクソばばあ」


「クソじじいだっつってんだろ」


「うるせぇクソ」


「んだと? クソ」


 二柱は鼻を鳴らすとそっぽを向いた。


 ある晩イポリトが仕事を終え帰宅するとモリーが消えていた。日中外に出しているがモリーは彼が帰宅するまでには猫用出入り口から家に入る。そして玄関で彼を出迎えるのが日課だった。しかしその晩モリーは居なかった。イポリトはカーテンの後ろやキッチンの棚、ローレンスの本棚を探した。更には膝を抱えて椅子に座し虚空を見つめるローレンスの腹と膝の間も探した。しかしモリーは居なかった。


『放っておいてやれ』と言うティコの制止を振り切って、イポリトは夜の街に飛び出した。モリーを探した。路地裏、広場、茂みの中、モリーが好みそうな所を探しまわった。しかし見つからなかった。


「……モリー」


 酒場の前でイポリトは洟をすすり、爪先を見つめた。涙でぼやけて見えた。ああ、俺今泣いてんだなぁ。泣いたの随分久し振りだなぁ。


 涙を拭っていると背後から肩を叩かれた。彼は振り返った。


「気が済んだかい?」肩を叩いたのはティコだった。


「……んだよ。見んじゃねぇよ」イポリトはそっぽを向く。


 ティコはイポリトの頭を軽く叩く。


「探しても居なかっただろ? モリーは大人になったから嫁さんを探しに行ったのさ」


「……ん」イポリトは思い切り洟をすすった。


「この前勉強しただろ。生き物は大人になったら次の世代を作るって。モリーは嫁さんを探しに他の雄猫と戦う旅に出たのさ。……いずれお前さんも大人の男になるんだ。同じ男なら心の隅で応援してやりな」


 イポリトは頷くと瞼を拭った。


 その晩、イポリトの部屋から洟をすする音が絶え間なく聞こえて来た。


 ティコは自室のベッドに寝そべり瞳を閉じていた。彼女はイポリトの押し殺すような泣き声を聴きつつ彼の生い立ちを思案していた。瞼を閉じているもののなかなか眠れない。幾度となく寝返りを打つが体の納まりが悪い。


 溜め息を吐いた。モリーの腹に顔を埋めるイポリト、耳の後ろを掻くイポリトが瞼の裏側に映し出される。遠い昔に捨てた筈の感情が込み上げ、胸が甘く疼いた。


 ティコは鼻を鳴らすとベッドから起き上がる。そしてイポリトの部屋へ向かった。彼女は静かにドアを開ける。暗い部屋に眼が順応すると、ベッドにうずくまって震える毛布の塊を見つけた。彼女はベッドに入り、静かに体を横たえるとイポリトを抱きしめた。ティコの気配に気付かなかったイポリトは突然抱きしめられ驚いた。肩を瞬時に跳ね上げた彼は身を固くした。


 イポリトの頭をティコは豊かな胸に押し付ける。


「新月の晩だ。誰も見ちゃいないよ。思う存分泣きな」


 ティコは彼の背を優しく叩いてやった。闇の中で優しいリズムが刻まれる。


 気を許したイポリトは再び洟をすすった。


「……思う存分泣いたら、明日からは前を見据えて立ち上がりな」


 イポリトは顔をティコの胸に埋めて涙を流した。


 翌朝、イポリトは痛む頭を押さえつつ仕事に出た。昨夜、ベッドに入って来たティコの胸に顔を埋めて泣いていたら気持ちよくなり勃起した。いつの間にか寝息を立てていたティコの胸を揉んだ。異変に気付いたティコは目覚めて現状を把握するとイポリトの頭を想いっきり引っ叩いて自室へ戻った。朝からティコは不機嫌で仏頂面を向けていた。


 ティコはいつまでもそれを根に持っていた。従って時々仕返しをした。部屋を片付けてやっては彼が隠していた猥褻な小説に棹付きモリーの絵を描いてやったり、金を貯めて買ったヌード写真の裏に胸の批評やゴムの使い方を書いたり悪戯をしてやった。思春期に差し掛かろうとしていた少年イポリトの心は抉られた。


 モリーが家を出てからイポリトの体は急激に成長を始めた。毎日成長痛に悩まされ背が伸び、喉仏が出て声が低くなり、可愛らしかった顔は厳つくなった。その為、街を歩くと通りすがりの人間に睨まれたと文句を付けられ喧嘩に巻き込まれる事もあった。


 ピアノを教える傍らティコは武術や喧嘩の仕方を叩き込んだ。負けっぱなしの喧嘩は嫌だとイポリトは意欲に燃えた。筋が良く直ぐに師であるティコと対等に渡り合えるまでに成長した。彼の腹直筋が六つに浮き出て僧帽筋が盛り上がった。彼は少年から男へと変貌した。


 酒もティコに覚えさせられた。二柱は歪んだ空間にある『ステュクス』へ足繁く通った。彼らの姿を見る度に美女バーテンダーのパンドラは微笑んで迎えた。


「しかしなんでティコが武術なんて知ってんだよ。お前、一応体は女だろ?」カウンターでバーボンのグラスを傾けイポリトが問う。背の高い彼はティコを横目で見下ろした。


「女だからこそ知ってるんだ。女が男と同じ事をしようとすれば絡まれるからな」ティコは頬杖を突いてイポリトを見上げた。普段うわばみだが珍しく頬を染めて瞳を潤ませていた。


 綺麗だな。綺麗なのになんで……。


 ティコを見て頬を染めたイポリトはグラスに視線を落とす。


「……なんで男の成りなんてすんだよ?」


「さあね。随分昔の事だから忘れちまった」ティコは鼻で笑った。


「お前は都合の悪い事をそうやって誤摩化す。本当に可愛くねぇなこのクソばばあ」


 鼻を鳴らしたイポリトはいつもの『クソじじいだっつってんだろ』と言う台詞を待っていた。しかし返事が無い。ティコを見遣ると彼女は頬杖を突いたまま眠っていた。


 パンドラは淑やかに微笑む。


「まあ。丁子様が酔われるなんて珍しい。イポリト様、レディのエスコートをお願い致しますね」


「レディなんて柄かよ。ご馳走さん。面倒だけど背負って帰るわ」


 イポリトはコインをカウンターに置くとティコを背負いステュクスを後にした。


 帰宅するとティコの部屋のベッドに彼女を下ろした。安らかに眠っている。イポリトは彼女にブランケットを掛けるとベッドに腰を下ろす。枕許のライトに照らされた美しい寝顔を見下ろす。彼女の刈り込まれた短い髪を大きな手で撫でた。


 するとティコの瞼がピクリと動いた。イポリトは瞬時に手を引っ込めた。


「……ん」目覚めたティコは状況を把握しようと瞳を動かす。


「酔って寝ちまったんだ。家まで運んで来た」イポリトは鼻を鳴らした。


「……ご苦労さん」ティコは瞼を擦った。


 立ち上がったイポリトは部屋を後にしようとした。しかしティコに引き止められる。


「襲わないのか?」


 振り返らずにイポリトは答える。


「襲って欲しいなら襲うぜ。……どうする?」


 ティコは笑う。


「それを聞くたぁ、まだまだお前さんも坊やだね」


「うっせ」イポリトは鼻を鳴らした。


 ティコは小気味良く笑うと溜め息を吐く。


「……明日、私はここを発つ」


 イポリトは振り返った。


「……お前さんはもう立派な死神だ。『死』に触れ、仕事に真摯に向かうようになった。ゴロも巻ける。慣れ親しんだだろうし管轄区もピアノも譲ってやる。……この前ハデスに書類で怒られたんだ。教育期間が長すぎるって。今回はちっとばかし楽しかったからな」


「……もう一緒に居られねぇのか?」


「居られる訳ないだろ、夫婦じゃねぇんだから。男同士でもお前さんとローレンスは特別なんだよ。監視役と対象なんだから」ティコは笑った。


 イポリトは歩み寄るとベッドの前に屈み、ティコの手を取り掌にキスを落とす。


「じゃあ夫婦になれば良い」


 声を失ったティコはイポリトを見つめていたが瞳を伏せて首を横に振る。


「……ダメだ」


「愛してる」イポリトは彼女の手を強く握り締めた。


 ティコは首を横に振る。


「ダメだ。私は誰とも夫婦にならない」


「何でだよ」イポリトは問うと唇を引き結んだ。


 長い溜め息を吐いたティコは虚空を見上げる。


「以前、言っただろ。生き物は大人になったら次の世代を作るって。私はそれが出来ない。女の機能が備わっていない。生家でも私が男じゃないと落胆され、次世代を生めない体だと死神の親父に知られると哀れまれた。私は男でも女でもない。だから……せめて独りでいるんだ」


「それでも俺はお前と居たい!」


 ティコは微笑むとイポリトの手を退ける。


「……互いに不幸になるのはやめよう。私はヒュプノスの育て屋として生きて死ぬよ。気が遠くなるけれどもノルマをこなせば死は認められる。早く死ねるように祈っててくれ」


 イポリトは大きな肩を震わせつつティコの部屋を後にした。ティコは長い溜め息を吐くと、瞳を閉じた。瞼から一筋の涙を頬に伝わらせた。

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