二章 三節


 翌日からイポリトは涙を見せなくなった。泣いたって仕方が無い。一秒でも早く立派な死神になろう。とっとと役目を終えてローレンスに母ちゃんの許まで送って貰おう。


 イポリトは死神の仕事を教えて欲しいとローレンスに頼んだ。しかし眉を下げてローレンスは断った。自分は死神でもイポリトとは種類が異なるのでエンリケに教えて貰いなね、とローレンスは諭した。


 イポリトはエンリケに対して腑が煮えくり返っていた。しかし大人になった。彼は自室の椅子に凭れて酒を浴びるように飲むエンリケに頭を下げた。『人殺しなんて言って悪かった。仕事を教えてくれ』と願い請うた。鼻を鳴らしたエンリケは息子を一瞥し、立ち上がると『付いて来い』と声を掛けた。


 その日から死神ヒュプノスの見習いとしての生活が始まった。遠くまで聞こえる特別な聴力や爛れた右手の使用法、禁忌、壁のすり抜け方、翼の出し方や飛び方をイポリトは実地で叩き込まれた。エンリケは帰宅すると息子と共に自室に籠もり、遅くまで死神文字やギリシャ文字、神話、母国語、算術、他神族思想を叩き込んだ。エンリケの片手はいつも酒瓶を握り締めていた。


 イポリトは実地が得意で知恵は回る方だった。しかし物覚えは悪かった。特に母国語以外の書き取りや読み取りが苦手だった。文書を読み報告書を記さなければ仕事が出来ない。文法、算術を間違える度に大男のエンリケに腹や背を酒瓶で殴られ蹴り飛ばされた。イポリトは椅子から床に転がり落ちる。泣き声をあげるものかと唇を引き結び、エンリケを見上げ睨んだ。エンリケも凄まじい形相で睨み返す。そして大きな足で息子の腹を思い切り踏みつけた。


 だめだ。反抗すればもっと酷い目に遭う。イポリトは床に胃液を吐き出した。


 彼は抗うのを止めた。座学を嫌い、エンリケを憎んだ。


 ある休みの日、イポリトは久し振りに路地裏の女達に会いに行く事にした。家を出ようとすると、リビングの椅子で心を別世界に彷徨わせていたローレンスに引き止められた。


「んだよ?」イポリトはローレンスを見上げた。


 濁った瞳を伏せたローレンスはポケットから銀貨を三枚出してイポリトに握らせた。


「働いてもねーのに貰えねぇよ」イポリトは銀貨を突き返した。


 しかしローレンスはイポリトの手を両手で優しく包む。


「……これは君が見習いとして働いた分のお金だよ」


「だったらあいつが払うだろ」イポリトは鼻を鳴らした。


「僕があげたいんだ。……君はいつか僕の相棒になる。だから相棒として勉強をする対価だ。受取って欲しい」ローレンスは微笑んだ。


 イポリトは彼から眼を逸らし、鼻を鳴らす。そして『ありがとよ』と吐き捨て外へ駆け出した。


 花屋でブーケを三束買うとイポリトは路地裏へひた走り三人の女にブーケを渡した。


「いいのかい? 高かっただろうに」


「こんなにちっこい男から花を貰えるなんて想いもしなかったよ」


「……イポリト、この花はどうしたんだい?」モリーは腰を屈めイポリトを見据えた。


「にーちゃんから金貰って買った。働いた分の金だって」イポリトはモリーの瞳を見据えた。


 微笑んだモリーはイポリトの頬にキスをする。


「ありがとう、イポリト」


 母以外の女性にキスをされたイポリトは赤面しつつも鼻の下を伸ばした。モリーの艶やかな黒髪や白い首筋、そして豊かな胸から彼女の芳香が漂う。すげぇいい匂い。ずっと嗅いでいてぇな。


「モリー、抜け駆けは狡いよ」


「あたしもイポリトにお礼をしなきゃね」


 二人の女もイポリトの頬や額にキスをした。


 モリーと二人の女からお礼にお菓子を持たされたイポリトは帰宅した。リビングの椅子には惚けるローレンスがまだ座していた。口をだらし無く半開きにしている。イポリトは溶けかけたチョコレートやビスケットをローレンスの口へねじ込んだ。


 息苦しさに我に返ったローレンスは口へ手を伸ばす。側にはイポリトが佇んでいた。イポリトはモリーがパンを折半したように残りの菓子を自分の口へ放り頬張った。


 ぶっきらぼうなお礼にローレンスは微笑んだ。イポリトは鼻を鳴らしすと自室へ駆け込んだ。


 来る日も来る日もイポリトはエンリケの後を追いかけ、街でヒュプノスの仕事を学んだ。知恵が回り機転が利いたので直ぐに仕事を覚え、任されるようになった。前夜にハデスから遣わされた黒い女神ケールにリストを貰い、早朝から街へ出た。イポリトは死神文字で綴られたリストを満足に読めなかった。しかし仕事に出る前に優しいローレンスを揺さぶり起こしてはこっそりリストを訳して貰った。リストには死の切っ掛けを与えるべき者の名前や人相書きが載っていた。


 右手の包帯を解くとイポリトは姿を透過させ、黒い翼を広げて父の管轄区を移動する。羊皮紙の人相書きと音で覚えた名前を想い出す。該当人物の頭や体に触れて死の切っ掛けを与えた。実際にその人物の死に様を彼は目の当たりにする訳では無い。従って仕事は苦にならなかった。夜半に帰宅し、酒浸りのエンリケの部屋で語学や算術、他神族思想を学んだ。


 その日は仕事の件数が多かった。いつもよりも疲れていたがイポリトはエンリケの部屋へ向かった。そして暴力を振るわれつつも夜遅くまで死神文字を学んでいた。


 そろそろ引越さなければならない時期だった。老化しない死神は周囲の人間に不審感を抱かれる。従って十五年に一度、管轄区を変える。引越し先の新しい言語を学ばなければならない。朦朧とする意識の中、イポリトは問題を回答した。しかし綴りを間違えエンリケに腹を蹴り飛ばされた。


 眠くて苛立っていたイポリトは普段とは違う行動に出た。酒に酔い、顔を赤黒く染めたエンリケを睨みつけ唾を吐いた。


 それが癇に障ったエンリケは立ち上がると息子の胸倉を掴む。そして思い切り床に叩き付けた。室内に嫌な音が響く。イポリトの体内でも嫌な音が響いた。何かが割れる振動が脇腹に伝わる。苦痛に顔を歪ませたイポリトは仁王立ちするエンリケを仰いだ。


「それが親に対する態度か!」


 力なく床に横たわるイポリトの腹をエンリケは幾度となく踏みつけ蹴り上げた。


 物音と怒声に驚いたローレンスが部屋に駆け込む。彼は我が眼を疑った。


 そこは地獄だった。酒臭い息を吐く赤黒い顔の大男が力なく横たわる少年をひたすら蹴り続けていた。蹴り飛ばされる度に少年は血を吐き出し、顔色が青白くなる。


 大男は少年を蹴り続け罵声を浴びせる。


「不出来のクズの癖に色気だけは一丁前だな! 女に媚びへつらいやがって! 優しくて綺麗なリンダと同じ顔しやがって! 虫唾が走るわ!」


 エンリケは既にエンリケではなかった。一頭の醜い化け物だった。


「やめてよ!」ローレンスは大声を上げる。しかし頭に血が昇り我を失ったエンリケは聞く耳を持たない。


 簡単に死を許されない神とは言え、これではイポリトが植物のようになってしまう。ローレンスは痩躯に散らばっていた勇気の欠片を集め、意を決した。彼は大男のエンリケを羽交い締めにして制止を試みた。しかし儚げな体つきのローレンスはエンリケに突き飛ばされて、床に尻を着いた。


 ローレンスの瞳に映る光景は変わらず地獄だった。心の中で何かが切れる音を聴くと彼は我を失った。


 全ては一瞬だった。立ち上がったローレンスはデスクに手を伸ばし、針が剥き出しの枝付き燭台を掴む。そして背を向けてイポリトを蹴り続けるエンリケの頸椎に燭台を突き上げた。


 エンリケは大きな体を二つに折ると白眼を剥いて床に崩れた。ローレンスは気を失い、倒れた。


 翌日のリストを届けに来たケールに三柱は発見された。辺りは血の海だった。ケールは冥府に駆け戻り惨状をハデスに報告した。ハデスは魂の裁定を中断した。そして医術の神であるアスクレピオスを呼びつけ彼とケールと共に三柱の家へ向かった。


 ケールに案内された部屋は凄惨を極めていた。虫の息の少年が床に横たわる。服が捲り上がって覗く白い腹には大輪の赤黒い痣が咲いている。逞しい体を二つに折った大男も床に崩れていた。彼の頸椎から燭台が生え、夥しい量の血液が床を汚していた。


 アスクレピオスはまず少年の治療にあたった。彼はケールに助手を務めさせた。ハデスは床に倒れて意識を失っているローレンスの頬を軽く打ち、起こした。


 意識を取り戻したローレンスは忌まわしい出来事を想い出して叫び声を上げる。しかしハデスに頬を打たれて正気に戻ると周囲を見渡した。部屋には死者を甦らせる程の腕前を持つアスクレピオスがいた。彼はイポリトの治療に専念していた。ローレンスは胸を撫で下ろし溜め息を吐く。


「何が起こったのか、仔細に話してくれ」ハデスはローレンスを見据えた。


 小さく頷くとローレンスは予想や個人的な感情は一切交えずに状況を説明した。ハデスは説明を終始無言で聞いた。しかし普段穏やかな夜の海ようなハデスの瞳は怒りに燃え盛った。


「……君がそんな思い切りの良い事をするとは。しかし人の身であれば取り返しがつかなかった」ハデスは忠告した。


「あまりも酷くて我を失ってた。……もっと早くに気付くべきだったんだ」ローレンスは涙を一筋流した。


 治療を施されたイポリトは数時間後に自室のベッドで意識を取り戻した。彼はローレンスに頭を撫でられ『もう大丈夫だよ。気付けなくてごめんね』と謝られた。青白く光る瞳を動かしイポリトはエンリケを探した。


「……あいつは?」


 ローレンスは首を横に振る。


「エンリケは……冥府へ逝ったよ。エンリケを止めようとしたんだ。そしたら当然だけれども突き飛ばされた。我を失った僕は燭台の先をエンリケに突き刺したんだ。それで僕も気を失って気が付いたらハデスが居た。君はアスクレピオスに治療されていた。僕は見た事とした事を全てハデスに話した。ハデスはエンリケに治療を施そうとしていたアスクレピオスを止めた。そしてエンリケを冥府へ連れて逝った。これから彼の魂を裁定するらしい」


 長い溜め息を吐いたイポリトは瞳を閉じる。


「……終わったんだな」


「……うん。もう終わったんだ。痛かったね。辛かったね。気付けなくてごめん。恐い思いをさせてごめん」ローレンスは洟をすすり、頭を垂れた。


「馬鹿だな。なんで謝るんだよ。助けに来てくれたじゃねぇか」


「でも……」


「泣きもしねぇし叫びもしなかった俺が悪かったんだよ。泣き声あげてりゃもっと早くに気付けただろ。俺だってローレンスを頼らなかったのが悪ぃんだ。ローレンスの所為じゃねぇよ」イポリトは虚ろな瞳で微笑んだ。


 ローレンスの瞳から後から後から涙が流れ落ちた。


「本当に阿呆だな。泣かなきゃいけねぇのは俺なのに、ローレンスが泣いてらぁ」


 イポリトは鼻を鳴らすと瞳を閉じた。




 悪夢のような一夜が明けた。イポリトは枕許に寄り添っていたローレンスからハデスが綴った辞令を受け取った。


『一週間休暇を与える。その間に体力の回復に努めよ。復帰日より正式にタナトスもといローレンスの監視役のヒュプノスとして任ずる。しかし教育課程が終了していないので補佐の者を付ける。任務に励め。以上』


 堅苦しい文章で辞令はしたためられていた。しかし読み書きが不充分なイポリトにも分かり易いようにと、彼の母国語で記されていた。冥府の玉座に座し古代ギリシャ文字やギリシャ文字、死神文字にしか触れないハデスが苦心して記した物だろう。


「なんつーか、マメな男だなハデスって」イポリトは苦笑した。


「……そりゃ、泣き叫ぶ美少女を攫って冥府へ連れ込んでどうにかこうにか口説き落としたんだもの。とてもマメだよ。その上美男だし。毎日欠かさず花をプレゼントしたり膝を折って愛の言葉を囁いたり……その所為で彼はそこら辺の花屋よりも花に詳しいよ。美少女の愛を勝ち取った今じゃ良い旦那さんみたいだし」ローレンスは溜め息を吐いた。


「ロリコンだな」イポリトは鼻を鳴らした。


「そりゃ神って奴は大体がロリコンだよ。ハデスにしたってゼウスにしたって」


「……ローレンスは結婚しないの?」


「……逆に聞くけど、こんな死神らしい顔した僕が結婚出来ると想う?」


 イポリトは豪快に笑う。


「違ぇねぇ! なら俺、ローレンスの監視役をずっとしてやるよ!」


 医術の神アスクレピオスのお蔭で破裂していた内臓も折れていた肋骨も一日で完治した。イポリトは与えられた一週間の休暇中に思い切り遊んだ。仕事に出るローレンスに『お菓子ばかり食べちゃダメだよ』と小遣いを渡された。彼は以前から興味があった劇場や映画館へ向かった。大人に紛れてこっそり入った。


 劇場では『シラノ・ド・ベルジュラック』を喰い入るように観た。天下無双の剣客で芸術の才にも恵まれた醜男シラノが美女に恋をする悲劇だった。幼いイポリトは恋の何たるかを知りはしなかったがシラノはかっこいいなと想った。意地っ張りなシラノの優しい心意気が好きになった。しかし死ぬ間際に言い逃げするように美女ロクサーヌに告白したシラノのようにはなりたくない、とも想った。


 映画館は風景が流れる記録映画ばかり扱っていた。しかしイポリトは散水夫のコメディを気に入った。たった数秒ぽっちだったがゲラゲラ笑った。


 芝居っていいな! 映画って面白ぇな!


 イポリトは演劇や映画に傾倒して台詞を覚えた。面白かった場面を路地裏の女達に見せてやろうと翌日も劇場に向かっては芝居を喰い入るように観た。上演が終わると弾かれたように劇場から駆け出した。帰宅すると覚えたての台詞を吐きながらシラノやクリスチャン、ド・ギッシュを演じ、稽古を重ねた。出来に満足すると路地裏へ駆けつけ三人の女に小芝居を見せた。


 女達は笑い声と共に惜しみない拍手を小さな名優に贈った。


「巧いねぇ! よく特徴を捉えておいでだね!」


「イポリトは美男だからよく栄えるよ!」


「イポリトは役者になりたいのかい?」モリーは問うた。


 イポリトは首をひねり思案する。


「……芝居や映画のストーリーを考えるのは面白そうだな。でも俺は役者にならねぇよ」イポリトは鼻を鳴らした。


「どうしてだい?」


「違うものになるって、俺の相棒と約束したから」イポリトは歯を見せて笑った。


 休暇が終わるとイポリトは正式にローレンスの監視役のヒュプノスとして任じられた。


 初日の早朝に彼の補佐役兼教育係の女が少ない荷物を持って赴任した。名前も外見も変わっていたがとても美しい女だった。髪を短く刈り込んだ彼女は男の服を着ていた。


 女の名前を聞くとイポリトは問う。


「ティコ?」


「丁子。テ・イ・コだよ」自己紹介の度に名前を聞き返されるだろう女は溜め息を吐く。


「ティコ」


 女は深い溜め息を吐く。


「やっぱり、ここらの国の奴らは私の名前をちゃんと呼べないね」ティコはイポリトの額を指で軽く弾いた。


「痛ぇっ。何すんだよクソばばあ!」イポリトはティコを睨んだ。


 ティコは笑う。


「クソばばあたぁ、ご挨拶だね。私はばばあのつもりはない。クソじじいで結構だ」ティコはイポリトの顔を覗き込む。


「……んだよ。クソばばあ」イポリトは変わり者のティコにたじろいだ。


 するとイポリトの叫び声に起されたローレンスが寝ぼけ眼をこすってリビングに現れた。


「……イポリトどうしたの? 大声なんかだして」ローレンスは大きな眼をしょぼつかせて欠伸をする。


 ティコとイポリトはローレンスを見遣ると同時に失笑した。


「え、あ、じょ……女性がいる!」ローレンスは頬を染めた。死神然とした容貌の彼は女性から敬遠されていた。故に冥府の友人以外の女性に接するのが苦手だった。


 ティコとイポリトは腹を抱えて笑い続けた。


「な、なんだよ。なんでそんなに笑うのさ!?」ローレンスは眉を下げて狼狽える。


 笑いが止まらない二柱は彼を指差した。


「な、何? 僕が何?」ローレンスは瞳に涙を浮かべる。


「首から下!」やっとの想いでイポリトは言葉を発した。


 ローレンスは言われた通りに体を見下ろした。真っ裸だった。死神タナトスとして生を受けて以来、男所帯で暮らしてきた彼には寝間着を着て眠る習慣はなかった。


 女性のような甲高い悲鳴を上げるとローレンスは瞬時に屈み、股間を隠した。ティコとイポリトは更に笑い声をあげた。


「ご、ごごごごごめんなさい。イ、イポリトの補佐役が女神だったなんて、し、知らなかったんだ。そ、それに女性と、くくく暮らした事が無いから」ローレンスは頬を真っ赤に染めて涙声で謝った。


「いいさ、いいさ。構うものか。私を女として扱わないでくれ。短い間だけどお互い気楽にやろうじゃないか、タナトスの始祖の童貞君」


 女性に揶揄われたローレンスは更に涙ぐんだ。


 ティコとイポリトは街へ出て仕事を始めた。ティコは仕事先を回るイポリトの後を黙って従った。路地に入ってならず者に絡まれそうになった。イポリトは機転を効かせて仕事をこなした。老若男女、貴賤を問わず人々の体に触れて死の切っ掛けを与える彼をティコは見守った。


 午前中のノルマをこなし、市場でミートパイを購入し二柱は道端で並んで齧った。


「んだよ、補佐役って。全然俺の補佐してねーじゃん」イポリトはティコを見上げ睨んだ。


 ティコは大口を開け残りのパイを頬張って飲み込むと、語りかけた。


「仕事ぶりを見る限り、補佐の必要性は感じられなかったからね」


「じゃあ補佐役なんて要らねーじゃん。帰った帰った」鼻を鳴らしたイポリトはパイを齧る。


 悪戯っぽく微笑んだティコはパイ屑まみれの手をイポリトの頭に置いた。


「引き継ぎ書を見る限り、座学はからっきしダメだけど実地には向いてるようだ。その場の判断で応用を利かせている。つまりお前さんは機転が利く。決して阿呆じゃない、寧ろ頭がいい男だ」


 イポリトは頭を振ってティコの手を除けると鼻を鳴らした。


 ティコは両手をポケットに差し入れる。


「実地の仕事が出来ても完璧ではない。お前さんの仕事には重みが無いね」


「……んだよ、重みって」イポリトは顔をしかめた。


 ティコはイポリトを見遣る。


「それを考えるのが今のお前さんの仕事さ」


 昼食を終えたイポリトは午後のノルマをこなし帰宅した。いつもなら食後に座学をするが補佐役兼教育係のティコは何も教えなかった。自室に籠ったイポリトはベッドに横たわり、昼間のティコの言葉を反芻していた。するとノックの音が響く。


「んだよ」イポリトは入室を促した。


 ドアを開けたのはローレンスだった。イポリトは彼を見遣ると朝の出来事を想い出して笑った。


「やめてよ、想い出さないでよ」頬を染めたローレンスは眉を下げる。


 ひとしきり笑うとイポリトは溜め息を吐く。


「で、何だよ?」


 ローレンスは瞳を伏せる。


「引越し、三日後の朝に決まったって連絡来たから。準備しておいて。ティコの管轄区へ行くんだ。人事を管理してる神が気を利かせて仕事を減らしてくれた。三日後までにお別れを済ませておいて」


 イポリトはローレンスの瞳を見据える。忌まわしい事件があって引越しなんてすっかり忘れていた。


「……ん。分かった」

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