一章 九節


 その日の夕方、帰宅したアメリアはパンドラから借りたミシンをコーヒーテーブルに置いた。ここの所ユーリエを構ってあげられなかった。息抜きがてらにドール服を作ってユーリエにプレゼントしよう。裁縫するのは初めてだがドール服の本を図書館で借りたし、生地もパンドラから貰った。ランゲルハンス島ではニエの裁縫を眺めていたので何とかなるだろう。


 生地を裁断してしつけを施したアメリアはいよいよ縫製しようと生地にミシン針を刺した。ペダルを踏むと針が凄まじい勢いで生地を刺す。その様は圧巻でアメリアは歓声を上げた。ニエの足踏みミシンよりも速い。


 歓声を上げつつアメリアは素早く上下する針へと生地を送った。


 作業に慣れた彼女は油断していた。それが悲劇を呼んだ。生地を送っていた左手の人差し指を針に突き刺した。アメリアは叫び声を上げる。瞬時にペダルから足を離した。


 ミシン針は人差し指の爪の側にある肉を貫通していた。脈を打った指から血が手首を伝い生地に赤い花を咲かせる。頭が真っ白になった。


 痛みと恐怖に襲われ涙をこらえる。すると帰宅したイポリトに見つかった。彼はミシンの前で肩を震わせ針を指に貫通させている彼女に驚いた。イポリトは付属の説明書に眼を通し、電源を落とすとミシンから針を彼女の指ごと外した。


 アメリアは声も出せなかった。


 イポリトは最寄りの病院をネットで探してやるとアメリアの肩を抱いてそこへ連れて行った。


 診察室に通されたアメリアは丸まると太った中年の眼鏡医者に指を診せた。声も出せない程に怯えた彼女の代わりにイポリトは経緯を説明する。


「良い判断をしたねぇ。偶に同じような患者が来るんだぁ。でも大概驚いちゃって針を折って体内に入れたまま来るんだよねぇ」医者はカルテからペンを離すと手指を消毒する。


「はあ」イポリトは頬を人差し指で掻く。


「困るんだよねぇ。下手すりゃ針が血流に乗って心臓へ行くからさぁ」


 ゴム手袋をはめつつ医者はアメリアに診察台に左手を置くよう命じた。アメリアは素直に手を置く。すると医者はイポリトに彼女が動かないよう固定して欲しいと頼んだ。イポリトは『悪く思うなよ』と逞しい体で彼女の左腕と体を押さえ込んだ。


 怯えたアメリアは振り返る。自分を押さえる仏頂面のイポリトを見上げ、診察台に置いた手を見て、針の尻に指を掛けた医者を見上げた。医者は悪魔そのものだった。


「頑張ってねぇ。とっても痛いからねぇ」


 医者は嫌な笑いを浮かべると針を引っ張った。


 診察室に断末魔の叫びが響き渡った。


 処置を終え会計を済ますと、ベソをかいたアメリアはイポリトに右手を引かれて夕暮れの街を歩いた。


「しょーがねーだろ。あのままじゃ何も出来ねぇしよ」イポリトはしょぼくれたアメリアの顔を覗く。


「……ん。恐かった」アメリアは洟をすすった。


「確かにあんな太ぇ針がぶっ刺さったら恐ぇよなぁ。玉ヒュンだわ」


「……あのお医者が恐かった。悪魔よりも悪魔らしかった。……お医者嫌い」


 イポリトは豪快に笑う。


「ランゲルハンスのおっさんよりも悪魔らしいたぁ、あの医者凄ぇな」


「ハンスおじさん知ってるの?」アメリアは左腕で涙を拭う。


「ああ。ステュクスでローレンスと鉢合った時に隣に矢鱈とデカいおっさんが居てな。一言二言挨拶したぜ」


「へぇ」


「苦手な部類の野郎でな。帰って飲み直したわ。ところでお前、剣術やってたんだろ? 稽古で出来た傷もベソかいて治して貰ってたのかよ?」


「……島にはお医者は居なかったけどハンスおじさんや魔女のキルケーが魔術で治してくれた。全然痛くないし優しかったからこの世界の医術が怖いものだと思わなかった」


「恐いのは医術じゃなくてあの医者だろ」


 アメリアは中年の医者の嫌な笑みを想い出した。


「……お医者嫌い。恐い」瞳に涙を浮かべたアメリアは洟をすすった。


 イポリトは溜め息を吐く。するとヨーグルトジェラートを販売するワゴンが眼に止まった。彼は唇を尖らせ考えた。『ちょっとそこで待ってろ』とアメリアの手を離してワゴンへ向かった。


 暫くして彼は戻って来た。俯き洟をすするアメリアにジェラートを差し出す。驚いたアメリアが顔を上げると彼はそっぽを向いて鼻を鳴らす。


「……子供じゃないもん。でも、ありがと」アメリアはジェラートを受取ると微笑んだ。


 二柱は夕暮れの街のざわめきを聞きつつ、のんびり歩いた。休憩を終えて戻った生鮮食品店の店主が店先で肩を回し、遣い途中のギャルソンは紙袋を両手に抱え通りを急ぎ足で渡る。花屋の前で小型犬を連れたマダムが立ち止まり、カフェのテラスで学生の恋人達は額を突き合わせて課題を取り組む。


 先程まで恐怖に凍えていたアメリアの心は街のざわめきとジェラートの甘さに解かされた。


 二柱は交代で一つのジェラートに齧り付く。


「イポリトってさ」


「あんだよ?」


「意外と優しいよね」


「阿呆か。泣き止まねーから買っただけだ。俺が泣かせたみたいでバツが悪いじゃねぇか」イポリトは鼻を鳴らした。


「本当に素直じゃないな。へそ曲がり」


 アメリアはイポリトを見上げて微笑む。


「……イポリトとあたしって家族?」


「……家族っちゃあ家族だろうよ。俺だって随分遠いけどお前とは血が繋がってんだ。大ばあちゃんの夜を司るニュクス女神から生まれた存在なんだからな」


「そりゃそうだけどさ……監視役と対象とは言え一緒に住んでる訳だし兄妹みたいなものかなって思ってたんだけど。へそ曲がりな面倒臭い兄貴って感じが」


 頬を染めたイポリトは彼女の頬をつねった。


「何すんのよ!」


「小っ恥ずかしい事言うな!」


 口喧嘩をしつつ二柱が街を歩むと化粧品店の前に差し掛かる。イポリトに悪口を浴びせていたアメリアはショーウィンドウに視線を奪われ口をつぐむ。色とりどりのアイシャドウやチーク、花のような瓶に詰められた愛らしいマニキュアが並んでいた。


 アメリアの視線の先を見遣るとイポリトは立ち止まった。


「寄るなら外で待ってんぞ?」


「大丈夫」アメリアは首を横に振る。


「んだよ。欲しいから見てたんじゃねぇのかよ」


「また今度」アメリアは歩みを進めた。


 イポリトはアメリアの後を追う。


「あんだよ? 今買えば良いじゃねぇか」


 アメリアは唇を尖らせてブルブルと鳴らしていたが意を決し打ち明けた。お洒落に少しは興味があるがストーカーらしき者に狙われているのでやめた方がいいと思ったと。


 イポリトの表情は険しくなる。


「……悪いな。以前から俺以外の奴がお前を監視してるって知ってた」


「じゃあ休暇中なんだから側にいてよ。恐くて独りで外に出たくないもの」


「男と行動してりゃ嫉妬に狂ったストーカーが危害を加えるだろ」


「そっか……そうだよね。それにイポリトはあたしが問題起こさないように監視するだけであたしを守る為の監視役じゃないもんね」アメリアは唇を尖らせた。


 俯き瞳を潤ますアメリアの肩をイポリトは抱く。


「阿呆か。俺の相棒だったクソじじいからお前を託されてんだよ。『家族』だろ? 今は後手に回ってるだけだ。辛い想いをさせてるのは悪いと思ってる。正体が掴めなくて未だに野放しだ。極東の人脈作りの時も後任者にその件は報せていた。お前を泳がせておびき出して絞めようとしてんだが尻尾を出さなくてな」


「……イポリト、あたしを見守ってくれてたの?」


「見てはねぇよ。地獄耳使ってお前の呼吸音なり動作を聞いてるだけだ」


「どっちがストーカーだか分からないでしょ!」アメリアはイポリトの手の甲をつねった。


 イポリトは悲鳴を上げる。


 アメリアは鼻を鳴らすと手を離した。


「俺なりに捜査してんじゃねぇか。監視対象の記録を提出せにゃならんから時折地獄耳で監視してた訳だ。今日もバゲットサンド喰ってやがるとか舌打ちしたとか分かんだよ。今まではクリアに聞こえていたんだ。しかし最近になって時々ノイズが混じる」


「ノイズ?」


「ある場所が多くてな、今日はそこまで向かおうとしたんだがおっさんに捕まってな。……多分ノイズはストーカーが発する音だろうな」


「その場所って」


「百貨店の近くのデカい公園だ」




 アパートに戻り、アメリアは集合ポストを解錠する。公共料金の支払い票や新規開店バルのチラシが湿っていた。いつもよりも冷ややかなポストの奥にはフリーザーバッグに入ったクリーム色の固体があった。


「何これ」


 冷気を放ち結露したフリーザーバッグを手に取ると集合玄関の照明に翳す。イチョウ切りの人参や輪切りのセロリ、賽の目切りのジャガイモ、アサリが凍り付いている。どうやらクラムチャウダーらしい。クラムチャウダーには凍り付いた白い何かが掛かっている。アメリアはフリーザーバッグを指で押した。白い何かは半冷凍だったようで彼女の指の熱でゲルが解凍され、ブニブニと動く。


「あんだよ?」ポストの前で愚図愚図するアメリアにイポリトは近寄った。


「ご近所さんのお裾分けかな?」


 眉を顰めたイポリトはフリーザーバッグを引ったくると眺め、舌打ちする。


「……いいか? 忘れろ。これは俺が処理してやる」イポリトは声のトーンを落とした。


「え? 何? どう言う事?」


「いいから忘れろ」不機嫌なイポリトはポストを施錠すると足速にエレベーターホールへ向かう。


「教えなさいよ!」


 アメリアにジャケットを掴まれイポリトは静止する。


「……親切心を何だと想ってやがる」


「あたしだけ馬鹿みたいに分からないって酷い! 家族でしょ? 教えてよ!」


 イポリトは長い溜め息を吐く。


「……このまま警戒心も無く阿呆みてぇに動き回られても困るからな。……いいか? お前が『知りたい』ってせがむから教えるんだからな」


「何よ。勿体振らないでよ」


「十中八九ストーカーからのお裾分けだろうな。ザーメンぶっかけたんだろうよ。気持ち悪ぃ」


 アメリアの顔から血の気が引く。イポリトは舌打ちする。


「だから言いたくなかったんだよ。住所は既にバレたって事だ。上に報告してパンドラの姐さんに引越し先見繕って貰うぞ。警察に厄介にならねぇ為にも管轄区変えにゃならん。国外に出る」


「……ヤダ!」俯いたアメリアは叫んだ。


「あ?」


「引っ越したくない!」


「この期に及んでなに阿呆抜かしてんだよ! 立場分かってるのか!?」


 フリーザッバッグをフロアに落とし、イポリトはアメリアの襟首を掴み肉薄する。


「ストーカーに殺されないまでも下手すりゃ切り刻まれるんだぞ!? それでもいいのか!?」


「分かってるわよ! あたしだって恐いわよ! でも! でもでもでも!」


 アメリアはイポリトを睨み返す。


「霊に殺さた女性達はどうするの!? それに折角親友になったネイサンとこんな事で別れなきゃならないなんて嫌! 父さんとの想い出が詰まったこの街から離れるなんて考えられない!」


 瞳いっぱいに涙を溜めたアメリアは肩を上下に揺らして呼吸する。イポリトは鼻を鳴らす。


「……そのネイサンとやらがストーカーだったらどうすんだよ?」


「ネイサンはそんな事しない」


「何故言い切れる?」


「親友だもの」


 イポリトは深い溜め息を吐いた。……理由になってない。以前から意志が強いと想っていたが父親のローレンス以上に頑固者だ。こんな嫌な目に遭ってもまだ他者を信じようとする。お人好しにも程がある。


「……お前に何かあれば監視役の俺の所為になんだぞ?」


「だったらちゃんとあたしを監視しなさいよ」


 舌打ちしたイポリトはフリーザーバッグを拾うとアメリアに押し付けた。


「そこまで言うんだったら、こいつはお前に任せるからな」


 アメリアは顔を顰めた。


 部屋に戻ったイポリトはキッチンでコーヒーを淹れる。思考がまとまらない。深く物事を考えたい時やリラックスしたい時、酒の後にコーヒーを飲む習慣があった。


 金属製の一つ穴ドリッパーから滴るコーヒーを眺めていると、足音を荒げたアメリアが近付いた。


「あんだよ。うるせぇな」イポリトは横目で見遣る。


「ユーリエ知らない?」眉を下げたアメリアが問う。


「そこらに居ねぇのか? いつもリビングでコルク転がして遊んでんじゃねぇか」


「いないの」


 イポリトは眉を顰めた。ストーカーに住所が割れてるという事は家に上がられた可能性がある。面白がってユーリエを誘拐したのかもしれない。


「……おい。耳貸せ」


「何よ、それ」アメリアは顔を顰めた。


 イポリトはアメリアの耳を引っ張ると耳打ちした。


「ストーカーが連れ去った可能性もある。部屋に上がったなら盗聴器仕掛けたり、お前のパンツくすねたりのついでに誘拐した可能性もあんだろ」


 青ざめたアメリアは瞳に涙を浮かべる。


「泣くな。お前が気付いたと勘付かれたら不味い。盗聴器やカメラ云々は俺が調べるから先ずは下着や大事なモンあらためておけ。飽く迄も自然にな?」


 耳から手を離すと、アメリアは小さく頷き自室へ戻った。


 カメラを設置出来そうな所を改め、イポリトがラジオ片手に盗聴器を探しているとアメリアが戻って来た。彼女はイポリトの耳を引っ張ると耳打ちする。


「全部あった。だけどユーリエは居なかった」


「そうか。カメラは大丈夫そうだ。リビングやバスルーム等に盗聴器仕掛けられている気配はない。今からお前の部屋調べるぞ。引き続き探せ」イポリトは囁いた。


 アメリアは小さく頷いた。


 イポリトが部屋を改めていると、アメリアが駆け込んできた。


「騒々しいな」イポリトは舌打ちする。


「ユーリエの靴!」アメリアは握っていた拳を開き、見せた。掌には見慣れた合成皮革の小さなブーツが乗っていた。


「……何処で見つけた?」


「リビングのベランダ! 鍵も開いてたの!」


 舌打ちしたイポリトはリビングに駆けつける。窓の側には本が積まれ、木製の窓枠にはアクアマリン色の髪が数本付いていた。ユーリエの物だろう。窓を開け、ベランダに出るがユーリエは居ない。


 三階から見下ろす通りには人は見当たらない。違法駐車の車すら見当たらず、ひび割れたコンクリートが見えるだけだ。


 イポリトは舌打ちした。


「……ユーリエ、誘拐されたの?」背後でアメリアの悲愴な声がした。


「……いや落下して何処かへ行った可能性が高い。窓の側に本が積まれてたからな。わざわざベランダからストーカーが侵入したとしても玄関から出て行くだろ。玄関は施錠されていたし、さっき出掛けた時と様子が変わりなかった」


「じゃあ探して来る!」


 踵を返したアメリアの襟首をイポリトは掴む。


「俺が探しに行く。お前は留守番だ」


「でも」アメリアは振り返ろうとする。


「盗聴器も侵入者が入った形跡もなかった今、此処が一番安全だ。今日の所は外に出ない方が良い。後は俺に任せな。悪いようにはしない」


「……イポリト」


「戸締まりちゃんとしとけよ」


 鼻を鳴らしたイポリトは襟から手を離すと家を出て行った。

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