一章 十節


 外に出たはいいものの全く見当がつかない。イポリトは鼻を鳴らした。


 人形だからそう遠くへは行ってない筈だが、近所を探しても何処にも見当たらない。地獄耳を使いたい所だがアメリアやローレンスと違って生体では無いので音を拾えない。


 しかし大見得を切った以上、ユーリエを連れて帰らないと示しがつかない。


 イポリトは日暮れの大通りに出た。夜闇が街を飲み込み、街灯が石畳を照らす。あんな小さな物、暗くなれば見つける自信は無い。早い所見つけなければ。


 女子供の行きそうな場所は何処だろうと考えあぐねていると手を繋いだ赤毛の母子と擦れ違った。


「可愛いお人形さんだったね。でも何でフォークなんて背負ってたのかしら?」


「ヴィヴィ、あんなお人形さん欲しい! 買ってぇ」


 フォーク。人形。以前、ユーリエにフォークで刺された事があったイポリトは直ぐにユーリエだと察しがついた。母子を引き止めると人形の居場所を聞き、急ぎ向かった。


 ユーリエは橋の向こう側にある環境局の近くに居た。彼女はバロック建築のコンサートホール前の街灯下に座していた。ブーツが片方脱げた足許を見つめる彼女を街灯が照らす。人通りはあまりなく、遠くでヒールの音が聞こえるくらいだ。


「おい。探したぞ」


 聞き覚えのある声にユーリエは顔を上げた。


 息を弾ませたイポリトは手を差し出す。


「アメリアが心配してんぞ。帰んぞ」


 ユーリエはフォークを構えた。


「あ?」


 イポリトはユーリエを見つめた。幾ら嫌われていると言えど、助けに来て拒まれるのはおかしい。脱走したり救助を拒んだり、何か理由があるのかもしれない。


 屈んだイポリトはユーリエと同じ視線の高さになって問うた。


「……何処か行きたい場所があるのか?」


 ユーリエは頷くように瞼を閉開した。


 無事に保護した旨をアメリアに連絡するとイポリトはユーリエを抱いて夜の首都を歩き回った。彼女は雄弁だった。人形故に喋れないが、意に反した方向へイポリトが行こうとすると彼の手をフォークで刺した。その都度彼は短い悲鳴を上げて、道行く人に怪訝な表情を向けられた。


 ユーリエに案内され辿り着いたのは首都で有名な刃物の老舗だった。


 夜七時を過ぎ、店舗は既に閉まっていた。下ろされたシャッターを見上げていたユーリエはイポリトの顔を覗く。


「んだよ。シャッターに店は九時五時って書いてあんだろ」


 ユーリエは腕を伸ばし、通りを示した。イポリトは溜め息を吐く。


「分かったよ。だけどこの通り歩いたら泣いても笑っても帰るからな。俺は色々やらにゃならん事があんだよ。それにアメリアを放っぽっておく訳にもいかんからな」




 帰宅したイポリトはパソコンにDVDを突っ込み映画鑑賞していた。気に入った映画は幾度となく見返し、頭に叩き込む。画面の中の不貞腐れた少年を追い、イポリトはバーボンに口を付けていた。


 あの後通りを歩いたが結局何も見つからなかった。ユーリエも渋々だが帰路に着く事を了承した。しかしユーリエといいユウといい、よくベランダから落ちるものだ。


 今晩も静かな夜だ。真上の部屋で放置子の双子がベランダから落下した十年前から、ずっと静かだ。


 イポリトはグラスを呷る。バーボンを飲むと亡き相棒のローレンスを想い出す。ローレンスと仲は良好だったがあまり酒を飲む事は無かった。しかしローレンスの死亡予定日が確定した際、酒を共に酌み交わした。今晩のように静かな夜だった。


 その夜も遅くに帰宅した。イポリトがリビングに向かうと革張りの黒いソファにローレンスが座して手紙を綴っていた。コーヒーテーブルには便箋と封筒が山積している。この所ローレンスはずっと書き物をしている。彼は悪魔ランゲルハンスの契約により、死後にランゲルハンス島へ向かう事が決まっていた。冥府の雑務をこなし身辺整理を行い、親しい友人達に別れの手紙を綴るのがこの所の日課だった。


 邪魔してはならない、とイポリトは思った。しかしもう直ぐこの世を旅立つローレンスと共に居たかった。それに今日は話を聞いて欲しい気分だった。


「お帰り」イポリトに気付いたローレンスはコーヒーテーブルから顔を上げた。


 返事の代わりに長い溜め息を吐くとイポリトは赤いライダースジャケットを脱ぐ。


「一杯やるか?」


 ローレンスは大きな瞳を見開きイポリトを見つめる。しかし直ぐに破顔する。


「君が一緒に飲もうだなんて随分久しいね。振られたの?」


「うるせえ、クソじじい」


 立ち上がったイポリトはキッチンへ向かった。冷蔵庫のドアを開け瓶ビールとバーボンを取る。棚から二脚のショットグラスを出し互いの縁を摘まむ。


 女遊びが派手なイポリトがローレンスと飲むのは珍しい事だった。ステュクスで仕事の話を交えたり、パンドラと話をしたり時々外で飲む事はあった。しかし家で飲む事は滅多に無い。イポリトが記憶する限りでは九十年程前に手酷く振られた時以来だろう。


 イポリトは二脚のショットグラスを摘まみつつ、バーボンの瓶とビールの小瓶を抱えリビングへ戻る。先程まで便箋や封筒が散乱していたコーヒーテーブルは片付けられ、死神らしい面構えのローレンスが微笑んでいた。イポリトは隣に座し瓶やショットグラスを並べるとグラスにバーボンを注いだ。そしてビール瓶の口を歯に当てがい王冠を外す。小瓶をローレンスのショットグラスに当て、そのまま瓶に口を付けた。


 ローレンスはショットグラスに口を付けた。


 ビールを呷ったイポリトはショットグラスに手を伸ばす。バーボンを呷ると豪快にゲップを吐く。


「……振られたんだよモリーに」


「一緒に飲みたいなんて珍しい事を言うと思ったら……。純真な女性を泣かさないよう売春婦や好き者の女性しか相手にしなかった君が本気だったなんて。とても魅力的な女性だったんだろうね」ローレンスはイポリトを横目で見遣った。


 イポリトは二本目の瓶ビールの王冠を外す。


「モリーは神懸かって美しかった。気品があって理知的な青い瞳に憂いを秘めていたんだ」


「へぇ」


「出会った頃のモリーは痩せっぽっちだったんだよ。路地裏で行き倒れ掛けていたあいつに飯を奢ったのが馴れ初めだ」


 イポリトはビールを呷るとショットグラスにバーボンを注いだ。違う。こんな話をしたいんじゃない。残された僅かな時間で無二の相棒のクソじじいに礼を言いたいのによ。


 ショットグラスを呷ったイポリトは熱くなった目頭を押さえる。


「……喰わせてやってる内に痩せっぽっちが俺好みのエロい体つきに変わってよ。いつもの場所でモリーは俺を見かけると色っぽい声で挨拶するようになったんだ」


 違う。違うんだよ。こんな下らねぇ話をしたいんじゃねぇんだよ。


 しかし心とは裏腹に口は別の話を紡ぎ、引っ込みがつかない。


「すり寄って憂いを秘めた色っぽい眼差しで俺を見上げるんだ。ンな事されたら男なら滾るだろ? しかし、しかしだな! あいつは他に男を作って腹ボテになってたんだ。そんで男に捨てられてまた行き倒れ掛けていた。モリーが腹ボテでも俺の愛は変わらなかった。助けようと俺は手を差し伸べた。子供が無事に生まれ、薄給の俺でもモリーと一緒になって子育てしようと思ってたんだよ! 本気だった! いつもの場所で今日、迎えに行く約束をしていた。そしたら忽然と消えちまったんだよ!」


「……ちょっと待ってよイポリト。モリーやモリーの子供と一緒に暮らすってこの家で? アメリアだっているし、僕だっているんだよ?」ローレンスは問う。


「ンな事構うか! じいさんだってアンジェリカだってモリーを一目見れば気に入る!」


「うん、アンジェリカじゃなくてアメリアね。この家二部屋しかないし例えモリーと良い友人になったとしても同居は難しいよ。僕達死神は伴侶の人間とて同居は許されない」


「黙ってりゃいいじゃねぇか!」イポリトは睨んだ。もう頭がぐちゃぐちゃだ。最低だ俺って。結局自分から何も語れないシラノ・ド・ベルジュラックと一緒じゃねぇか。


「うーん……それに例え僕達が人間だとしても君の部屋はぐちゃぐちゃだから、女性は住めたものじゃないだろう?」


「猫くらい一緒に住めるだろう!?」


 ローレンスは肩透かしを喰らった。


 やるせなくなったイポリトはバーボンの瓶を呷ると立ち上がった。


「何処へ行くのさ?」ローレンスはイポリトを見上げる。


「話して腹が立った! 風呂入って頭冷やして寝る!」


「え……いや、今」


 今、浴室にはアメリアが居る。ローレンスは引き止めようとした。しかしイポリトは青白く光る瞳で彼を睨んだ。剣幕に圧されローレンスはたじろいだ。頭に血が昇ったイポリトは言葉など耳に入らず、そのまま足音を荒げて浴室へ向かう。


 数秒後、浴室からアメリアの悲鳴と共にバスグッズがイポリトの頭蓋にクリーンヒットする音が響いた。ローレンスは眉を下げる。


 リビングに戻ったイポリトにローレンスは苦笑した。


「だから止めたのに」


「……凶暴な娘だな。鎖で繋いでおけよ。しかし頭が冷えたわ」


「アメリアはとても優しいよ。気を遣ってくれるけど君のように感情を直球に投げてはくれないもの。まだ遠慮してると思うと父親としては複雑だよ。君達は仲良くて羨ましいよ」


「仲良いように見えるか?」イポリトは鼻を鳴らす。


「うん。昔のティコと君を見ているようだ」ローレンスは微笑んだ。


「阿呆か。ありゃ喧嘩してんだよ」


「それでもいいよ。楽しそうだもの。ティコと君も、アメリアと君も」


 イポリトは鼻を鳴らした。


「本当はこんな話をしに来たんじゃないんだろ?」ローレンスはイポリトを横目で見遣る。


「うるせぇクソじじい」


「……死期が近くなると感じる事が多くてさ。今なら君にお別れもごめんねも言えそうだ」ローレンスは瞳を伏せて微笑んだ。


 鼻を鳴らしたイポリトは脚を組む。顔を上げたローレンスはイポリトを見据える。


「今まで沢山良くしてくれてありがとう。年下の君に幾度となく助けられ導かれた。大戦の時も十三の苦役の時も君は僕に付いて来てくれた。僕を愛してくれてありがとう。僕を支えてくれてありがとう。僕の家族でいてくれてありがとう」ローレンスの青白く光る瞳から涙が溢れ頬を伝う。


「阿呆か。俺はじいさんに借りを返したまでだ。家族でも借りを返すのは俺の流儀だからな」イポリトは顔をそらすと目頭を押さえた。


「……それなのに僕は交わした約束を守らずこの世を去らなくてはいけないんだ。君の魂をランゲルハンス島へ送れない」


「仕方ねぇだろ。向こうでユウとファック決めて娘こさえちまったんだから世代交代せにゃならんわ。そうやって死神は太古の昔から続いてんだよ。良かったじゃねぇか。仕事に前向きな奇特な娘でよ」


「僕は冥府きっての問題児なのに素晴しい娘に恵まれて、君との約束も果たせなくて……本当に情けないね」ローレンスは洟をすする。


「ああ。だから娘がガキ産んでランゲルハンス島へ戻るまでに立派になれよ」


「うん。努力する。……だからその間にアメリアを頼みたいんだ」


「ガキのお守りなんざしたかねぇよ。俺は独り気ままにおねーちゃんとファックしたり酒飲んだりブラブラ遊びてぇの。それにお前が死んだら俺は監視役から外されんだぞ」


「そうならないようにアメリアの教育過程の報告書は滅茶苦茶に書いた」


「マジかよ。最低な父親だな」イポリトは苦笑した。


「僕と君、そして僕とアメリアが家族であるように、君とアメリアも家族なんだ。アメリアを頼むよ。成長の早い死神故に大人と変わりない姿だけどアメリアは九歳だ。九年も死神の僕と離れて、ランゲルハンス島で独り暮らしをしていたんだ。顔には出さないけど不安な事が沢山あると思う。助けてあげて欲しい」


「狡い男だな、お前って」イポリトは鼻を鳴らした。


「頼むよ。……頼んでばかりで悪いけど」ローレンスはイポリトの瞳を見据えた。


 イポリトは深い溜め息を吐く。


「……分かったよ。今回も俺が折れてやるよ」


 ローレンスは笑顔を浮かべた。


「ありがとう」


 イポリトは鼻を鳴らしそっぽを向く。


「……俺も、ありがとうな。今まで家族で居てくれてよ」




 物思いに耽るイポリトの隣室でアメリアはベッドに体を横たえていた。以前そこはローレンスの部屋だった。同居が決まった時、娘に使わせてやろうとローレンスがわざわざ空けた部屋だった。


 寝付けない。アメリアは寝返りを打った。ベッドのスプリングが振動すると双子の水色のドラゴンのぬいぐるみが転がる。側で眠っていたユーリエにぬいぐるみが凭れ掛かった。


 無事に帰って来てくれて良かった。ユーリエを見つめたアメリアは溜め息を吐いた。あたしも幼い頃はしょっちゅう母さんの側から離れて好き勝手遊びに行ってはきつく叱られた。今ならあの時の母さんの気持ち分かる……。何かあったらどうしよう、失ったら生きていけないって、心から想った。本当に良かった。無事に帰って来てくれて。


 イポリトに抱かれたユーリエにこれからベランダに出ても何処かへ行こうとしない事をアメリアは泣きながら約束させた。何処へ行こうとしていたのか、何を見たのかと詰問した。しかし肝心のユーリエは喋れず、イポリトも肩をすくめた。ただイポリトは『老舗の刃物屋まで連れて行かされた』と答えた。


 ……老舗の刃物屋って……ネイサンの家だよね? ユーリエがネイサンの家を知ってるなんて……まさかベランダからネイサンを見たの? あのタイミングでポストにあんな物が入ってるんだもの。ストーカーはネイサンなの?


 アメリアは深い溜め息を吐いた。頭の中がぐちゃぐちゃだ。最近頭脳労働の量が酷い。それなのにこんな悲しい事を考えなきゃならないなんて。


 彼女はイポリトが帰国してからも死亡予定の魂のリストと回収予定の魂のリスト、回収済みリストを突き合わせて漏れが無いか調べていた。寝る間を惜しんで調べても膨大な量のリストと他言語に悩まされ、未だにチェックが終らずに居た。時折息抜きをして取り組んでいるが頭は常時興奮している。


 今日はもう考えるのをやめよう。休むのだって仕事の内だもの。充分休んで霊を捕まえなくちゃ。ストーカーはそれからだ。


 自らを諭すが寝付けない。頭が冴えると色んな嫌な事を考えてしまう。


 針を抜いても尚、痛む指をタオルケットから出す。アメリアは薄暗闇の中、それを見つめる。


 今日のイポリト、優しかったな。お医者に連れて行ってくれたり、盗聴器を探してくれたりユーリエを探してくれたり。ちょっと驚いた。だっていつもは娼婦さんを家に連れ込んだり人前で耳や鼻をほじったりいい加減な事ばかりしてるもの。でも駅でおじさん達とも仲良くしていたし悪い人ではなさそう。


 そう言えばこの前も優しくしてくれたっけ。


 アメリアは瞳を閉じた。


 何者かの視線に気付いてからアメリアは腰まで長かった黒髪にハサミを入れた。まだローレンスが存命中の事だった。長髪を切るのに抵抗は無かった。髪を伸ばしていたのは母ユウの為だった。


 ユウはアメリアの前では強がっていたものの、ローレンスを想い寂しがっていた。父譲りの娘の美しい黒髪を愛しげに撫で、ローレンスとの想い出を語った。そんな不憫な母の為にアメリアは父と同じく髪を伸ばした。剣術や武術、馬術、水泳の稽古の時に煩わしかったが母が喜ぶので伸ばしていた。


 洗面所の鏡に映った自分を睨む。水平にハサミを入れた筈だが左右の長さが不揃いだ。その上切り過ぎた。左右非対称のおかっぱになった。これでは外に出られまい。


 眉を寄せていると髭を剃ろうとしたイポリトが洗面所に入る。


 イポリトはぎょっとした。アメリアの長かった髪が短くなり、辺りには黒髪が散乱していた。


「ンな所で断髪式かよ。驚いたわ」イポリトは床に落ちた髪の断片を拾った。


「うるさい」アメリアは鼻を鳴らす。


「ってか酷ぇな。左右非対称で散切りじゃねぇか。床屋行けよ」


「……そんなお金あったら美容室ぐらい行ってるわよ。父さんとの仕事用にヘルメットのインカム買ったからお金無いの」アメリアは唇を尖らせる。


「ほーん。真面目な若者は金がねぇなぁ」


「うるさい」アメリアは俯いた。


 イポリトは唇の片端を上げて微笑し、小さな溜め息と漏らす。


「切ってやっから風呂場に行け」


「イポリトが? やだ! バリカンで丸坊主にする気でしょ!」アメリアは両手で頭を覆う。


「阿呆か。お前よりは腕は確かだわ。これでも自分でハサミ入れてんだぜ。お前、ハサミを水平に一気に入れたろ? だから酷ぇ有様になるんだよ」イポリトは自らの長めのGIカットを片手で掻き撫でた。


「……やっぱり酷い?」アメリアは瞳を潤ませる。


「泣く事ぁねぇだろ。何とかしてやっから服脱いでタオル巻いて風呂で待ってな。散髪は風呂入る前にやるもんだ」


「また裸見るんじゃないでしょうね?」アメリアは睨む。


「うるせぇ、ドラゴンゴンタトゥーのおっぱい女が。ごちゃごちゃ言ってるとバリカンで丸刈りにすんぞ?」


「タトゥーじゃない! 痣だもん!」


 アメリアはイポリトを洗面所から蹴り出すと服を脱いでバスタオルに包まった。パイル織のバスタオルに切った髪が所々に付く。


「着替えたわよ」


 アメリアがドアの向こうに声を掛けるとイポリトが入室した。


 二柱はバスルームに入りヘアカットを行った。イポリトの大きな手がアメリアの頭に触れる。苦手な男に頭を触られるアメリアは複雑だった。彼女は唇を尖らせて終始黙していた。縦長の鏡に自分とイポリトが映る。アメリアの髪は幾つものピンでブロッキングされ、イポリトがその内の一房を丁寧に梳いていた。彼の表情は真剣そのものだった。


 三十分程でカットは終った。イポリトは服に付いた毛を払い、掃除を任せてバスルームを出た。バスタオルを外したアメリアはシャワーを浴びて細かい髪を流し、バスルームと洗面所の掃除をした。カッターシャツを着て髪を乾かす。すると不揃いのおかっぱがボブ気味のショートヘアに変わっていた。ファッションモデルがしてそうな洗練されたヘアスタイルで驚いた。


 お礼言わなきゃ。こんなに良くしてくれるとは思わなかった。


 バスルームを飛び出たアメリアはリビングへひた走る。しかしイポリトがいつも寛ぐ革張りの黒いソファには居なかった。ダイニングテーブルでは色とりどりのマカロンを並べたローレンスが紅茶を淹れていた。


「父さん、イポリトは?」アメリアは問うた。


 ローレンスは白磁のポットをテーブルに置くと視線を上げた。ロングヘアの娘がショートヘアに変わっていたので驚いた。しかし彼は破顔する。


「髪切ったんだ。短い方がアメリアらしくて可愛いよ」


「あ、ありがとう」アメリアは頬を染めた。


「イポリトならさっき仕事に出たよ」


「……そう」アメリアは俯いた。


「どうしたの? 君がイポリトの行方を尋ねるなんて珍しいね。美味しいお茶淹れたしユウが好きだったマカロンもあるから食べながら教えてよ」


 椅子に座したアメリアはローレンスに事の次第を説明した。ローレンスは娘の話を終始笑顔で聞いた。


「もっと早く洗面所空けてあげれば良かった。こんな事やらせた上に無精髭のまま仕事へ行かせて悪い事したな」頬杖をついたアメリアは小さな溜息を漏らす。


「気にする事ないよ。イポリトは好きでやったんだもの」ローレンスはカップに唇を付けた。


「そうかな? 変な髪型になってたから同情したんじゃない?」


「うーん……それも理由の一つかもしれない。だけどイポリトは後輩のアメリアが可愛らしい理由でお金がないから面倒見たんだと想うよ」


「可愛らしい? あいつがそんな事思うなんて考えられない!」


「あはは。アメリアにはまだ彼の良さが分からないか」ローレンスは眉を下げて微笑んだ。


「父さんまであたしを子供扱いして!」アメリアはローレンスを恨みがましく見上げる。


「子供扱いって……君は僕の大事な娘だし成人の死神とは言え九歳じゃないか。まだまだ人生が始まったばかりの可愛いひよっこだもの」


 父は自分を『大事な娘』として認めてくれる。アメリアは心地が良くなった。


 ローレンスは微笑む。


「イポリトはへそ曲がりでシャイなだけだから。付き合う内に良さが分かるよ」


 アメリアは瞼を上げると深い溜め息を吐いた。


 結局あの時も今日もお礼を言いそびれちゃったな。素敵にカットしてくれた。……お礼言いたいな。悔しいな。アメリアは唇を尖らせて膝をもぞもぞとすり合わせる。大分時間が経ったが、このタイミングを逃せばずっと礼を言えない気がする。


 意を決しベッドから起き上がるとイポリトの部屋へ向かった。


 ドアをノックすると直ぐに入室を促された。


 唇を尖らせたアメリアはドアを開け、部屋に足を踏み入れた。この前ティコが整理整頓したのにもかかわらず、既に工具や筋トレマシン、雑誌等で床は埋め尽くされていた。


「おう。何だよ」イポリトはパソコンのモニタから視線を上げずに問うた。


「……折角ティコが整理したのにもうこの有様なの?」アメリアは溜息を漏らす。


「んだよ。物は取り易い所にあるのが一番だろ?」


「取り易いって……この状態で何が何処にあるか把握してるの?」


「おうよ。……説教するなら今度にしてくれねぇか? 今いい所なんだ」


 アメリアは俯く。……違う。こんな事を言いに来たんじゃないのに。


 アメリアが膝をもぞもぞとすり合わせ唇を尖らせる。モニタから視線を逸らしたイポリトは彼女を見遣った。今にも泣きそうな顔をして眉を下げ、頬を染めている。


「……ストーカーが恐くて眠れねぇか?」


「……違うよ」アメリアは消え入りそうな声で答えた。


「ランゲルハンス島が恋しいか?」


「違う」


「じゃあ何だよ?」


 瞳を潤ませたアメリアは瞬時に顔を上げる。


「お礼を言いに来たの! 髪を切ってくれてありがとうって! それに今日も沢山良くしてくれてありがとうって!」


 予想外の返答にイポリトは言葉を失った。


 気持ちを吐露したアメリアは肩を上下に揺らして荒い呼吸をする。


「……髪切ったって、何とまぁ随分時間が経つのによぉ」イポリトは苦笑した。


「お礼を言いたかったの! 筋を通したかったの! 悪い!?」


 イポリトは唇の端を吊り上げ悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「お前、やっぱり可愛いな」


 腹が立ったアメリアはイポリトの向こう脛を一発蹴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る