一章 八節


 翌日、非番のアメリアはコンラッドに謝ろうとノーラへ向かった。しかし情熱的な想いを向けられそれに触れずに謝るのは卑怯なようで居心地が悪かった。彼の想いを受け入れるか断るか何方かの答えを携えて行く他無い。


 気持ちは決まっていた。断るべきだ、と。自分を褒めてくれる事、好いてくれる事は嬉しい。しかし彼の好意は全て外見に向けられている。ネイサンやイポリトは自分の魂と向き合っている。一方コンラッドは魂ではなく、器にしか興味を抱いていない。外見など幾らでも変えられるが魂は変えられない。彼女自身、恋をするなら相手の魂や心意気を愛したいと考えていた。考えが違う者同士が寄り添っても破局は見えている。互いに成長が見込めないのなら共に居るのは無益だ。


 ノーラの側の大きな公園まで向かった。しかし勇気が出ずにいつものベンチに座して溜め息を吐いた。通販で買った筒型のドールキャリーバッグを膝に乗せ、アラベスク柄を見つめる。中にはユーリエが居る。困ったら普通の人形の振りをしたユーリエを出して話題を変えようと考えていた。


 しかし勇気が出ない。


 もぞもぞと膝を擦り合わせ、通りを眺めているとイポリトを見かけた。休暇中のイポリトは気ままに歩いている。楽しげに歩く彼の肩を丸まると肥えた髭面の男が叩いた。振り向いたイポリトは眉を上げると微笑む。どうやら知り合いらしい。イポリトと男は一言二言話すと共に笑顔で歩き出した。


 男友達なんて居たの? おどけて会話するイポリトが気になったアメリアは立ち上がり、後を追う事にした。何処へ行くのだろう。売春婦としか付き合いの無いイポリトが男と共に居るのは不思議だ。何処からかまた冷たい視線を背に感じたが、アメリアは気付かれないように尾行した。


 イポリトと男が向かったのは宮殿の最寄りの主要駅だった。何処からかピアノの音が聴こえる。構内に入った彼らは階段の側のアップライトピアノへ向かう。痩躯のロマンスグレーの男が座し楽譜を見て演奏している。薄汚れたエプロンを掛けている。雇われた奏者には見えない。何処かの店の主人が勝手に弾いているのだろう。


 太った男とイポリトは彼に近付くと手を挙げた。眼鏡をかけたロマンスグレーの主人はイポリトに気付いた。微笑んだ彼は鍵盤に走らせていた手を止め楽譜を掴むと立ち上がった。


 ロマンスグレーの主人とイポリトは少々の言葉を交わす。ロマンスグレーの主人はイポリトの肩を二度叩くと椅子に座るように促した。苦笑し肩をすくめたイポリトは鍵盤に指を構えた。譜面板には楽譜が無い。


 え。イポリトってピアノ弾けるの? しかも楽譜も無しに? 大理石の柱の陰に隠れたアメリアは眼を見張る。


 青白く光る瞳を伏せてイポリトは一呼吸すると鍵盤に指を走らせた。一瞬ピアノが短い叫びを上げたかと思いきや、滑らかに曲が始まる。音が小刻みに上昇していたかと思うと昇りつめて誇らしくピアノが歌う。晴れやかな伸びやかな、全てを祝福するような曲だ。アメリアは耳を澄ましイポリトの背を見つめた。


 十分近く演奏している間にアップライトピアノの周りには人が集まった。バックパックを背負った旅の若者や黒いパンツスーツに身を包んだキャリアウーマン、構内売店の店主がイポリトを囲む。階段を昇降する人々も足を止めてはイポリトの背を指差し微笑み、拍手や賛辞を贈る。


 鍵盤から手を離したイポリトは肩をすくめて立ち上がった。まだ弾けよ、と声を掛ける主人達の隣を通り過ぎると、アメリアが身を潜める柱へと真っ直ぐ歩み寄った。アメリアは冷や汗をかいたが観念してその場に佇んだ。


「こそこそ後つけやがって。公園に居る時からバレてんだよ。この間抜け」イポリトはアメリアの首根っこを掴むと柱の陰から引きずり出した。


「痛い! 何するのよ!」


「俺は堂々と弾いてんだ。聴くなら堂々と聴け」


 イポリトに引きずられるようにしてピアノの側に立たされたアメリアは主人達に声を掛けられた。


「お嬢ちゃん、あのへそ曲がり男の彼女?」太った男がイポリトを見遣る。


「まさか」アメリアは肩をすくめた。


「へそ曲がりが女の子にズケズケ物言うのは珍しいからね。随分仲が良さそうだったから僕も彼女かと思ったよ」ロマンスグレーの主人は微笑んだ。


「仲は最悪です。ピアノを弾けたなんて初めて知った」アメリアは溜め息を吐いた。


 すると椅子に座したイポリトが鼻を鳴らす。


「なーにおっさん共とこそこそ話してんだよ。聞きたい事があれば直接俺に聞け」


 アメリアは口をもぞもぞと動かしていたが意を決した。


「いつからここで弾いてたの?」


「……ローレンスの仕事が終って共に帰国した一年前からかな。気が利いた駅でよ、旅客の為にピアノを置いて好きに弾かせてくれんだ。懐かしくて触ったらいつの間にかギャラリーが出来てな、その時このデコボコおっさんコンビと知り合ったんだ。おっさん共の演奏もなかなかだぜ?」


 名手のイポリトに褒められた二人の男は照れ臭そうに微笑んだ。


「楽譜を見なくても弾けるの?」


「ああ。楽譜も読めるけどよ面倒だから耳で覚えてるわ」


「へそ曲がりは絶対音感なんだ」太った男がイポリトの肩を軽く叩いた。


「へぇ。ピアノは誰から習ったの?」


「ンな昔の事忘れちまったわ」イポリトは鼻を鳴らした。


「出た。へそ曲がりの十八番『忘れちまった』。都合が悪いと直ぐに忘れる」ロマンスグレーの主人は悪戯っぽく微笑む。


「うるせぇな。俺だって忘れてぇ事の一つや二つあんだよ」


「ハウスルールも忘れてばっかじゃない」


 アメリアの辛辣な一言に二人の男は笑う。


「ハウスルールなんて言葉が出るとは一つ屋根の下って事だな。やっぱり仲が良いじゃないか」太った男は腹を抱えて笑う。


「こんなに可愛い彼女が居るなら女遊びはやめるんだな」ロマンスグレーの主人は肩をすくめた。


「うるせぇ。彼女じゃねぇよ。家族だよ」


 イポリトの言葉にアメリアの胸が再び暖かくなった。


 男達は暫く軽い口喧嘩をしていた。しかしイポリトは片手で頭を掻き回して溜め息を吐くと『何を聴きたい?』と誰ともなく問うた。


「幻想即興曲」太った男が挙手する。


「無理。忘れた」イポリトは間髪置かずに答える。


「また『忘れた』だ。都合が悪いんだろ? 以前へそ曲がりが口笛で吹いていたのを覚えているんだからな」ロマンスグレーの主人は悪戯っぽく微笑む。


「……忘れたモンは忘れたんだよ。ほれ、お前は何が聴きたい? 一曲弾いてやる」イポリトはアメリアを見遣った。


 アメリアは戸惑った。ランゲルハンス島ではニエのクラブサンくらいしか音楽はまともに聴いた事が無かった。音楽よりも馬術や武術に夢中になっていた。教養が無い事が露呈するのは恥ずかしい。


 アメリアが口をもぞもぞ動かしているとイポリトは鼻を鳴らす。


「んじゃお前の柄じゃねぇけど『乙女の祈り』くらい弾いてやらぁ」


 イポリトは鍵盤に指を走らせた。愛らしく優しく一点の曇りも無い清らかな調べが構内に流れる。


 こんなに華奢で清廉な曲を筋骨逞しいイポリトが弾くのは滑稽だとアメリアは感じた。しかし唇に微笑みを湛えピアノと対話する彼を見て、羨ましさと清廉な美しさを感じた。ただひたすらに音楽の為だけに魂を昇華出来る彼が羨ましくなった。死神ヒュプノスじゃなくて音楽や芸術の神として生を受ければ良かったのに。神ではなくて一人の人間でも良い。そうしたらイポリトはずっとピアノと対話出来ただろう。


 鍵盤から指を離したイポリトにアメリアは惜しみなく拍手を贈った。


「……どーも」イポリトは満足そうに小さな溜め息を漏らすと席を立つ。そしてアメリアの頭に軽く手を置いた。アメリアはそれを軽く払う。


「……イポリト、勿体ないよ。これだけ綺麗な曲が弾けて楽しそうにピアノと対話してるのに」唇を尖らせたアメリアは俯いた。


「あんだよ。じゃあ仕事辞めてピアニストでも目指せってのか」


「うん。……周りが許してくれたらの話だけど」


 豪快に笑ったイポリトはアメリアの頭に手を置き、乱暴に回した。そして眼を回す彼女に肉薄する。


「ぶぅあーか。本当に好きなら仕事ほっぽり出してピアノと駆け落ちしとるわ」イポリトは彼女の額を指で弾いた。


 額を抑えたアメリアはイポリトを睨んだ。


「俺は今の生活で満足してんだよ。そんな事も分からねぇのか。まだまだアメリアちゃんはお子ちゃまでちゅねぇ」イポリトは肩をすくめると、太った男とロマンスグレーの主人の許へ歩み寄った。


 アメリアは額をさすり、鼻を鳴らしてイポリトを睨んだ。すると背後でまた冷たい視線を感じた。振り返ったが人通りの多い構内では自分に邪気を向ける者を見極められない。溜め息を吐くとイポリトと共に太った男が弾く『調子の良い鍛冶屋』を聴いた。


 二、三曲聴くとアメリアはノーラに向かうのを見送り、ステュクスへ顔を出す事にした。花冷えブドウのキールロワイヤルを飲みつつ、コンラッドへの断りの文句を考えよう。それにパンドラに借りたいものもある。バス停に並んでいると、ネイサンに会った。彼は丸まると太った大きなリュックサックを重そうに背負っていた。


「やあアメリア。奇遇だね」ネイサンは微笑みを浮かべる。


「公園以外の場所で会うのは初めてね」


「確かに。ライダーのアメリアがバス停に居るなんて珍しいね」


「今日は人形を持ってるから黒いレディはお休み。人形に排気ガスを浴びせたくないもの」アメリアはたすき掛けに背負った筒型のバッグを見遣った。


「へぇ。その中に人形が入っているんだね」


「ネイサンはそんな大きな荷物を背負って何処へ行って来たの?」


「郊外へ買い出しだよ。小道具も買ったし工具も幾つか新調したんだ。重くて底が抜けそうだよ」ネイサンは背を向けた。彼のリュックの底布はたわんでいた。


「わぁ。重そう。これから何処へ行くの?」


「劇団は休みだから荷物を家で引き取ろうと思って」


「じゃあ運ぶの手伝うわ。交代で背負いましょ」


「女の子にこんな事手伝わす訳にはいかないよ」ネイサンは肩をすくめて微笑んだ。


「でも親友よ?」


「親友の女の子だから尚更だよ」


「親友だからこそ手伝いたいわ。ダメ?」


「僕にも少しはカッコつけさせてよ」


 眉を下げて微笑むネイサンの願いを断れなかった。折よく自宅の方角へ向かうバスが着たのでアメリアは乗車した。重い荷物を背負っているのにも関わらずネイサンはアメリアを笑顔で見送った。




 アパートの側にある河原に辿り着いたアメリアは右手の包帯を解き護岸に触れてステュクスへ入った。


 カウンター席には先客が居た。ティコだった。アメリアは彼女の隣に座した。


「久し振り。ティコも時々ここへ来るの?」アメリアは水のグラスに唇を付けた。


「いや。今日はパンドラに頼みがあって来たんだ」


「頼み?」


「ピアノを預けに来たんだ。今の拠点が海の近くでね、楽器と潮風って相性が悪いだろ? 屋内でも心配だからステュクスで預かって貰おうと持って来たんだ」


 ティコは店の奥を見遣った。薄暗い壁際にはアンティークのアップライトピアノがあった。


「ピアノ弾けるの?」アメリアは問うた。


「ああ。クソ坊主に教えた事もあったさ」


「へぇ。でも持って来たって冗談でしょ? あんな大きな物、運送屋さんじゃないと運べないもの。まさか人間の業者さんに頼む訳にいかないし……」アメリアは眉を寄せる。


 淑やかに笑うパンドラに悪戯っぽく微笑むティコが目配せする。パンドラは棚からラベルの無い空き瓶を取るとアメリアに差し出した。


丁子ていこ様にこちらをお貸しして搬入して戴いたのですよ」パンドラは淑やかに微笑んだ。


「空き瓶で搬入って……何それ?」アメリアは瓶を眺める。


 ティコはアメリアの手から瓶を取り上げた。そして口をアメリアに向けてコルクの栓を抜く。すると凄まじい風が瓶から流れ、アメリアを瓶に吸収した。それを見届けたティコはコルクを閉めた。


 瓶に収まる程矮小な存在になったアメリアは呆然とした。しかし我に返ると瓶を叩いて救助を請うた。微笑むパンドラとティコは瓶に顔を近付け首を横に振る。アメリアは瞳を潤ませた。彼女は俯いて洟をすする。


 パンドラとティコは流石にやり過ぎた、とコルクの栓を外した。凄まじい風と共に席にアメリアが戻る。パンドラはコルクの栓をした。


 洟をすすったアメリアはカウンターに顔を埋めた。


「やり過ぎたって。ほんの冗談だってば」ティコはアメリアの背を擦った。


「申し訳御座いません。お詫びに一杯サービス致しますのでどうかお顔を上げて下さいませ」


 しかしアメリアは顔を上げない。焦ったティコは言葉を続ける。


「しかしパンドラの魔術道具は凄いな、なぁアメリア? 『パンドラの匣』って言うんだってさ。これを使ってピアノを運べたんだから。パンドラはバーテンダーにしておくのは惜しいよな?」


「まあ丁子様。私は僅かばかりの魔術が使えるただのホムンクルスです。それよりもアメリア様、どうかお顔をお上げ下さいませ。私達が悪かったのです。どうかお許し下さいませ」パンドラはアメリアの頭を撫でた。


 しかしそれでもアメリアは顔を上げずに小刻みに震える。


 眉を下げたティコとパンドラはお互いを見合わせた。


「……アメリア、悪かったよ。お願いだから顔を上げて。何でもするから」ティコはアメリアの肩を擦った。


「……何でも?」アメリアは鼻声で問う。


「何でも」ティコは力強く頷いた。


「じゃあ『幻想即興曲』弾いて!」アメリアは瞬時に顔を上げる。晴れやかな顔をしていた。


「嘘泣きか」ティコは溜め息を吐いた。パンドラは口に手を当てて淑やかに笑った。


「何でもしてくれるんでしょ? 『幻想即興曲』弾いて!」アメリアはティコに肉薄する。


「分かった分かった。それにしても嘘泣きたぁ計算高い子だね」ティコは肩をすくめる。


「だって大人は簡単に願い事を聞いてくれないもの。だから頭を使う他ないじゃない」


「ローレンスは物覚えがいいだけの男だったけどアメリアは頭の使い方を知ってるね」


 アメリアは桃色の舌をちらりと見せて笑った。


「しかしどうして『幻想』なんだ?」ティコは問うた。


「イポリトが駅にあるピアノを弾いてたんだけど友達のリクエストの『幻想即興曲』を断ったの。弾ける曲なのに何故弾かないんだろうって。あたしは聴いた事無いし、イポリトと暮らしていたティコなら何か知っているかなと思って」


「……へぇ。クソ坊主がねぇ」ティコは鼻を鳴らすとグラスに口を付けた。


「ねぇ教えて」


「知らないよ。『幻想』は約束通り弾いてやるよ。あとはクソ坊主に聞きな。家族だろ?」ティコは立ち上がるとピアノの椅子に座す。


「家族だけど教えてくれそうにないもの」アメリアは唇を尖らせた。


 ティコは唇に人差し指を翳した。アメリアは黙する。


 ティコは鍵盤に指を構えて深く呼吸した。

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