ケツバットフルスイング少女


 河川敷の空は高く、今にも小惑星が降ってきそうだ。


 風はかすか。雲はわずか。突き抜けた青空も眩しく、絶好の野球日和。そんな河川敷の野球練習場に女子高生がふらりと立った。


 土手際には仕立てのいいスーツを着こなした初老の男。両手の指で形作った即席のファインダーを覗いてぽつりとつぶやく。


「絵になるねえ」


 広い青空と野球女子高生。人差し指と親指とで切り取られた一枚の絵。無人の野球練習場にて、制服姿の女子高生が優雅にバットを振るった。


 美しいバットスイングだ。


 土埃に汚れるのも厭わずべたりと胡座をかき、その美しきスイングに二つ拍手を打つ。


「惚れ惚れする打ち姿だ」


 スーツ男の控え目な喝采に、バットを丈の短いスカートで挟み込んで両手でピースサインを作って応える女子高生。


「でしょでしょー」


 バッターボックスの側に置かれた長テーブルには二台のノート型PC。三脚に据えられた配信用ビデオカメラ。それといかにも社畜的な紺色スーツとメガネが似合う若い男。


 野球女子高生、安藤日炉はメガネ男に一言二言声を投げかけ、ノートPCの画面を覗き込んだ。青空をバックに配信用ビデオカメラをつんと突ついて笑う。


「やはり女子高生は制服に限るな」


 初老のスーツ男が両掌を擦り合わせて言った。


「それは問題発言になります」


 スーツ男にぴたりとくっついてボイスレコーダーを回していた女がぼそっと吐き捨てた。


「そうか? 事実だろ。あのスカート丈、そう思わないか?」


「さらにセクハラ発言にも発展します。記事にしますよ」


 ボイスレコーダー女はすこぶる不機嫌に告げた。スーツ男は軽く肩をすくめる。スーツのポケットからタバコを取り出し、噛むようにして咥える。


「そう邪険にするな。記事が載る新聞も雑誌も吹っ飛びかねない土俵際だぜ」


「土俵際だろうが9回裏ツーアウトだろうが、貴方のそのふざけた態度にケツ蹴っ飛ばしてやりたくなります」


 ボイスレコーダー女はつっけんどんに返した。


「問題発言だな」


「お互い様です」


「セクハラ発言でもあるな」


「気のせいです」


「タバコには何も言わないんだな。環境汚染に健康被害と問題ありまくりなのにな」


「私にも一本。それで見なかったことにしてあげます」


「番記者としてあるまじき発言だな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 スーツ男もボイスレコーダー女もそこで会話を途切れさせ、ふうと白く煙るため息一つ、大きな青空を仰いだ。


 青い空には大きく輝く太陽が一つ、昼間の青白い月が一つ、その真ん中に小さな光点が一つ。あんな小さな光点一つで、こんなふざけた事態になってしまうとは。スーツ男はタバコを噛み締めて、河川敷越しの人っ子一人いない東京遠景を眺めた。


「ねえ、総理のおじさま。何かこうビシッと締まる作戦名とかないのー?」


 日炉がバッターボックスに立ってよく通る大声を張り上げた。制服の短いスカートを気にも止めずスニーカーを振り上げてバットの頭で叩く。靴底に詰まった土塊がはらはらと落ちた。


「作戦名なんていまさら気にする奴なんざいねえよ」


 内閣総理大臣、鴇田原城一は笑って答えた。


「ええーっ、欲しいっす。クレイジーな作戦にはみんな作戦名があるもんよ」


「じゃあ、ケツバットフルスイング作戦」


「何それー。受けるんですけどー」


 ケラケラと日炉は大きく口を開けて笑った。空を飲み込むばかりに大口で、小さく瞬く光点を睨む。バットを振りかざし、侍が刀を上段に構えるように突き上げて狙う。


「オッケー。ケツバットフルスイング作戦でいっちゃいましょー」


 ボイスレコーダー女がため息をもう一つこぼす。


「セクハラ作戦ですね。記事確定です」


「ケツワードを持ち出したのは君だろ? あの子が作戦失敗すればこの荒川区は消し飛ぶんだ。セクハラ記事どころの話じゃねえ」


 総理大臣担当の総理番女性記者はタバコを燻らせながら総理大臣の隣に座った。タイトスカートが汚れるのも構わずべたりと土に直接横座り。


「では、セクハラ視点で作戦を見届ける意気込みをお聞かせください」


 女性記者はボイスレコーダーを差し出した。他の総理番はみんな東京から避難した。最後まで残ったのは彼女だけ。それに敬意を表し、鴇田原内閣総理大臣はインタビューに答える。


「世界最高にして神クラスのバットスイング女子高生に東京の命運を賭けるんだ。俺一人見届けねえでどうするよ」


 言い切った。どっしりと胡座をかき、背筋を伸ばし、世界一フルスイングが美しい女子高生として世界中でバズった野球インフルエンサー安堂日炉へ檄を飛ばす。


「ケツバット、フルスイングで頼むぜ」


 女子高生は総理大臣に無言で親指を立てて見せた。


 眩しい青空に瞬く光点。小惑星2031JK。その大きさは最大直径約30メートル、全長は70メートルに達する。推定質量は8万5千トン。ゆったりと回転する細長い円柱形をしていて、秒速8kmの非常に遅い速度で地球に接近する小惑星だ。


 その小惑星は大気中でも燃え尽きず、東京都荒川区内にて地表に衝突すると予測された。半径50メートル内の構造物を瞬時に蒸発させ、500メートル級の巨大クレーターを作るだろう。


 この小惑星が地球に衝突しても人類は絶滅しない。ただ荒川区が消滅して、東京都に甚大な損害を与えるに過ぎない。人類は甘んじて小惑星衝突を受け入れることにした。


 しかし、一人の女子高生が立ち上がった。荒川区在住、神のバットスイングを持つ安堂日炉、17歳。


 神スイング女子高生はヘッドマウントディスプレイを装着した。


「準備はよろしいか」


 ノートPCを操作するメガネ男が日炉の方をチラとも見ずに言う。


「同期したらもうバットは振れません」


「素振りはいっぱいやったしー、あたしはいつでもいいよー」


 愛用の木製黒バットにはモーションセンサーが貼り付けてある。素振りも充分に。バット感触にセンサーの重さや出っ張りによる重心のズレも問題なし。


「失敗してもあたし責任取らないしー。いいよね、総理のおじさま」


「おう、ケツは俺が持つ。安心して神スイング披露しろ。日炉ちゃん」


「ケツ持ち受けるんですけどー」


 日炉はHMDの奥でケラケラ笑いながらバッターボックスに入った。


「鴇田原さん、時間です。生配信開始してもよろしいですか?」


 相変わらず人の顔を見ずに機械類を操作し続けるメガネ男。鴇田原は史上最年少民間人閣僚文部科学大臣、多屍興星へ手招きした。


「タカバネちゃんもこっち来て最期のタバコ吸おうぜ」


「荒川区の路上喫煙禁止条例違反です。それに最期のつもりもありません」


 メタルフレームのメガネをくいっと直す。やはり会話してる人の顔は見ない。


「真面目な男だね、タカバネちゃん。それじゃあ、作戦開始といこうぜ」


「では、配信スタート。安堂さん、ケツバットフルスイング作戦、お願いします」


「ヒロチャンでよろぴくー」


「日炉ちゃん、よろぴくお願いします」


「はーい」


 バッターボックスの日炉がバッティングフォームを固めた。その瞬間、空気がぴりっと電気を帯びたように引き締まる。


 河川敷の風が止んだ。


「旧国際宇宙ステーション、日本実験モジュール同期開始。日炉ちゃんのバットモーションと同期確認」


 低軌道高度400km。2030年後期に運用を終えて解体準備が始まっていた国際宇宙ステーション。日本実験モジュールとドッキングした居住モジュールが独立駆動運動を開始した。地上の日炉が振るうバットとその軌道モーションを共有する。


「目標小惑星2031JKの予測軌道、HMDへ投影開始。12分42秒後、大気圏に突入すると予想」


 鴇田原と女性番記者が同時に遠い空を仰ぐ。光点はさっきよりも大きく見えた。ここ、荒川区に衝突する小惑星2031JKだ。


「12分か。長えな」


 鴇田原がつぶやいてタバコを揉み消し、もう一本咥える。


 河川敷の空は高く、今にも小惑星が降ってきそうだ。


「ヒッティングポイントは6分10秒後。衝突コースを表示。5分前よりカウントダウン開始」


「6分後ですって」


 女性番記者がそっと手を差し出してタバコをもう一本催促。


「6分か。長えな」


 鴇田原が咥えタバコに火を点けた。


「では、鴇田原さん。日本国首相として、この配信をご覧になっている世界中の視聴者様へメッセージをお願いします」


 多屍が鴇田原へ無茶振り。カメラをぐりっと回して向ける。えっ、と眉をしかめてせっかく火を点けたタバコを隠す内閣総理大臣。


「あー、地球のみなさん、こんにちは。私、トキタワラが現場からお伝えします」


 多屍がメガネを中指で正す。嫌味のつもりでカメラを向けたが、さすがは現行総理大臣だ。緩んだ顔付きが一瞬で仕事モードに切り替わった。


「今まさに小惑星が地球に衝突しようとしています。隕石と化して地表に到達すれば甚大なダメージがあると予測されます」


 東京都全都民の圏外避難は完了している。東京都荒川区に残っているのはここにいる四人のみ。作戦失敗に終わっても人的被害は最小限に抑えられる。


「現在、フルスイングが世界一美しい少女のバットで打ち返そうって作戦行動を決行中です」


 さすがにケツバットフルスイング作戦とは言葉にしないか。女性番記者は内心ヒヤヒヤしていた。


「祈りも、同情も、感動も必要ありません。この女子高生の美しいバッティングフォームにただただ静観してください」


 ケツバットフルスイング作戦のネット配信同時接続数は10億を越えた。


「では、神スイングの日炉ちゃんです。よろぴく」


 カメラが日炉へと向けられる。HMDごと小首を傾げてカメラへ向けてピースサインを送る女子高生。


 神スイング5分前。カウントダウン開始。

 

 HMDの世界。日炉の視界が宇宙空間に繋がった。


 すぐ前方に小惑星2031JKが見える。地球への衝突コースがグリーンのラインで引かれ、衝突阻止臨界距離が提示された。この数字がゼロに達した時点でISSモジュールを接触させ、小惑星の大気圏突入仰角を変える。軌道計算に特化したAIが導き出した成功確率は限りなくゼロに近かった。


 しかし、衝突予想地点の日本に、神スイング女子高生が存在することをAIは知らない。


 衝突阻止臨界距離まで残り時間180秒。


 神スイング女子高生は時が止まったように動かない。バットを立てて構えたその凛々しい立ち姿はまるでギリシャ神話の女神像。


 残り120秒。青空にぎらりと小惑星はその輪郭を露わにする。太陽の光を残光斜めに反射させ、荒川区を貫こうとする一本の槍のようにも見えた。日炉はやはり動かない。


 60秒前。女子高生の生脚が一歩前に踏み出された。イエローの色褪せ燻るスニーカーがかすかに土煙を吐く。サイドステップを踏むように肩幅よりも脚を広げて、柔らかな股関節が僅かに沈んだ。


 30秒。都内私立高校チェック柄の短いプリーツスカートが風にさらわれて踊る。小惑星が風を呼んだ。ローアングルの画角に日炉のくびれた腰が力を溜めているのがわかる。


 15。日炉のHMDには小惑星2031JKがいっぱいに映る。もう手が届きそう。10。配信同接数が20億突破。5。日炉はささやく。「おいで、隕石ちゃん」生脚がすうっと大地を離れる。日炉の体重移動のせいで、地球の重心がほんの少しズレる。1。日炉を見つめるすべての人間が息を止めた。


 ゼロ。


 音なんて必要ない。光さえあればいい。


 情報は光となり、バットが空間を流れるようにスライドする映像がゆったりとした時間を連れて過ぎ去って行った。


 日炉のダウンスイングは光の速さで地球全域に散らばった。


 ローアングルで捉えられた日炉のバッティングフォーム。制服の短いスカートが翻り、見えるか見えないかギリギリのラインで踊る。


 小惑星を打ち終えて、フォロースルーを大きく決めてもなお、日炉はバットを振り下ろさない。背中に担ぐように振り抜いたまま。


 それから数秒間、地球は時間が流れなかった。


「……やったか?」


 日炉がフルスイングを終えて地球で初めて鴇田原が小さく第一声を上げる。


「ISSモジュールの大質量が日炉ちゃんのバットモーションに同期する初動には時間がかかります。今しばらくお待ちを」


 多屍はメガネを中指で押し上げ、ノートPCのシャットアウト準備を始めた。仕事は終わったのだ。


 空を見上げる。


 円柱状の小惑星の光る軌跡がまだ残っている。


「日炉ちゃん、お疲れ様です。いいスイングでした」


「でしょでしょー。会心の一撃ってまさにこれよー」


「これにてケツバットフルスイング作戦生配信を完了します。チャンネル登録、および、高評価をよろぴくお願いします」


「ヒロチャンのフォローもよろぴくー」


 多屍がカメラにカットインして、世界同時配信の終了を告げる。カメラの三脚角度を変えて、メインターゲットを日炉から小惑星へと切り替えた。


 鴇田原と女性番記者はタバコの灰を落とすのも忘れて空を見上げたまま動けなかった。


 空を切り裂く小惑星の光点がきらりと瞬いた。


 日炉の最高傑作であるバットスイング終了からおよそ3分後、ISSモジュールは最高速度に達した。日炉の神スイングの軌道を完璧にトレース。鋭いダウンスイングで、大気圏に突入しつつある小惑星2031JKに激突した。


 いや、激突ではない。小惑星上部を上から叩いて削り取るようにチップ。


 その一撃でモジュールは大破。木っ端微塵に砕け散る。その衝突エネルギーで小惑星の大気圏突入仰角がほんの少し変わった。


 多屍の予測通り、日炉のミリ単位でのバットコントロールが不可能を可能にした。小惑星は大気圏に突入する。しかし、進入角度が大き過ぎる。大気圏に直撃だ。


 大気との摩擦熱と空気の圧力は膨大なエネルギーとなって小惑星を押し返し、地球の重力がその熱量を加速させて爆発的な光と化して小惑星を襲う。


 空が強烈な光に覆われた。青い空は白く塗り潰され、目に焼き付くほど光が地表に降り注ぐ。


 光の豪雨が止む頃に、爆散する小惑星の姿が見えた。


 日炉がHMDを脱いで拳を突き出す。多屍は日炉の笑顔を見ずにそっぽを向いたままコツンと拳を重ね合わせた。


 小惑星は粉々に砕け散り、大小細かい隕石群となって燃え尽きる。地表に降り注がれるのはその燃え滓のみだ。


 ようやく、小惑星爆散の大音声が地球上に鳴り響くが、それは地球の人間たちの大喝采に打ち消されるだろう。


 遅れてきた衝撃波が女子高生のスカートを揺るがした。

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