第2話

 翌朝、ステラが目を覚ますと、そこは見知らぬ天井が出迎えてくれた。

(ん――あ、そっか、今日からナカトミ辺境連隊所属、か……)

 まだ眠い頭で、もぞもぞと寝返りを打ち、うつ伏せになる。その姿勢から、まるで猫のように四肢を突っ張り、ぐっと伸びをすると身を起こした。

「んん――よし、頑張ろう」

 少しだけ目覚めた頭で、寝台から飛び降りて支度を始める。

 ちらり、と見た窓の外は、まだ陽が昇る前で、空が徐々に青白くなっていく途中だった。


 身支度を終え、領館の食堂に向かうと、そこではすでに燕尾服の男性が紅茶片手にのんびりとしていた。おや、と彼は片眉を吊り上げる。

「ステラ様、おはようございます。朝が早いのですね」

「あ、はい、おはようございます。リヒトさん。癖みたいなものでして」

「はは、そういえば、王都の騎士は早朝から出勤しますからね」

 領館の執事――リヒトは、すぐに椅子から腰を上げ、ステラに近づいてそっと椅子を引く。それを手で勧めながらにっこりと笑った。

「こちらへどうぞ。すぐに、朝食をご用意します」

「あ、ありがとうございます。あの、何かお手伝いは……?」

「いりませんよ。執事から仕事を奪わないで下さい」

 苦笑いを浮かべながら、リヒトはぎこちない足取りで食堂から出て行く――だが、その立ち振る舞いからは、隙を見出すことができない。

(やっぱり、さすがだな――リヒトさんは)

 領館には、数人の使用人が控えているが――いずれも、軍属経験者だ。

 そのうちの、リヒトは歴が長く、引退後はこうやって執事の仕事をこなしている。どうやら引退の原因は、足を怪我したから、らしい。

 もう、初老と呼ばれる歳で、髪には白いものを交じっている。優しげでにこにことした物腰をしているが――その覇気は衰えていない。

 やがて、彼はその手にお盆を持って食堂に戻ってきた。

「本日から、お勤めですね。ステラ様は」

「はい、えっと街の兵舎に向かえばよろしいですか?」

「そうなりますね。まだ時間がありますので、ゆっくりしていって下さい」

 にっこりと丁寧に微笑んでくれるリヒト。よどみない手つきで、彼はステラの前に朝食を並べてくれる。それはごはんに味噌汁、焼き魚――と、カグヤ馴染みのもの。

「と、そういえば、和食は大丈夫でしたか? つい癖で用意してしまいましたが」

「あ、いえ、大丈夫ですっ、そんな気を遣わなくても……他の騎士の方と同じ待遇で大丈夫なのですけど……」

「お嬢様――ルカ様の方針で、副官のステラ様にはルカ様と同じように遇すると決めておりますので。文句はそちらによろしくお願いします」

「も、文句というほどではないのですけど――その、申し訳ない、というか」

 中騎士のような末端の騎士なら、兵舎の食堂で食べるのが当たり前なのに。

 身に余る待遇で、思わず恐縮してしまう。それに、リヒトは苦笑いを浮かべる。

「気持ちは、分かりますとも――ですが、ルカ様からの歓迎の意思だと思っていただければこちらも嬉しいです。今は、それだけ受け取っていただければ」

「分かり、ました……」

 そう言われてしまえば、その気持ちを受け取るしかない。

 箸を取り、ご飯を口に運ぶ――ふわっと口に広がる甘いコメの感触がじんわりと広がってくる。噛めば噛むほど、優しい味わい――。

(なんだか、懐かしいな……)

 しみじみと思いながら、味噌汁に手を運び、一口。

 合わせみそなのか、これもいい味が出ている。ほぅ、と一息ついていると、傍らでリヒトがティーセットを用意している。

「食後のお飲み物は、如何なさりますか? 紅茶、緑茶、一応、抹茶もあります」

「あ、では折角ですので、緑茶を」

 その言葉にリヒトは微笑みを浮かべると、かしこまりました、と慣れた手つきで急須を取り出す。大分、凝っている。

 その優雅な仕草を見ながら、ふと、気になって訊ねる。

「そういえば、ルカ様はまだお休みですか?」

「いえ、もう食事を摂られました――そうですね、後で裏庭に行かれては?」

「裏庭、ですか?」

「はい、そちらで朝の稽古をなさっています。ルカ様の日課です」

 丁度、食事を食べ終わり、箸を置く。それを見計らい、湯呑に入った緑茶が差し出される。そっとそれを手に取り、ふぅふぅ、と冷ましながら一口――。

「あ……美味しい」

 淡い緑茶の味わいの中で、ふんわりと広がる甘みに思わず顔を綻ばせる。リヒトは目尻を緩めて軽く一礼する。そのまま、食器の片づけまで始めてしまう。

「あ、片づけくらいは――」

「執事から仕事を奪わないでいただけますと」

 にっこりと笑ってやんわりと制止される。

 だが、有無を言わさぬ口調で逆らえなかった。そのまま、リヒトはお盆に皿を載せて、やはりぎこちない足取りで立ち去っていく。

 それを見届け、小さくため息をついた。

(――なんだか、申し訳ないなあ……)

 なんとなく、持て成されている気がして、落ち着かない。

 もっと、軍属としてこき使ってくれないと――それに……。

(私は、そんな待遇を受けるのに、相応しい人間じゃない……)

 そう思った瞬間、ちくり、と胸の底が痛んだ。


 その後、食後の緑茶を堪能すると、リヒトに言われた通り、領館の裏庭に向かう。

 廊下を歩き、扉を開けて外に出ると――そこは、芝が生い茂っている、広々とした庭に出た。外周を鉄柵で覆われたそこは、表玄関とは違い、木々などはない。

 その代り――弓矢で使う的や、丸太などが乱立している。

 所々で芝が踏み荒らされた痕跡を見ると、裏庭は主に稽古で使われているらしい。


 その中央で――彼女は、静かに佇んでいた。


 腰を軽く落とすようにして、腰に帯びた剣の柄に手を掛ける。その動作は微動だにせず、まるで一つの石像のようだ。だが、その身体から放つ、静かな気迫がそうでないと告げている。

 その気迫は徐々に高まっていき――それが収束するように彼女の手が淡く光を放ち始める。正しくは、その手で封じられた刃の鞘へと……。

 ふわり、と冷たい風が吹き抜け、彼女の髪が舞い上がった瞬間。


 振り抜かれた一閃が、視界を焼いた。


「――ッ」

 思わず息を呑む。いつの間にか、彼女は刃を振り抜いた姿勢で止まっていた。

 抜く手がまるで見えなかった。目の前の丸太は、微動だにせず――やがて、ずるりと滑るように斜めに斬れ、地面に転がった。

 残心は束の間。彼女は短く息を吐き出すと、優雅に刃を翻して鞘に収め、振り返る。

「おはよう、ステラ。よく眠れたかしら」

 振り返った彼女は、屈託のない笑顔だった。

 先ほどの凛とした気迫は、感じられない。思わず息を吐きだし――ステラは頷きながら、傍へと歩いていく。

「おはようございます。おかげで、ぐっすりでした」

「それはよかったわ。環境が変わって眠れないかと思ったのだけど」

「いえ、休むのも職務の内ですから――しかし、ルカ様もお早いですね」

「日課なのよ。ここで稽古するのは。太刀の稽古と、弓矢の稽古は毎日欠かせないわね」

 そう言って彼女は刃を抜き、その輝きを見せてくれる。

 見ると、それは片刃――カグヤに伝わる、カタナと呼ばれる刃だ。刃に浮かぶ独特の模様が妖しく光を放っている。

 彼女は血振りをするように、太刀を振ってから腰の鞘に納める。

 そして、一息つきながら耳にかかった黒髪を指先で払い、ステラに流し目を送る。その洗練した動きに、何故かステラはどきどきしながら――小声で訊ねる。

「お邪魔……しません、でしたか?」

「大丈夫。今日は弓も終わっているから」

 切れ長の瞳を細めて彼女は優しく笑うと、ステラの手を取った。不意に手を握られ、思わず胸が高鳴る。そんな心情を知ってか知らずか、彼女は悪戯っぽく片目を閉じる。

「さ、一緒にお茶でもいただきましょう? リヒトのお茶、美味しいわよ」

「あ、い、いただきました。それと、わざわざ手を握らなくても――」

「……もしかして、いや、だった?」

 しゅん、とルカが声を小さくして訊ねてくる。握ってくる手の感触が、今にも引っ込められそうなほど弱々しくなり――思わずステラは急いで首を振った。

「ち、違います! そ、そういうわけではないのですけどっ!」

「……そう、よかったわ」

 すると、彼女はぱっと顔を輝かせて、手を握ってくる――その笑顔が眩しくて綺麗で……思わずステラは顔を赤くしてしまう。

 だけど、何も言えない――そんな魅力が、笑顔にはあった。

「ふふ、一緒にお茶できるなんて嬉しいわねっ」

 その上、こんな弾んだ声でうきうきと言われてしまったら――もう、抵抗できない。ステラは為されるまま、手を引っ張られて屋敷に戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る