第22話 生身の愛へ15 粉と書いてコナゴナになった青年

 夫の勝巳さんも、O大の出身で、ぼくより1学年下の人。

 実は、大学で何度も見かけたことはあるが、特に話をしたことはない。自分の妻が養護施設の出身であるだけでなく、O大で司法試験に向けて勉強していた頃に、養護施設出身だという後輩の受験生に出会ったという。


 やっぱり、あいつだった。


 大宮さんご夫妻の番組で時々紹介されますよね、鉄道研究会の米河清治君。

 彼とは、O大の演習準備室で、一緒に勉強していました。何度か飲みに行ったこともあります。


 米河君は小学生の頃、おおむね6年ほどよつ葉園にいたそうですが、当時の経験は、正直思い出したくもないと言っていました。その割には、当時のこと、よくしゃべってくれましたけどね。

 愛美の伯父の三宅秀和のあの時の対応とは少し違いますが、彼も矛盾していますねぇ。何より趣味が。

 本業? の鉄道は別として、副業? が、横浜銀蝿とセーラームーン。

 あの組合せは、受験生仲間もみんな、矛盾していると呆れていたほどです。修習生仲間にも、彼の話をしたら、大笑いしていましたよ。それにしても、面白い青年でしたね。

 彼は小6で父方の叔父、愛美は中2で叔母夫妻にそれぞれ引取られたところも、共通していました。

 実は、オレの嫁さんも、中学の同級生と言ったらどうってことないように思うかもしれんが、くすのき学園っていう養護施設で小学生から中2まで育ったよ、って言うと、随分驚いていました。愛美から聞いた話を彼にしたら、あそこはかなりひどかったと聞いていますからね、と言われました。

 逆に、米河君の話を聞く限りは、よつ葉園は、くすのき学園ほどひどくはないようでした。しかも、昔から先駆的な取組をしている施設で、地元からの評判もよかったと。くすのき学園は、稲田先生が園長の頃かなり改善されましたけど、その後の園長になって、また悪くなったと言われていました。もっとも、その頃愛美は、くすのき学園を出て叔母夫婦のところに引取られていましたから、「実害」を被ったわけではありませんがね。


 稲田元園長は退任直後の1982年、「お正月の紳士」という本を出されました。県の社会福祉協議会が出版を請け負ったそうです。

 その本には、当時のくすのき学園の様子が、赤裸々に描かれています。私も、愛美がモデルの子の悪友の不良少年某ということで、仮名ですが、デフォルメされて登場しています。

 この本を読んだくすのき学園の理事長とその息子の前園長、それに当時の園長、さらには大ベテランのある元保母までが結託して、稲田先生の本を回収する騒ぎを起こしました。書かれて都合が悪いことが、いろいろあったのでしょうね。

 その2年後、稲田先生は自費で再度同じ本を出されて、うちにも寄贈されました。

 母はあの本を読んで、養護施設のあまりのひどさに涙が止まらなかったそうです。


 もっとも、平成に入って間もなく、高齢の女性理事長が亡くなり、稲田先生の後任の園長も退任して、創業者一家が完全に経営から撤退したこともあって、大きく変わったようです。

 理事長の息子は不正行為で以前に園長を解任されていましたが、理事には留まっていました。しかし母親である理事長の死をきっかけに、彼もまた解任されて、くすのき学園から完全に「追放」されました。その後は高齢者福祉の仕事に就いているようですが、ここだけの話、彼が理事を務めている施設、あまりいい噂を聞きません。弁護士には守秘義務があるのでここでは話せませんけど、かなりの問題がありますよ。


 もう20年近く前になりますが、地元紙の備讃新報で、くすのき学園からO大に進んだ女子児童のことが記事になっていましたけど、あれを見て、私たち夫婦も、感無量でした。昔のひどい頃のことを、愛美や兄夫婦、特に愛美の兄の義男さんらから、散々聞かされていただけに、ね。ただ、あの頃でも、園長の稲田先生や義姉になる愛子さん、それに各務先生のような、子どもたちのために一所懸命頑張っていた職員もおられたことは、あえて申し上げておきたい。

 そうそう、この話は、実に寄寓でした。うちの息子の中3の時の担任、国語担当の各務先生でしたが、家庭訪問の際にお聞きすると、やっぱり、くすのき学園におられた各務先生の息子さんでした。各務先生は愛美がお世話になっている頃、すでに結婚して御主人の苗字になっていました。御主人がもともと愛知出身で、名大の工学部を卒業した後、大学院の政治学専攻課程を修了してO大に赴任して来ていて、当時助教授でした。O大には、名古屋から来られている先生、意外と、多いですよ。各務教授はもう定年退職されていて、今は名誉教授です。


 そうそう、米河君がね、いつぞや、各務教授に、名古屋大の工学部と言えば、あの大塚ヨットスクールの大塚浩さんの同窓生ですかと聞いたそうで、各務先生、笑いながら、確かにそうだが、あんな奴と一緒にしないでくれと言われたそうです。

 彼は大学院の入試のときも、民事訴訟法の試験で「紛争」を「粉」争と書いて神戸国大出身の下村教授に指摘されて、不合格になったのですが、各務教授が、演習準備室に行政法の野原教授と一緒に来られた時に、彼に対して、


「ほう、粉と書いてコナゴナになったなぁ」


と言われたそうです。

 居合わせた受験生や合格者の皆さん、大笑いでした。あれは、横浜銀蠅のある歌の最後のセリフの「またイノコリだって」に匹敵する傑作でした。


 「いやなあ、内容のしっかりしとらん答案読まされる方としては、誤字脱字を見つけるぐらいしか、楽しみがないからのう・・・。下村さんも大変やったろう」


 野原教授が追い打ちをかけて、ますます大笑いでしたね。

 でも、そんなことでも笑い飛ばしてへこたれないのが、米河君の良さというか、何と言うか・・・。


 愛美にそのことを話したら、そりゃあ、養護施設に少しでもおったら、そのくらいでへこたれん神経も身に着くわって、言っていましたけど・・・。

 いいことなのか、悪いことなのか・・・。


 それはともかく、教授夫人の各務先生は、愛美が土屋の叔母夫婦に引取られてくすのき学園を去った翌年の3月で、子育てに専念するためにくすのき学園を退職されました。あの時代、各務さんのように結婚後も養護施設に勤められた方は、わずかだがおられました。しかし、定年まで勤められた人は、そうおられなかったはずです。

 今と違って、昔は、結婚までの腰掛というか、「花嫁修業」のような位置づけの仕事でしたからね。


 うちの母ですが、くすのき学園には、最初はいい印象を持っていませんでしたが、養護施設の全部を否定していたわけではありません。

 それどころか、小学生から中学生の頃にかけては、よつ葉園のある学区に住んでいたので、よつ葉園にいる友だちに会いに行ったこともあったし、よく一緒に遊んでいたそうです。津島町近辺はもちろん、伊福小学校や北方小学校、それに北部中学校の学区でのよつ葉園の評判はよかったようです。一部にはやんちゃな子もいましたが、そんなものは施設だからどうこうではなく、一定、そういう子はどこにでもいますからね。地域の人も、よつ葉園の子だからどうこうということは一切なかった。

 そんなことがあったから、うちの母は私が愛美と出会って付合っていても、決して反対などしなかった。愛美は結婚後も時々、くすのき学園でのことを母に話していましたが、子どもの頃に見ていたよつ葉園との違いに、驚いていました。


 私が、二人の前で米河君から聞いたよつ葉園の話をして見せると、母は、あの施設ならそのくらい良くなっていてもおかしくはないわねぇとのことでした。

 愛美は、そんなことならよつ葉園に行ったほうがよかったと、ぼやいていました。


 そうそう、母はね、太郎さんのお父さんとは中学時代の同級生で、あまり話したことはなかったけど、大宮哲郎君は、ものすごく頭のいい人だったと言っています。実は中学時代、太郎さんのお父さんにあこがれていたと言っていましたよ。


 この日は義男さんご夫妻と愛美さんご夫妻、それに、ぼくら夫婦の6人で、Gホテルの中華料理店で会食した。その会食の前に、ぼくは、携帯電話で父に尋ねてみた。

坂崎勝巳さんのお母さんは旧姓が藤尾さんと言って、北部中学校の近くで米屋をしていた人の娘さんだった。彼女があこがれていたと言っていたというと、それは信じられないな、わしは女子の人気はそんなになかったぞと、いささかびっくりしていた。

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