#35 いつ書くか?今でしょ!

「モブ先生、『イヤよイヤよも好きのうち』とことわざでよく言われますけど、やっぱりイヤよはイヤ以外の何物でもないと思うんです。


でも、ある特定の回数だけ繰り返して『イヤよ』と言えば『いいわよ』という意味になるんですよ、知ってました?」


「なんだよ、そのツンデレな愛情表現?


知らないけど、教えてくれないか?」


「じゃあ、特別に教えて差し上げましょう、浅学な先生のために。


6回だけ繰り返すんです」


「なんで、それが『いいわよ』になるんだよ」


おにヶ島しま詩乃しのは、手元にあったメモ用紙にペンを走らせながら、こう解説した。


「だって『イヤよ』を数字で書くと『184』、それに6をかけると、184いやよ✖️6=1104いいわよつまり『いいわよ』でしょ?」


そう言って、詩乃はドヤ顔を決めたのだった。


浅学とかさりげなく言われて少々ムカっと来たものの、こいつは一本取られた。


さすが、数字に強い詩乃ならではの発見だ。


「なるほど……って言うか、現実には聞いた相手がそれを分かるものかよ。


イヤよを6回言ったから、実は彼女、僕のこと好きなんだな、なんて分かるヤツいるのか?」


「いないでしょうね、おそらく。


さっきだって、わたしが何回そう言ったか、覚えてないでしょ、先生」


「それじゃ告白の意味、まるっきり無いじゃん!!」


僕は全力で、詩乃にツッコミを入れた。


      ⌘ ⌘ ⌘


昨日のそんなしょうもないやり取りを思い出しながら、僕は火曜日、午前中の時間をのんびりと過ごしていた。


スマホを取り出し、スケジューラを確認する。


それによるときょうの大学の授業は午後のみだが、2本あるので、アルバイト先の居酒屋「赤兵衛あかべえ」の開店時刻にはギリギリ間に合う感じだ。


もちろん、そのことは櫻井さくらい店長には事前に伝えてある。


僕より早めに来れるスタッフに火曜日だけ4時に来てもらって、店長とともに開店準備をしてもらうためだ。


僕は、再び昨日の詩乃との会話を思い出す。


詩乃は、これまでいろんな自分の可能性を捨ててきたが、本当はそうしたいわけじゃないと言っていた。


「無対価でかまわないから、どこかに自分の作品を発表し続けていきたい」、それが本音のようだった。


そしてその言葉は、実は僕自身の気持ちを代弁するものでもあった。


ライト文芸サークルを辞めて以来、小説らしい小説を書いていない僕だったが、書くこと自体に興味を失った訳ではなかった。


同人誌に書くぐらいしかアマチュア作家の発表の場のなかった往時とは違って、いまは詩乃のライトノベルに関する話の中にも出て来た、インターネットの無料小説投稿サイトがいくつもある。


つまり、発表場所に困ることはない。


要は書く意志があるか、それだけなのだ。


ためしにネットのそういった投稿サイトをスマホで覗いてみると、最大手のS、老舗のAをはじめとして、大手出版社系のK、N、Eなどぞろぞろと出てくる。


ひとつの作品を複数のサイトで発表しているケースが多いが、何本もの連載を並行して書いている書き手も少なからずいる。


それにしても各サイトが数万作、あるいはそれ以上もの小説作品を擁している訳だから、世の中、どれだけ「書きたい」人、「読ませたい」人が数多くいるかということのあかしだ。


たぶん、世の中に同人誌や商業出版社の新人賞しか受け皿のなかった時代と比較すると1桁、もしかすると2桁、小説を書く人口が増えたのではないだろうか。


その書き手のほとんどが、いつか原稿料という対価を得ることをひそかに期待しながらも、何万文字、何十万文字という膨大な文章を無対価で書き続けている。


それも何年も、何年もだ。


このことを、どう考えるべきなんだろうか。


世に数多くあるボランティア活動のたぐいどころではない。


とんでもない時間と労力が、そこには注ぎ込まれている。


かりにそれを報酬をともなう労働のために使えば、何十、何百億円、いや下手すると兆円単位の収入になりうるのでないだろうか。


僕がいつも学んでいる経済学の用語で言えば、ハンパない「機会損失」だという気がする。


その昔、麻雀というゲームが今ほど廃れていなかった頃は「亡国遊戯」だと揶揄されていたものだが、それに匹敵するエネルギーの無駄遣いなのだろう。


しかし、である。


たとえそのようなそしりを受けようと、人は書いてそれを発表したいという気持ちを抑えられないのは、隠しようのない事実なのだ。


何故なら、僕が昨日詩乃に言ったように、書くこととは生きることであり、その人の生存証明でもあるのだからだ。


対価のある無しに関係ない。僕たちは書くことで「自分はここにいる」と世界に対してアピール出来る。


文章表現とは、そういうものなのだ。


僕も、こうして何も書かないという惰眠状態をいつまでもむさぼっている訳にはいかないのだろう。


詩乃は「現実的には、あと5年くらいしか」残されていないと言った。


順調に行けば5年あまり後には大学を卒業している可能性が高い彼女にとっては、自分の夢を追い求めるのもそのあたりが潮時、そう考えているのだろう。


僕にいたっては、残された時間はさらに短く、せいぜい2年というところだった。


社会人になっても、何かを書く時間がゼロになる訳ではないだろうが、いまの時間だけはたっぷりある状況から一変、大幅に自由時間は減るに違いない。


そのことを考えると、もはや時間は無駄遣い出来ない。


何かしら、書くアクションに踏み切らねばなるまい。


そう痛感する僕だった。


とりあえず、僕は本棚から先日買って3分の1あたりで読み止まっていた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を取り出した。


そうして、ホールデンがジェーンとちょっといい雰囲気になったあたりから読み出した。


おそらく多くの人がそうだろうが、僕の場合も文章を書くには、なんらかインスピレーションが必要だったからだ。


このライトノベルの主人公のご先祖さまのような男に、たちまち僕は自分を重ね合わせて、ページを繰っていった。


多くの読者の場合と同じく、ホールデンの負っている心の傷は僕のそれでもあった。


年若く邪気のない妹を除けば誰ともうまく人間関係を結ぶことの出来ない彼に比べれば、僕はまだ小器用に人生を運んでいるほうなのかもしれないが、別の見方をすれば五十歩百歩なんじゃないかと思えたのだ。


僕もつまるところ、ひとつの恋もうまく実らせることの出来ない「ぶきっちょ」だったからだ。


読み進めれば読み進むほどに、ホールデンは僕の同胞はらからのように思えてきた。


そして、この一作が執筆から70年という歳月を経ても未だに世界中の若者に読まれ続けていることもなんらの不思議ではない、そう感じていた。


別にプロの作家になれなくても、こういった心にズイッと切り込んで来るような話を一生に一編だけでも書ければ、それはそれでいいんじゃないのか、僕はそう思うのだった。


      ⌘ ⌘ ⌘


昼食として自分の茹でたパスタを食べ終えた僕は、家を出て地下鉄の駅への道のりを急いだ。


大学の教室に着き、政治経済学の授業時間が始まるより少し前、僕はひとりの男から「よう、久しぶりだね」と声をかけられた。


聞き覚えのある高く明るい声。そう、1年の時から第2外国語のフランス語で一緒だった水城みずしろだ。


「そうだな。もしかしてこの授業に出てくるのも、久しぶりなんじゃないか、水城」


ひょろっとした体つきの水城は僕の隣りの席に、ごく当然のことのように腰をおろした。


「う、うん。まぁ、そうだな。


ここんとこ、この授業、俺は休んでばかりいたのは事実だな。


で、情報筋によるとこの政治経済学、あまりに欠席者が目立つんで出欠取りを復活させることにしたって聞いたんだ。


これから何回かの授業は出ておかないと単位に響くらしいから、あわてて出てきたって訳さ」


「ふぅん、そういう情報って水城は本当に詳しいんだな。つくづく感心するよ。


教師サイドの情報の取り方なんてどうやって手に入れるのか、僕には見当もつかないや」


「それはまぁ、いろいろあるのさ。


とにかくモブは俺に比べたら勉強熱心だからそんな小細工は必要ないだろうが、俺のように綱渡りで進級している人間には、必須のテクニックなのさ。


で、悪いけど、ここ2か月ほどの政治経済学のノート、貸してくれないか?」


やっぱりそう来たか。予想はしておりました。


僕はほとんど学友にノートを借りたことがないが、貸すことはけっこう多い。


僕の場合、貸したらその分自分も借りる、あるいはお礼をもらうという「ギブアンドテイク」のパターンじゃなくて、「ギブアンドギブ」に徹するようにしている。


つまり、お礼は自分からは求めない。何かくれると言えば、遠慮しないけどな。


僕はそんな些細なことでひとに恩を着せたり、逆にひとに恩を感じたりするのが正直言ってわずらわしいのである。


先週の金曜日は名越なごし彩美あやみに経営学のノートを借りたのだが、それは僕としてはごく珍しいケースだ。


あれは名越のほうから、貸してあげると言ってきたから彼女のお言葉に甘えたのであって、僕から貸してと頼んだ訳ではないのだ。


「いいよ」


僕はふたつ返事で依頼を請け負い、水城にノートを渡した。


最近は学生もノートのコピーを、コピー機など使わずスマホのカメラで即撮りするやり方が一般化してきている。


「サンキュー」


そう答えた水城も、さっそくスマホでパシャパシャやって、ノートも5分後には返ってきた。


何時間もかけて書いたノートもあっという間に複製されてしまう。その事実を目の当たりにすると、真面目に授業に出てノートを取ることに一抹の虚しさを感じてしまう僕だった。


「ところで、モブは聞いたかい?


濱田はまだのヤツ、今度作家デビューしたんだってさ」


濱田とは水城同様、語学で同じクラスだった男である。


さほど親しい訳ではないが、少し話をしたことはある。


その彼が作家に?


「まだ書店で見かけたことはないんだけどさ、ライトノベルらしいよ。


タイトルは、そう、「いもうとが僕の恋のジャマばかりする」とかなんとかいうヤツだったかな。


聞き覚え、見覚えありまくりの題名が、僕の耳にいきなり飛び込んで来たのだった。(続く)

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