#15 セカンド・ステップ

午後の授業、倫理学の時間が始まった。この授業ははっきりいって退屈だ。

講義をする安齋あんざいという助教授は四十代半ばの男性だが、話にまったくメリハリというものがない。


ヤマもオチもなく、ただただ主要な用語とその説明を述べていくだけ。

軽口を叩くこともなければ、含蓄ある話をしてくれるわけでもない。


学生の過半数は、ノートを取ることもなくボーッと聞いているだけだ。


いや、半分近くは居眠りをしているか、スマホを見たり文庫本を読んだりの「内職」をしていた。


それでも広い教室の八割がたはびっしり埋まっているのを見ると、かなり人気がある科目ともいえた。


もっともそれは「ノート持ち込み可で、試験もさほど難しくない」「評価も甘くて、たいていりょうはくれる」「出欠もとらないから、サボれる」みたいな情報が事前に広く伝わっていたからこの科目が選択されたのであって、彼の講義が面白いからではないことは明らかだった。


そして僕も、効率よく単位が取得出来るがゆえにこの授業を選んだひとりだった。


だから、他の学生を非難などできようもない。


とはいえ、倫理学そのものは、功利的、自己中心的な考え方をとりがちな現代の人間にとって、大切な問題を提起している学問だと僕は以前から思っていた。


興味や関心があったからこそ、この科目を選んだのでもあったが、講義の実態はあまりに期待外れの内容といえた。


正直言って、集中力が二十分ともたない。


先ほど名越なごしと一緒にとった昼食でお腹が満たされ、血液中の糖分が増加したことも相まって、授業が開始して四十分、僕はうとうととし始めた。


せっかく名越との会話から刺激を受けて、この授業からはノートをきちんと取ろうと心を入れ替えたのもつかの間、ペンを握る手にも力が入らなくなっていた。


と、いきなりシャツの胸ポケットがブルッと振動して、僕は我に返った。


それは、先ほど名越と連絡先を交換したばかりのスマホだった。


ヴァイブは一回きり。メール受信の知らせだ。


授業中だから返事を打つのはマズいが、文面を見るぐらいならまあ許されるだろう、緊急の連絡って可能性もありうるしな。


そう考えて、僕はそっとスマホを取り出して操作した。


メールの送り主は、佳苗かなえ伯母おばさん。タイトルはない。


開けてみると、こうあった。


「ヨシトくん、今は授業中かな、ごめんね。でも急いで伝えた方がいいと思ったのでメールします。


きょう、ふたりめのクライアント候補が見つかりました。


きょうのきみは授業と本来のアルバイトでめいっぱいふさがっているって聞いてたから、明日にしてもらったんだけど、午後三時に次のかたのお宅におうかがいして挨拶してくれないかな。

実質、採用面接でもあるが。


ちなみに、今回も教える相手は女子高校生だ。


いやーモテモテじゃないか、ヨシトくん。


今回もぜひ採用をゲットしてくれ。健闘を祈る」


明らかに冷やかし笑いが感じられる文面だったが、もちろん僕は文句が言える立場にはない。


粛々とこの話をお受けするしかあるまい。


クライアントはあくまでもクライアント。

JKだろうがJCだろうが、仕事として教えるのだから、ゆめゆめ鼻の下を伸ばしてはならないぞ。


僕は、自分にそう言い聞かせた。


新たなクライアントの名前は、辰巳たつみ姫子ひめこ、高校一年生。

住所は世田谷区経堂きょうどうだった。


返事レスは授業が終わってからにしようと決めて、メールアプリはいったん終了させた。

そして、スケジューラで明日の予定を確認した。


明日は居酒屋のアルバイトはない。

時間的な制約はなにもない。

指定通りの時間に行ける。


経堂というのは初めて行く場所ところではあるが、スマホのマップアプリがあればさほど迷うこともない。


これが家庭教師としての僕の「セカンド・ステップ」なのだ。


目標に向かって一歩一歩、前に進んでいくしかない。


僕はわが身に訪れる新たな試練に備えて、決意を新たにするのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


残りの時間はきちんと授業に集中し、ノートもとった。


家庭教師の仕事がさらに増えそうだ、もう時間はムダにできないという事実が、自分にいい刺激を与えているのは確かだった。


授業終了後、僕はこういうレスを伯母さんに送信した。


「伯母さん、さっそくに次のかたも探していただき、ありがとうございます。


明日の午後三時、大丈夫です。


また採用されるよう、ベストを尽くしたいと思います。


つきましては、辰巳さんはどのようなご家庭なのか、ご本人がどのようなかたなのか、事前にお教えいただければありがたいです。ヨシト」


それからしばらくはキャンパス近くの書店でライトノベルを立ち読みして時間をつぶした後、僕は居酒屋のある汐留まで移動したのだった。


居酒屋「赤兵衛あかべぇ」は、チェーン系の居酒屋ではなく単店経営で、武骨な名前のわりには外装内装ともに小ぎれいな、和風ダイニングバーともいうべき店だった。


オーナーは他にも何軒か、それぞれコンセプトの異なる飲食店を経営している初老の男性だそうだが、僕は直接会ったことはない。


かわりにお店は、三十過ぎと思われる若い店長がすべて仕切っていた。


彼は店長であると同時に、メインの料理人でもあった。


櫻井さくらいというその男は、かつてはフランス料理のシェフを目指して本場で修業していたのだとか、自分のレストランを開店したいのだが、そのための資金がなかなか貯まらないので今は居酒屋の雇われ店長に甘んじているのだとか、そういった噂を同じアルバイト仲間から聞いたことがある。


店長本人はあまり自分のことを進んで語ろうとしないひとなのだ。


ただ、独身であるということは、あるとき自ら語ったという。


誰か遠慮のない性格のアルバイトが、彼の家族構成について質問をして、「いや、自分ひとりものなんで」と答えたそうだ。


だから、真偽は確認できていないものの「たぶん、独身なんだろう」ということになっている。


僕は店に着くと、さっそく櫻井店長の元に行き、家庭教師のアルバイトが決まったため、申し訳ないがシフトを減らしてもらえないかというお願いをした。


なぜ新たなアルバイトをすることになったかについては、「少しまとまったお金を短期間で稼ぐ必要が出来てしまって」とだけ理由を述べた。


もちろん、「もっと詳しく聞かせてくれ」と求められたら、さらに立ち入ったわが家の事情も話すつもりでいたのだが、とりあえずそれだけ話して、店長の出かたを見ることにしたのである。


店長は、「そうか」とひとこと返してきただけだった。 


拍子抜けした。


そのかわり、彼はツンツンとした茶髪を手でかきながら、眉間みけんにしわを寄せてこう言った。


「ただ、忙しい金曜日に抜けられてそのままってのは困るんだよ、モブくん。


来週の金曜から、来れなくなるってんだろ?


今から求人したとして、代わりのひとが来るには来るだろうが、既に半年以上の経験を持つきみと同レベルのパフォーマンスが可能、そんな人材はそう簡単に来るとは思えない。


いちいちゼロから教える手間を考えたら、半人前の人手だったら、いないほうがマシなんてことになりかねないなぁ。

きみがそのひとに引き継ぎをする時間がとれればいいんだが、どうやらそれも難しそうだな。


どう? なにかいい策はない?」


それを聞いて、僕は『やはり、あのゝゝ話をするしかないんだろうな』と思わずにはいられなかった。


「分かりました。実は、僕の大学の友人にひとり、心あたりがありまして……」


そうして、僕は名越彩美あやみのことを話した。


「彼女なら、飲食店でのアルバイトの経験も十分ありますし、調理のほうもある程度は大丈夫だと思います。


それにとても愛想がいいので、接客もバッチリです。


お客さんにも絶対ウケるタイプなんじゃないかな。


きょう、たまたま学校で会って、僕の新しいアルバイトの話をしたら、『わたしが、モブくんが出られなくなった金曜日に代わりに出てもかまわないよ』って言ってくれたんです」


「そうか。それはまたナイスなタイミングで、おあつらえ向きのピンチヒッターが現れたもんだな。


でだ、モブくん」


そこで店長は少し言葉をためながら、僕に片目をつぶって見せた。


「きみに対してそこまで好意的な申し出をしてくれるということは、名越さんって言ったよな、その子はきみのコレということかな?」


そう尋ねてくる店長の手元を見ると、右手の小指だけを立てているじゃないか。


えっ、名越が僕の恋人かのじょかって?!


僕はあわてて、手を左右に振った。


「違います、違います。僕の彼女なんかじゃありません。


教養で同じクラスだとはいえ、彼女とサシで話したのもきょうが初めてぐらいだから、付き合ってなんかいません」


店長はそれを聞いた後、静かな口調でこう答えた。


「わかった。きみがそこまで否定するということは、きみは彼女に特別な感情を持っていないと解釈させていただくよ。


なんでこんなこと聞いたかというと、以前に『ただの友だちです』とか言って、本当は自分の恋人である子、あるいは付き合いたいと思っている子に代役をやってもらう、そういうケースがあったんだよ。


もし、そんな女性を僕が好きになって、うっかり口説いてしまったらマズいだろ。


おたがいの信頼関係にまで、ヒビが入っちまう。


だから、確認させてもらったのさ。


もっとも、その女性を好きになるかどうかは、実際に会ってみないことには分からないけどね」


そこで、店長は軽く笑ってみせた。


「でもまあ、念のためってことさ。悪く思わないでくれ」


僕は、そういうことかと納得し、店長に答えた。


「いえ、僕はぜんぜん気にしていません。


それに、たしかにその辺のところは事前に確認しておいたほうが、トラブル防止策になりますね。


さすが店長、危機管理の達人だなぁ」


「おいおい、妙なところで感心しなくていいよ」


「そうですか。でも、僕は人生経験不足で、そういうことまでは気が回らないので。


言われて、初めて気がつきました」


「はたちやそこらで、経験豊富だったら逆に怖いよ、まったく」


「尊敬する櫻井店長だったら、名越さんを口説いてもいいですよ。僕が許します」


「そりゃ、マズいよ。彼女のあずかり知らないところで大事なことを勝手に決めちゃ」


「ハハ」「ハハハ」


これまではそんな軽口を叩いたことなどなかった僕と店長は、ひょんなことで妙に盛り上がったのだった。


「では、どうしましょうか、名越さんの面接。


来週金曜日の前に、来てもらいますか?」


「いや、それには及ばないと思うよ。


本当にきみという人のメガネにかなったひとならば、改めて僕が面接する必要はないだろう。


そこはきみを信頼するよ。


正式採用にあたってオーナーに了解をとるため履歴書は必要だが、それも初出勤日に持参してくれればいい。


そういうふうに、名越さんにきみから伝えてくれ」


「分かりました。伝えます。


お気遣い、本当にありがとうございます」


僕は店長に向かって、深々と頭を下げて謝意を伝えた。


「いやぁ、礼には及ばないよ。きみがいくつものアルバイトを掛け持ちして働かないといけない苦労に比べれば、僕のやったことなどちっぽけなことだ。


それより、名越さんに感謝することだね。


きょうび、友だちのためにそういうことをしてくれるひとはめったにいないぜ」


店長はにっこり笑ってそう言った。


僕もそれに素直にうなずいたのだった。(続く)

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