第3話 ミスマッチ 1

 1985(昭和60)年2月初旬 よつ葉園事務室にて


 「前川先生、ちょっといいかな。園長室に来てもらえますか?」

 朝礼の後、大槻和男園長は、新卒1年目の前川喜子保母を呼び止めた。

 園長に導かれ、彼女は、園長室へと入っていった。


 「あなたには、今年は中学生の男子の担当をやっていただいたが、正直、どうかな?」

 彼女は、答えに窮していた。

 「あなた、短大は、幼児教育学科じゃったな?」

 「は、はい」

 「Z君、あなたの担当にいますよね。あなたが、彼をきちんと「指導」できているかどうか、そこのところが、私はいささか、心配でなぁ・・・」

 「正直、彼ばかりは、厳しいと思っています」


 もちろん、あなた一人では厳しいことは、予想がついていました。ですから、梶川指導員にサポートしてもらう体制にして、この1年、やってきた。本来なら、彼は中田彦一君という、この春に退職した、というか、お引取り願った男性指導員に担当させたかったのだが、事情があって辞めてもらわざるを得なくなった。梶川君に直接担当させたいと考えたが、彼が、自分一人では厳しいから、保母につけさせて欲しいと、言ってきた。それで、あなたに担当していただくことになった次第でね。

 あなたにそのような事情を話していなかったのは申し訳ないが、私も、彼が、県立の難関進学校に合格できるレベルの学力を持った児童であるからこそ、あなたのような若い女性であっても、うまく合わせてくれると、いささか期待しておった。

 じゃが、彼の知的レベルもさることながら、社会性についても、正直、短大を出てすぐのあなたに対応できるレベルじゃなかった。これは私の見込み違いであり、何より、あなたの責任じゃない。あなたはもちろん、梶川君も、彼なりによくやってくれています。ともあれこれは、私の責任です。申し訳なかった。

 

 大槻園長は、ようやく21歳になったばかりの彼女に、頭を下げた。

 

 園長先生、私も、この仕事を、甘く見ていたのかもしれません。

 養護施設での子どもの世話、それも中学生や高校生の子たちを相手にすることもあると、短大で教わりましたし、それも必要な仕事だということは、頭ではわかっていました。保育園の求人を探しましたが、あいにくなかったので、養護施設にも応募しました。

 よつ葉園に採用していただいて1年間、中高生の男の子たちに囲まれて、楽しく過ごせたと思います。

 梶川先生も、陰に陽に様々な形で、フォローしてくださいました。ですが・・・。

 

 彼女の言葉は、そこでしばらく止まった。泣いているわけでもないのだが、感極まった様子。

 大槻園長は、彼女の顔色を見ながら、話を続けた。

 

 もう、それ以上は、言わなくて結構。

 Z君の成績がこのところ落ちているのは、あなた一人の責任ではない。

 彼を取巻く環境に問題があるが、もはや、あなた一人で何とかしようとしたところで、どうにもならん。梶川君は、うまいこと、時が経つのを待って、しかるべき手を打とうと考えてはいるが・・・。尾沢君にフォローしてもらうにも、彼も別の仕事があるから、手が離せない。

 Z君の将来を考えたら、今が、もっとも大事な時期です。彼が県立S高校に合格できようができまいが、彼は大学に向けて進むことは間違いない。彼は、それだけの力のある子です。少なくともあと3年、私たちは彼を見守らないといけない。

 この際、私が直接担当してもいいのだが、私だけでもかなり厳しい。いずれにしてもあなたには申し訳なかった。その上で、厚かましい上に虫のいいお願いだが、とにかく、今年度いっぱいは、もう特に何かの働きかけなどしなくていいので、彼を、見守るだけ見守ってやってください。

 難しい案件は、梶川君にあたらせます。

 

 「はい、わかりました。できる限り、頑張ります」


 大槻園長は、来年度のことに話を向けた。

 「ところで、前川さん、あなたは、中高生の男子児童を引続き担当したいですか?」

 彼女は、きっぱりと返答した。

 「お断りします」

 

 大槻園長は、その答えにいささかたじろいだが、さほど驚いた風ではなかった。

 「そうか・・・。じゃあ、どの年代の子たちなら、担当可能ですか?」

 「幼児担当に、させてください」

 「そうして差し上げたいのは、やまやまですが、うちでは申し訳ないが、無理です。小学生の担当も考えてみましたが、こちらもすでに枠が埋まっています。ですから、中高生の男子児童を、もう1年だけでも担当していただければ、ありがたいが・・・」

 「女子では、だめですか?」

 「申し訳ない。そちらも枠が埋まっています。別にいじめるわけではないが、正直そこ以外、うちではあなたの『居場所』がないのです。もちろん、Z君を引続き担当しろとは言いません。梶川君に直接させるか、男性の児童指導員が採用できれば、その人物にさせます。彼は無理でも、他の子たちは十分、担当できるのではないかな?」

 「できないとは言いませんが、もし、Z君が今のもめ事の影響もあって、高校受験に失敗したら、とてもではありませんが、私は、合わせる顔がないです。彼がどうこうというだけではなく、他の職員の皆さんに対しても、顔向けが・・・」

 「県立高校の入試は、3月半ばです。彼が入試で不合格になったと決まったわけでもない。そんなこと言わずにお願いしたい。あと1年だけでいいですから・・・」


 それからしばらく、両者間に沈黙が走った。


 あと1年と園長はおっしゃいますが、その1年後には、どうせまた、もう1年などとなるのは目に見えています。

 石の上にも三年とか、わかったようなことを仰せになるおつもりか知りませんが、このままここに勤めても、私の保母としてのキャリアは、決して高まることはないと、確信しました。

 中高生の男子児童を担当させていただいて、確かに、いい経験をさせていただきましたが、Z君のような子の、進路に関わる厳しい案件を丸投げされて、それで責任を負えと言われましても、私には、到底負いきれません。


 大槻園長は、彼女の弁にいささか焦りを感じ始めた。

 「トカゲの尻尾切りのような対応を、あなたにする気はない。それから、中高生の男子児童を担当してもキャリアが高まらないという点については、半分は確かに正しいと思うが、もう半分は、そうは思いません。その半分というのは、あなたがいずれ子育てをするとき、あるいは、親族の子たちがそのくらいの年齢になったとき、今の経験は、形を変えて役に立つと思うからです。もっとも、正しい分の半分については、確かに、保育園の子どもたちの世話、保護者への対応、そういった面での対応力が、このよつ葉園という職場では磨かれないという点において、確かに正しいでしょう」

 「将来の子育てとか、今の私には、そんなことまで考えるゆとりはありません」

 「でしょうね。それはともかくとしまして・・・」


 ここでまた、会話が途切れた。数分後、大槻園長が口を開いた。


 「あなたは、保育園にお勤めになられたかったのだね。それでしたら、今日に明日とはいきませんが、少なくとも来年度からは、保育園に行って保母として勤務されるとよろしい。よつ葉園という養護施設だけが、保母の資格を活かせる職場ではないからね」

 「しかし、今から仕事を探せと言われても・・・」

 「何なら、一緒に探してあげてもいい。紹介状も、書いて差しあげましょう」

 「ありがとうございます・・・」

 「また一人、新卒の保母を雇わないといけませんが、それは私の仕事ですから、仕方ない。あなたにはやはり、無理過ぎる仕事を押し付けてしまった。申し訳ないが、あなたはもう、来年度は本園にお勤めになる気はおありでないということで、よろしいな?」


 少しの間考えて、彼女は、重くなった口を開いた。

 「申し訳ありません。今年度末をもって、よつ葉園を退職させてください」

 大槻園長は、デスクから持ってきていた紙とボールペンを彼女に差出した。

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