第2話 去る人と残る人

                          

1981(昭和56)年1月中旬 よつ葉園事務室にて


   プロローグ

 武田桃子保母は、大槻和男主任指導員の求めに応じ、自己名義による一通の封筒入り文書を提出した。それには筆文字で「退職願」と書かれていた。封筒を開封し、文面を確認した大槻指導員は、直ちに、窓際で執務する東航園長に彼女の退職願を手渡し、受理を求めた。東園長にも、異論はない。

 「武田先生、長い間ご苦労様でした。これから2か月ほど、うちも森本君の新しいお店も大変だと思うが、最後まで、どうかよろしくお願いします」

 大槻指導員は、彼女をねぎらい、そして励ました。


 武田桃子保母は、1974年、C短期大学を卒業後、7年間よつ葉園に勤めた。当時の養護施設の保母(現在の保育士)の在職期間としては、かなり長いほうであった。

 この頃の養護施設の保母は、結婚後も通勤で勤め続ける一部の例外を除いて、短大などを卒業後、おおむね3年平均で退職していた。もっとも、それはあくまでも当時のこの世界の事情を知る人たちの「感覚」的なもので、統計上正確に立証されたものではないが、そのくらいのサイクルで職員の顔ぶれが少しずつ変わっていく、典型的な職場であった。

 当時は「人手」のいる仕事が今まで以上に多かった。特に、結婚前の若い女性というのは、様々な職種における「現場」の労働者として、実に重宝されていた。高校進学率が高まり、中卒ですぐ働く少年少女たちを「金の卵」ともてはやすような時代ではなくなりつつあったが、中学卒業後、集団就職で都会に出て行った世代の少し下あたり、1950年代生れの高卒・短大卒の女性たちというのは、ある程度学んでそれなりのことができ、しかも結婚などを理由に短期で辞めていくが、その分代わりのいくらでも効く、使用者側にしてみれば実に重宝する「労働力」という位置づけがなされていた。

 養護施設の職員という仕事もまた、その例に漏れない職種の一つであった。彼女たちは主として短期大学を卒業後、新卒で養護施設の保母として就職し、数年勤めた後、結婚や転職などを理由に退職していく。養護施設は近年以上に運営が苦しかったから、彼女たちみんなが長く勤められると、給料を支払いきれなくなってしまう。しかし、数年程度のサイクルで就職と退職をしてくれていれば、全体として人件費を高騰させずに済む。そういう点から見ても、彼女たちは実に重宝な「人手」であり、「人材」でもあった。

 さて、武田保母の話をすすめていこう。彼女は岡山県内のC短大で保母資格を取得して卒業後、養護施設「よつ葉園」に就職した。最初は保育園の保母を目指していたのだが、C短大でたまたま受講した、よつ葉園で児童指導員を務める大槻和男講師の講義を聞き、この仕事に興味を持った。彼女はよつ葉園に就職し、7年にわたり、さまざまな年代の男女児童の担当をした。どちらかというと女子児童の担当が多かったが、そのうちの2年ほどは、小学生の男子児童の担当もした。彼女と同じ年に就職した坂上保母同様、児童の男女・年代を問わずそつなく担当できる要素を持っていて、よつ葉園の運営上、実に重宝される保母の一人だった。

ところで、養護施設に勤める女性の「出会い」には、昔も今も、様々なケースがある。職場が特に絡まないケースも多々あるが、絡むケースも、もちろんある。彼女の生涯を通しての伴侶となるべき人との出会いもまた、この「よつ葉園」という職場だった。


  2

 彼女がその男性と出会ったのは、1977年6月。彼女が24歳の年だった。

 その日は日曜日。彼女は勤務日ではあったが、勤務シフト上の休憩時間でもあり、特に子どもたちの面倒を見るべき必要もなかったので、住込みの居室でくつろいでいた。

 昼食時も過ぎた頃、ある若い男性がよつ葉園を訪れてきた。森本潔という、よつ葉園の卒園生だった。彼がよつ葉園を訪れたとき、たまたま玄関で出会ったのが、すべての始まりだった。あいにく日曜なので、東園長も大槻主任指導員も公休日。しかし、大槻指導員は、よつ葉園の敷地内にある職員住宅に居住している。そこで彼女は彼を伴い、大槻邸に向かった。大槻指導員は、自宅で妻子とともにくつろいでいた。彼らは大槻指導員を呼出し、3人そろって、園舎内にある応接室に向かった。

 森本氏がよつ葉園に来たのは、大槻指導員と旧交を温めるため。武田保母とは、それまで、何の面識もなかった。大槻氏とよつ葉園で接点があったのは、彼が中3の年だけ。ちょうど新卒で就職してきた大槻指導員が最初に担当した「児童」の一人だった。

 武田保母は、森本氏を大槻邸から応接室まで案内を済ませたら、住込みの居室に戻ろうと思っていた。とはいえ、その前に、お茶でも出さなければ。彼女は気を利かせて、給湯室に行って冷蔵庫を開けてグラスを2つ準備し、森本氏と大槻指導員に麦茶を出した。

 「それではごゆっくり。失礼いたします」

 そう声をかけて、彼女は退出して行こうとした。

 「まあ待ちなさい、武田さん。せっかくじゃ、森本君との話に付合ってくれるか。ちょっとわし、うちに帰って用事を済ませてくるから。この麦茶、あんたが飲めばいい」

 そう言って、大槻指導員は、敷地内にある自宅にいったん戻っていった。

 武田保母は森本氏とともに、応接室に残された。黙ったまま、大槻指導員が戻るのを待つというのも難だと思ったのか、お互い、話すともなく話し始めた。


   3

 「あなたは、武田センセイ・・・、ですか?」

 「その・・・、『先生』といわれるほどの者でも・・・、ないです」

 園内では「先生」と呼ばれて久しい武田保母だが、さすがに、同世代の男性に言われるのには、いささかの違和感があるのか、謙遜的な言葉を思わず口にしてしまう。

 「あ、私は、このよつ葉園の卒園生の森本潔といいます。昭和44年に中学を出て就職しました。その前の1年間、中3のとき、ちょうど大槻先生が大学を出て就職して来られてね、最後の1年、担当してもらいました。今、24歳です」

 「森本さん、24歳ですか。私も、同じ年です。昭和28年生れですよね。私は、7月17日生まれです」

 「え? 実は、ぼくも、その日が誕生日ですよ・・・」

 意外なことが、あるものだ。お互い、しばらくの間、唖然として言葉が続かない。

 「あの、申し遅れました。私、保母の武田桃子と申します。よろしくお願いします」

 「武田、ももこさん・・・、は、はい、よろしくお願いいたします」

いささかぎこちない会話がしばらく続いた。ところが、肝心要の大槻指導員、どういうわけか、自宅に戻ったまま、この応接室に戻ってくる気配がない。

 「武田さん、私、中学を出てずっと、寿弁当で仕事しています。今は、岡山駅前の寿レストラン、あるでしょ、寿弁当のチェーン。そこの1階にある喫茶で、今は、ウェイターをしています。将来的には、自分の店を出そうと思って、今、必死に頑張っています。よかったら、ぜひ、休みの日にコーヒーでも飲みに来てください」

 よつ葉園に就職して岡山市内に出てきて4年目。それほど街中に遊びに行くこともなかった彼女だが、彼の話を聞いて、たまには、一人で街中に出てみようという気になった。

 「実は、明後日が休みなので、行ってみます。森本さんは、何時から御勤めですか?」

 「明後日の火曜日は早番ですから、朝から昼過ぎまで勤務です。勤務が終ったら、街中で借りているアパートに戻るだけですが、いかんせん、暑いですからね、夕方まで、どこかで涼んで、それから帰るつもりにしています」

 当時はアパートに冷房なんてない時代。涼もうと思えば、どこか冷房のある公共の場にでも行ったほうが、電気代もかからないし、快適に過ごせた。

 「そうですか、じゃあ、昼頃に、行ってもいいですか?」

 「もちろんです。というか、普通のお客さんに、来るなとか帰れとか、言えないでしょう。うちは11時からランチもやっていますから、どうぞ、来てください」

30分ほど話していると、大槻指導員が自宅から戻ってきた。窓の外から、彼らの会話が妙に弾んでいるのを見て、彼は内心、ニヤリとしていた。とはいえ、さすがに表情に出すわけにもいかない。平静を装って、少し間をおいてから、応接室に入ってきた。


   4

 「いやはや・・・、実は、ちょっと、うちの子どものことでいろいろあって、戻るのが遅くなった。お二人をほったらかしにして、申し訳なかったな。まあでも、君ら、ちょうど同じ年でしょ。先程窓から覗いたら、お互い話も弾んでいるようだったものでね、一瞬どうしようかと思ってねぇ・・・、もし話の途中だったら、ごめんな、邪魔して」

 「いえいえ、大槻先生、実はこのところ、私、厨房からウェイターに配置換えになりましてね、1階の喫茶店の、ね」

 「ほう、それはまた。毎日、蝶ネクタイでもしているのかい?」

 「ええ。黒のゴム止めのもので、手で結ぶようなことは、しませんよ」

 「そうかな。で、将来は、どの形態で開業するつもりなのかな?」

 「居酒屋でもいいかなとは思っていますが、どうも、それだと夜ですし、どうしても酔っ払い相手になるから、いかがなものかなと思っていましてね。あるいはこのあたりの学生街で大学生相手の食堂も、いいかなと思ったりしています。寿弁当のチェーンは、和食も洋食も中華も扱っていますから、どこに進んでも、それなりにツブシがきくところですからね。会社に残って頑張り続ける手もありますが、創業者一家の関係者や大学出の社員が上に立つ会社では、上がれても知れていますからねぇ・・・」

 「まあ、今日に明日さっさと出て行って何かやれと言われているわけでもないなら、チェーンの中だけでなくあちこち回って、もう少し模索してみりゃあ、よかろう」

 森本氏は、大槻指導員に近況報告ともつかぬ世話話をしばらくした後、街中のアパートへと帰っていった。武田保母は、大槻指導員とともに彼を見送った。

彼女の心の中に、これまで感じたことのない「ワクワク感」が芽生えていた。


   5

 2日後、公休日の彼女は、昼過ぎを待たず、朝の10時前、駅前の寿レストランに出向いた。モーニングをやっている時間ではあるが、客はまばらだった。

 「いらっしゃいませ」

 レジにいる、自分と同じぐらいの若い女性店員が声をかける。彼女に案内され、奥の席に腰かけた。厨房の前に、彼はいた。

 「あ、森本さん、おはようございます」

 「いらっしゃいませ・・・、あ、武田さんじゃないですか。先日はどうも」

 「ごめんなさい、少し早すぎました?」

 「いや、今のほうがちょうどいい。とりあえず、モーニングを頼まれますか?」

 「はい、お願いします。アイスコーヒーで」

 「かしこまりました。モーニング、イチ、レイコー」

 彼は厨房に向かって、叫んだ。

 彼の声に呼応して、厨房からコックが声を張り上げる。

 「ありがとうございました!」

 少し玄関寄りの中年のサラリーマンたちが、レジに向かっていく。おそらく、国鉄の管理局の人たちだろう。よく見かける人たちだ。話を聞いていると、どうやら、東京の本社からの出張者を出迎えていたのだろうと思われる。明らかに一人、知らない男性がいた。その人が、本社から出張でやって来た人物であろう。森本氏はこの1年ほどウェイターをしているが、すでに、かなり多くの客と顔なじみになっていた。

 彼は彼女のもとによって、少しだけ、話した。

 「今日は、午後、開いていますか?」

 「ええ。いつでも大丈夫です」

 「じゃあ、私は午後2時で勤務が終わるから、その後、別の店に行きましょう。とりあえず、この店の前にその頃来てください」

 やがて注文が出来上がった。彼は彼女のもとにモーニングの料理とアイスコーヒーを運び、何食わぬ顔で他の客の注文を受けに向かった。


   6

 彼らはその日の昼、別の喫茶店で食事し、ずっと話し込んだ。その日はそれで別れた。翌週の火曜日、また、彼女は寿レストランに現れた。その日彼女は、彼の住む場所へと案内された。そこでまた、彼らはずっと話し込んだ。森本氏は、独立に向けて頑張っていた。そのためには、まだまだ資金を蓄えておく必要もあるし、何をするかをはっきりと決める必要もある。一方の武田保母はというと、特に実家に仕送りをする必要があるほど厳しい状況ではなかったが、将来に備え、蓄えを少しでも増やしておく必要を感じていた。

 この二人が男女の関係になるまでには、それほど時間はかかっていない。

 しかし、いざ結婚となると、森本氏の仕事の問題だけでなく、彼らの両家の問題が横たわる。養護施設出身者、とりわけ男性側の結婚については、それ故の結婚に差しさわりができたことは、当時、多かったと言われる。幸か不幸か、森本氏は両親と生き別れになっており、どちらとも音信不通だ。親族は、父方の祖父母と父の兄にあたる伯父がいるぐらいだ。養護施設どうこうに関わらず、かなりのハンデになりかねない。

 この頃はまだ、戦前からの家制度の考え方が根強く残っており、特に地方であるほど、家と家の結びつきが強く意識されていた。児童相談所や養護施設関係者も、子どもたちに「何とか家」がどうこうという言葉を使って話すことがままあった時代である。

 幸い、武田保母の実家は、そのようなことをとやかく言う「家」ではなかった。それどころかむしろ、家制度のようなものに批判的でさえあった。彼女には兄が2人いた。上の兄は関西の私立大学に現役で進学し、少し時間はかかったが、司法試験に合格したほどの能力の持ち主だった。彼はその頃すでに、大阪市内に自分の名前の入った法律事務所を構えていた。彼は「武田家」の長男だが、岡山県のそれもはずれ片田舎の実家を「継ぐ」ということは、まったく眼中になかった。その弟で彼女のもう一人の兄が、地元に残って事業をすることになったので、彼が、その「家」を継いでいた。

 彼女の縁談、相手の森本潔氏が養護施設出身者ということで、ひと悶着あるものかと思われた。だが、弁護士をしている長兄が、両親らに「喝!」を入れた。

 「森本潔氏が養護施設出身者であるが故に結婚を反対するというなら、森本氏側の代理人に就任して、わしがこの家に弁護士名で内容証明を送付して、訴訟も辞さんからな!」

 彼はさらに、言った。

 「家制度など、過去の遺物だ。私はそれを叩き潰すとまではいわんが、悪弊は取り除かねばならん。そのためになら私は、悪魔とでも手を結ぶ!」

 彼女の兄、味方につけたら頼もしいが、敵に回すと随分厄介な人物だ。だが、弱い者いじめをするような人間ではない。森本氏にとっては、この兄のおかげで縁談が大いに進んだように思われた。その兄は、森本氏に会って話して、随分気に入った模様だ。もっとも、武田保母の下の兄や両親たちもまた、森本氏を随分気に入っていた。

 縁談は、無事、まとまった。時すでに、1980年の秋。彼らが付き合い始めて3年が経っていた。森本氏の独立のめどが立ったこともある。また、武田保母が7年にわたって勤めてきたよつ葉園の、津島町から郊外への移転が本決まりになった。彼女は当時、自動車の運転免許を持っていなかった。いまさら郊外にまで勤めに行くとか、まして住込みで働き続けようという気は、なくなっていた。結婚が成立するかどうかにかかわらず、彼女は、この年度末でよつ葉園を退職する意思を固めていた。


   7

 1981年の1月末、森本氏は中学卒業以来勤めた寿レストランを退職し、市内に喫茶店を開業した。彼が寿レストランに勤めて蓄えた金や退職金、それに、妻となる武田保母がよつ葉園で蓄えていた貯金などが、その開業資金の主たるものだった。

 森本夫妻の婚姻届は、喫茶店の開店前日、岡山市役所に提出された。

 冒頭に述べたとおり、武田保母はこの年1月中旬に退職願を提出して受理されており、すでに年度末での退職が決定している。彼女は2月初旬、住込みの居室を退去した。最後の2か月間、O大学近くに借りた家から自転車をこいで、よつ葉園に通勤することになった。開店以降、彼女は公休日や休憩時間で余裕のある日は、夫の喫茶店の手伝いをした。

 よつ葉園関係者の了承も、すでに得ている。大槻指導員らのおかげで、福祉関係者の客も何人かついた。3月の年度末、武田もとい森本保母は、短大卒業後7年間勤めたよつ葉園を退職した。もっとも、すでに結婚していることについては、子どもたちには知らされていなかった。子どもたちにとっては「武田先生」のまま、彼女はよつ葉園を去り、その疲れをいやす間もなく、夫とともに喫茶店の経営にいそしむこととなった。

 森本氏の経営する喫茶店は、O大学の近くにある。そこは、かつて彼が育ったよつ葉園のあった地と、同じ小学校区でもある。近隣に下宿する大学生や大学関係者が、その主要な客となった。思うところあってか、彼は、蝶ネクタイをすべて「手結び」のものに代えた。日替わりで、彼の蝶ネクタイの色を変えて店に出ることにした。

 彼の蝶ネクタイの種類と色を「確認」するのも、客たちの楽しみの一つとなった。


 時が流れ、彼が開業した当時の学生街の店は、店主の高齢や後継者がいないことを理由として、次々と閉店しつつある。その代わり新しくできた店もあるが、昔ながらの喫茶店は、随分、減ったようにも思う。

 それでも、彼の喫茶店は、今なお、O大学をはじめとする近隣の大学生や大学関係者らの集う場所として、重宝されている。幸い、彼らの娘と息子の嫁が、この店を手伝ってくれている。息子は働きに出ているが、時々、店を手伝ってくれる。彼が定年になるまで店が続いていたら後を継ぐと言ってくれているが、それはまだ、30年近く先の話だ。

 一方のよつ葉園は、その年の5月下旬、創立以来数十年にわたって過ごした津島町を離れ、郊外の丘の上へと旅立って行った。移転して、もう少しで40年を迎える。

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