第1話 寿退社

 岡山市内には、いくつかの養護施設(現在の児童養護施設)がある。

 これは、そのうちの一つ・よつ葉園での物語である。



1978(昭和53)年1月中旬のとある平日 よつ葉園事務室にて


   1

 「大槻先生、ご報告があります」

 坂上好子保母は、大槻和男主任指導員に、朝礼後、一言、声をかけた。

 「どうされましたか? 子どもたちのことで、何か、ありましたか? 朝礼や職員会議で言えないようなことでしたら、応接室でお話ししましょう」

 「いえ、子どもたちのことではまったくありません。私自身のことです」

 ひょっとして、坂上保母に、縁談でも入ったのだろうか?

 確かに、短大を卒業後よつ葉園に勤めて4年目で、24歳になったばかり。女性だとそのくらいで早ければ大卒であっても結婚が決まって退職の運びになる人が多かった時代である。おそらくは、そのような話ではないか。大槻指導員は、そう踏んだ。

 本来なら、そういう話は東航園長に持っていくべきところだろうが、よつ葉園の園内の人事に関わる話は、一部を除き東園長より大槻指導員が全面的に窓口となって対応するようにしているので、まずは彼のところに、そのような話が入ってくるのが通例だった。

しかもこの日、東園長は、所用のため来園していなかった。

 「それならなおのことだ。ここで立ち話というわけにはいきません。とにかく、応接室に行っておいてください。私も、用事が済みましたらすぐ参りますので」

 大槻指導員はそう言って、坂上保母を先に応接室に赴かせた。


   2

 数分後、大槻指導員は応接室に入った。すでに坂上保母がソファに座って待っていた。

 「あ、立たれなくても結構。私も座りますから、早速、伺いましょう」

 大槻指導員がソファに腰かけた。

 少し間をおいて、坂上保母は話し始めた。

 「実は、この正月明けにB町の実家に戻っている間に、両親から、縁談がある旨の話を聞きました」

 「そうですか・・・」

 やっぱり、そうだったのか。

 「ですがまだ、正式な見合いはしておりません。2月の最初の日曜日に、岡山市内のレストランで両家の顔合わせがありまして、それで実は、先週、日曜日のお休みをいただいています」

 「あなたにしては、日曜日に有給休暇を入れてくれと申し出られるのは珍しいなと、いささか不思議に思っておりましたが、そういうことだったのですか。いい話じゃ、ないですか。何も遠慮されることはない。どうぞ、行ってらっしゃいな」


 いい話であることは確かなのだが、よつ葉園としては、大いに困った。来年度の人事をどうしたものか。

 坂上保母は男女を問わず、どの年代の子どもたち相手にも、そつなくこなしていく能力がある。養護施設というところは、保育園などと異なり、様々な年代の「児童」の相手をしないといけない。

 他の職種ならいざ知らず、少なくとも養護施設においては、保母という仕事においても、対象となる児童によって得手不得手があるものだ。幼児相手が得意な保母は、おおむね、中高生のそれも男子児童を相手にするのはなかなか難しい。逆に、保母資格があっても小さい子たちの相手がいささか不得手という女性は、存外いる。そんな人たちの中には、小学生以上の子どもたちの相手が得意な人も多い。中高生の、それも男子となると、いささか難しい局面はなきにしもあらずだが、そのような子たちの相手が得意な人も、また、得意とは言わないまでも無難にこなせる保母も、それなりの割合でいないわけじゃない。

 その点、この坂上保母は、男女を問わずどの年代の子どもたちもそつなく担当でき、どの子に対してもうまく導くことができる。よつ葉園の運営者にとっては、実に重宝する「人材」であった。

 それは、昨年度より京都の大学を出てS県から新卒で入ってきた高尾直澄指導員も、同意見であった。よつ葉園の運営方法や、大槻指導員の手法に対して批判的な人ではあるが、根本的なところでは意見の一致するところが多い。彼女がいるといないでは、運営上、打てる手立ても、対処法も、まったく違ってくる。

 それは、彼ら男性指導員だけでなく、東園長にしても、ベテランの山上敬子保母にしても、まったくの同意見だった。


   3

 「ありがとうございます。しかし、縁談がまとまらなければと思うと・・・」

 「そんなことを今から心配されても、どうなるものでもないでしょう。それで、少し気になったのですけど、相手の方とは、すでに何度かお会いしたことがあるのですか?」

 「はい。この正月明けの休暇の際、二度ほど、実家でお会いしました」

 「その人は、あなたの知っている人ですか?」

 「ええ。高校で2学年上の人です。高校時代には、生徒会活動などで何度もお会いして、話したこともあります。特別に何かお付合いしたわけでは、ありませんけど・・・」

 「そうですか・・・。その方は今、何をされていらっしゃるの? もし差障りなければ、教えてください」

 「関西のK学院大学を出て、S県の楽器製造会社の営業をしています」

 それはまた、いい人を紹介されたものだな。おそらく、うまく行くだろう。

 大槻指導員は、そう踏んだ。

 「坂上さんは、その方のこと、好きになれそうですか?」

 少し間をおいて、坂上保母は答えた。

 「実は、高校時代にあこがれていた先輩の一人です。もっとも今は、私よりも、相手の方がむしろ積極的になっていますけど・・・」

 「それなら、大いに結構ですが、しかしながら・・・・・・」

 大槻指導員は、少し、間をおいて話を続けた。

 「私ごときが偉そうなことを言える立場でもありませんけど、結婚するだけならともかく、いざ結婚生活を継続していくとなれば、あなた方の意思と気持ちだけでどうなるものではない。御存じのとおり日本国憲法には、婚姻は両性の合意に基づいて成立するものとの規定があります。別に私は戦前からの家制度なるものを信奉してはおりませんが、あなたが結婚されたら、相手方のご家族とあなたのご家族、両家に関わる人たちを、否応なく人間関係に巻き込むことになります。いい方向に出る場合もあれば、悪い方向に出る場合もあり得ます。ですから、とにもかくにも、気持ちを浮つかせず、じっくりと落ち着いて、その日曜日の顔合わせに臨んでください。陰ながら、応援しています」

 「ありがとうございます。それから、来年度のことですけど・・・」

 さあ、どう答えたらいいものか、いささか、困ったことになった。この縁談がうまく行くならば、彼女は間違いなく、結婚する。相手が岡山県内ならともかく、彼の仕事場は東のS県。そこで、この新婚夫婦は居を構えることになるだろう。本音を言えば、ベテランの山上保母よりも彼女に残って仕事してもらいたいほどの人材なのだが、こうなったら、もう退職される可能性が高いだろう。万一うまく行かず、しばらく彼女が岡山県にいるということになれば、それはそれで、ありがたいといえば、ありがたいのだが・・・。

 大槻指導員は、しばしの間、応接室のソファに腰かけて逡巡していた。

 彼が背を向けている壁には、元園長・理事長で岡山市長も歴任した古京友三郎氏の肖像画が大きく掲げられている。その横には、遠縁にあたり、このよつ葉園に勤める道筋をつけてくれた森川一郎元園長の肖像写真もある。現在森川氏は理事長だが、高齢のため、理事会のある時以外はよつ葉園に出向いてくることもない。

 「来年度につきましては、正直なところ、まだ、どうするか、決まってはおりません。本音を言えば、もう1年でもいい、あなたには、よつ葉園に勤めていただきたい。ですが、縁談の進展いかんにつきましては、いくらこちらがお願いしても、あるいはあなたが継続して勤務されることを望んだとしても、それが無理となる可能性もあります。しかしそれを、今日、この場で判断することは不可能です。まずは、2月の両家の顔合せで、あなたのここでのお仕事について、率直に状況を両家の皆さんにお話しください。話は、それからです。進展いかんによっては、今年度末をもって退職されても仕方ない。よつ葉園としては大変残念ですが、あなたにとっては晴れやかな門出となるわけですから、喜んでお見送りしたい。もしダメでしたら・・・、そのときはそのときで、考えましょう。私でお力添えになれることでしたら、できる限りのことをして差し上げたいと思っています」

 大槻指導員の話を聞いて、坂上保母は、ほっとした。

 「ありがとうございます。まずは、来月の顔合わせに行ってまいります。翌日の職員会議までには、何らかの結論が出ると思います。今しばらく、待ってください」

 

   4

 2月になった。坂上保母は、見合い相手の家との顔合わせに、岡山市内のとあるホテルにあるレストランに出向いた。

翌日、職員会議の前、彼女は大槻指導員から応接室に呼ばれた。

 「どうでしたか?」

 「昨日の顔合わせで、縁談は、無事にまとまりました。今年の6月に、結婚式と披露宴をS県で挙げることになりました。婚姻届は、4月4日に岡山市で提出の予定です。つきましては、今朝、退職届を作成しましたので、ここで、提出させてください」

 「おめでとうございます。来年度から、いよいよ、あなたは主婦としての新生活が始まるわけですね。これまでは、何だかんだといっても他所の子どもたちの相手でしたが、そのうち、あなたたちの間にも子どもが生まれてくるでしょう。お相手の御兄弟には、すでに結婚して子どもさんがおられるかもしれない。その子たちとあなたが向き合うとき、このよつ葉園で学ばれたことがお役に立てば、うれしい限りです。退職届は、確かに、お預かりいたしました。東には、私から提出し、受理していただきます」

 当時の大槻指導員は、副園長格として、彼女たちの人事も任されていた。

 「ありがとうございます。短い間でしたが、お世話になりました」

 「いえいえ。4年間にわたり、坂上さんには本当にお世話になりました。ありがとう。それでは、職員会議が始まりますので、参りましょう。その前に、ひとつ、お尋ねしてもよろしいですかな?」

 「何でしょうか?」

 「あなたの縁談の件ですが、あなたさえよろしければ、今日の職員会議で、冒頭に、紹介させていただきたい。もちろん、問題があるようでしたら、伏せておきますが・・・」

 坂上保母は、にっこり笑って、即答した。

 「問題ありません。ご報告いただければ、幸いです」

 職員会議が始まった。

 冒頭で、坂上好子保母の結婚による退職が決定したことが報告された。

 東園長はじめ職員らから、彼女に対し、惜しみない拍手が数分間にわたり、送られた。


 年度末が来た。キャンディーズ解散があと4日に迫ったその日、坂上好子保母は、4年間過ごした岡山市津島町のよつ葉園を去っていった。キャンディーズ最後のコンサートが後楽園球場で開始される数時間前、彼女と相手の男性は、岡山市役所に、婚姻届を提出した。彼女は、夫の姓を名乗ることとなった。


 それから数か月後、彼女が結婚したという葉書が、よつ葉園にも届いた。

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