day3マジックアワー マウンテンゴリラ:博物館


 大禍時おおまがときの空模様を背景に、博物館本館のガラスのロケットが土耳古玉タキス色に淡く光っていた。

 博物館正面の地面から連なって生えた亀の甲羅のようなオブジェが、海面を透過して注いだ陽光を照り返しているような具合でもって揺らめく光を弱弱しい電磁波のように放っていた。私の足首が淡い青色の包帯のような光に包まれた。裸足のまま清流に浸かっているようで、心地がよかった。

「なんて綺麗なの。まるで幾万もの土ボタルが閉じ込められているみたい」

「北極星の瞬きに似ているな」とユキヒョウが呟いた。

 私は空を見上げて、北極星を探した。星々の光は夕陽に負けていた。

 夜と夕が地平線を臨界点にしてせめぎ合っていた。空模様は藍色だったり橙色だったり膨らませたあとに軽く揉んだようなピンク色だったり、ところどころに浮かぶちぎり雲の埃を煮詰めたような灰色だったりと、まるで小学校の教室の中のようにごちゃごちゃとした色で綯い交ぜにされていた。単体で見たらそれほど美しくはない灰色も、いまはとても大事そうに映えて見えた。やっぱり、周りの有り様が個々にとって重要なんだな、と思った。

 相変わらず、私の内に宿る復興の火と共鳴している復興の火の気配は博物館のほうから感じ取れていた。火の亡者は私たちを追いかけようとするでもなく、恐竜の巨大な復興の火の前に陣取っているようだった。他の少なきものが、自分を置いて、次に生まれにいかないように。

 怨念さながらに渦巻く嫉妬心に操られて、自分の目的を見失ってなにを得ることもできないでいる火の亡者はやっぱりとても人間らしいように思えた。

 私は小学生の頃まで、テレビの向こうでもっともらしく批判みたいな悪口を唾と共に吐き散らしている大人たちは、よほど凄い超人なのではないかしらん、と思っていた。ちゃんと注釈しておく。なんでもかんでも上手くやれる超人だからといって、ひとの悪口を言っていいというわけでは、もちろんないよ。そして、問題もココだ。

 なんでもこなせる超人は、自分よりも不器用なひとを見下してもいいとよく勘違いしてしまう傾向にある。それだから私は、見知らぬ誰かの粗相そそうについて呆れたり嗤い合ったりカッカしたり、ときには、見下したりしているテレビの向こうの大人たちを、よほど超人なんだろうなぁ、と思っていた。そう、文字からでもなんとなく伝わってくる、思っていた、といういかにもうんざりしてそうなイントネーションに、賢いみんなは気づいたかもしれない。そうだとしても、あえて言おう。

 そういう大人たちは、超人なんかじゃない。というか、大したことないし、むしろ、なんでもない。なんでもないという言い方をすると、なんでもない奴にカネが稼げるか! とかなんとかまっこと的外れなことを吠え立てられてしまって、それはひどくめんどうだし……仕方がない。

 強いて言うなら、えんぴつだ。テレビの向こうで深刻そうに誰かの生活の憶測をあたかもそれが世界の常識であるかのように大々的に恥ずかしげもなく書いている大人たちは、えんぴつだ。

 そうして、自分がなにも得られないでいることに気づいているのかいないのか、恐竜の復興の火の前に陣取って、無為に猶予を消耗している火の亡者もそういう意味ではえんぴつと一緒だった。ようは、私の憧れないような大人と一緒だった。

 ニィと火の亡者はいったいどれだけの間この町に留まっていたのだろう。私はニィの雪玉のような喉仏を見やった。

 少なきものの町での一日は、ひとの町での数瞬程度だった。何回かひとの町でのびている抜け殻のほうに接近したから分かるのだ。頭からたらたらと血を流し続けている私の抜け殻はまだ病院に着いてもいないかもしれなかった。

 そうだ! と私は愕然とした。

 阿波踊りの期間とかぶっているからといって、少なきものの町が復興の火で溢れるのは一年に一回……というわけじゃないのだ。ひとの町で過ぎる一年は、少なきものの町をとても長く引き伸ばされためん棒のような状態でもってのろのろのろと通過した。

 それなら──と私はニィをガン見した。視線に気づいて、小首を傾げた。

「ニィはいったいどれだけの間、少なきものの町に留まっているの?」

「とても永い間だよ。思念体の力がそもそもそんなに強くない人間にここまで侵されているんだ。それはもう、ただ、永い、としか例えようがないぐらいの、永くて永い間だよ」

「そうだろうね。それなのに、よくもまぁ、まだ少なきものの町に留まっていたいなんて思えるね。飽きないの?」

「僕にとっては、飽きられるというだけでも御の字なんだよ。終わりが無い孤独には飽きすらもこない。ただ、そこに在るしかないんだ。海面に映る自分の顔にずっと罵声を浴びせかけていなきゃいけないような感じさ。……本来の予感の力はまだ残っていたから、誰かが直に僕の歌声を見つけてくれるだろうということも分かった。だから、留まっている間もさして卑屈にはならなかったよ」

 私はなにかを言おうとして……黙った。

 誰かが直に、ということは、私が直に、ということと同義なんじゃないだろうかと、考えるだけ考えていた。


 私は少なきものの町に来て、ニィを知っていった。わけじゃなかった。

 私は幸一くんを知っていったのだ。

 幸一くんという偶像に舵を委ね続ける怠け者の信者じゃなくて、私自身で人生の航路を決めて舵を取れる、弱っちくとも立派な航海者になるためにはとことんそうじゃなきゃいけなかった。そして、それはたぶん、いまからも。

 また新たに押し寄せてくるんだろう、いままでで一等盛大な暴きの予感に、ぶるり、と寒いみたいに身を震わせた。


 大禍時の博物館は、白む陽光で巨大な復興の火の煌めきがかき消されていた真午まひるの時分とはまったく違った雰囲気を辺り一帯に漂わせていた。私たちの(或いは、私だけだったのかもしれないけれど)足を重くさせる泥濘でいねいさながらに厄介で共倒れの危険因子も多分に含んだ不穏さではなく、港町の住民をただ取り巻いてくる潮風のような、慣れればなんてことはないし、そもそも端からなんの害も含んでいないような不穏さが満ち満ちていた。

 博物館内の壁や床に燐のような青白い炎が封じ込められていた。深海生物の触手みたいにちろちろと揺れて、トカゲのしっぽみたいに、ぶっつん、と、蛍のような小さくて丸っこい光に分裂する火もあった。先を行くユキヒョウのもふもふの尻尾が霜の柱のように濡れ輝いていた。

 私たちは階段のステップを慎重に上がった。復興の火の気配が噴火を恐れるソーダ瓶みたいにちまちまと大きくなっていった。カラダの内側が、ちりちりと、軽い火傷痕のように疼いた。

「……やっぱり、上から呼びかけてくると思った」

「ニンゲン!」

 見上げると、フードをかぶった三匹の少なきものたちが深い藍色の影になった顔を三階へ向かう途中の階段から串団子みたいに覗かせていた。

 これは復興の火の気配どうこうとかじゃなく、勘だった。或いは、デジャヴとも言える代物なのかもしれなかった。

「あれ? きみたちって三匹だったっけ?」とニィがとぼけた。

「違う! 四匹いた……でも、黒い拳の少なきものにうつろにされちゃった」と一。

 一匹欠けるともうダメなのか、三匹は点々バラバラなタイミングで同じことを主張していた。一匹、うつろにされちゃった! されちゃった……! されちゃった……! 

 声変わり前の非力な少年ぽっちののようなソプラノアルトの叫び声が、私たちの鼓膜に届いてすぐに、燐のような青白い光に包み燃されていった。

「ボクらは協力してたのに!」と悲痛そうに二。

「それは、アホウドリやコウノトリに石を投げつけたりなんかして?」とささやかに咎めるように私。

「それだけじゃないよ。四匹散らばって、黒い拳の少なきものの許に誘導した」

「少なきものたちを。上手く言いくるめて」

「アカウミガメもそうした。黒い拳の少なきものの許に連れてった!」

「それだけやったのに、仲間がうつろにされちゃった……。あんなに協力してたのに、なんで? ボクらだけは復興の火を灯したっていいと言っていたのに。なんか怒ってるんだ。なんで怒ってるんだ? おい、人間がなにかしたんだろ。人間のせいだ。どうしてくれる? 次はボクらの番かもしれないんだ」と騒ぎ立てる一、二、三。

「あなたたち、そんなことしてたの?」と私は今度はちゃんと咎めた。いまは三匹になった、恐らくヒト科の少なきものたちは特に反省した様子もなくしけった爆竹みたいにわごわごと喚き立てていた。一音一音がぶつかり合って砕けながら燃されていく非難の言葉の嵐の中に、私はじっと佇んでいた。

「確かに、人間のせいだよ」と私はなるたけ凛とした口調になるように努めて言った。

「お前はまた無鉄砲なことを」とユキヒョウが呆れたように言った。

 私は愛玩的な動き方をするもふもふの尻尾の先を五本指でしっかと掴んだ。出来心ではなくて、怯える心を奮い立たせるためだった。もふもふは全人類共通のカンフル剤だ。それだからといって、剥ぐのはあんまりにも傲慢すぎる。

「でも! これから人間のおかげにもするよ!」

「……あぁ?」と三匹の少なきものが一斉に漏らした。

 私は観察してるこっちが気の毒になるぐらいにびくつきまくっているチワワのような心をむりにでも飼いならそうと、一瞬、固く目を瞑って、もふもふを収めている手のひらに神経を集中させた。

「あなたたちは、進化することはあまり良くないと言っていたよね。あれからよく考えてみたけれど、それは、私も概ね同意だよ。だけど、それだからって退化するわけにもいかない。進んでいくことはなにも悪いことばかりじゃないよ。そう信じていないとなにも始まらないんだよ」と私は言った。三匹の少なきものたちのぽかんとした表情が、起きがけの落書きのように脳裏に浮かんだ。

「口だけだと伝わらないよね。だから、待ってて。行動で示してみせるから!」

「希望が少なきものの町を復興の火で包むんだってさ。もちろん、きみたちの仲間もだろう。だから、さっさとそこを退いて」とニィが腕を上げて、気功士みたいに手首をスナップさせた。

 それでも、三匹の少なきものたちは身じろぎ一つせずにしばし何事かをざわざわと相談しあっていた。微かに聞き取った限りだと……やってしまおう……黒い拳の少なきものに差し出して……見逃してもらう……などなど、どうやら私としてはまったくぞっとしない画策を練っているみたいだった。

 ユキヒョウのもふもふの尻尾がジョッキーの鞭みたいにしなった。ガオォ、という猛々しい唸り声がフロアに響けば、力の序列はよく理解できているらしい三匹の少なきものたちはたちまち退散していくだろう。

 でも……と、私は左頬をはたこうとしてきた尻尾をなんかものすごく強い拳法の師範みたいに防いだ。ふふん、とひとの神経を逆なでするようなドヤ顔をしたら、おでこに強烈なデコピンを、一発、喰らわされた。私は、あうちっ、と間抜けに鳴いた。

「ひ、酷い。ここは急所だよ!」

「フンッ」と鼻で笑われた。私は、ううゔ……と土佐犬みたいに唸った。ユキヒョウが厳しい陽光に晒された氷原のように冷ややかな視線を今更ながらに手でガードされだしたおでこに向けた。私はんべっと舌を出した。

 ユキヒョウは、ガオォ、と啼けなかった。こんな丸っこい耳だったり尻尾だったり肉球だったり、そして、なにより発声器官も、まさにおネコ様元祖の代物だった。精悍な見た目でニャオン、という生態がなんとも愛くるしくて、私はパステルピンク色の心臓をいまはだいぶ昔に射抜かれたのだった。これがギャップ萌えというやつかもしれない。

 そんな風なことを考えていたら、三匹の少なきものたちの纏う空気がピンッと張り詰めた。まるでリモコンをうろうろと探し回っていたら出し抜けにチャンネルを変えられてしまったような感じだった。

 私の危機管理能力を掌握する脳みそが慌てたように真っ黄色の緊張感を全身に張り巡らせたところで──ニィが、ツンッ、と、夜のとばりのような黒髪と同化していたもどりの皮膚を、半ば刺した。

「さっき黒い拳の少なきものを食い止めたのはコレだよ。もしかしたらきみたちにも軽い余波が届いていたかもしれないけれど……仮に、まともに喰らったら、生半可な思念体にはとてもじゃないけれど耐えられないよ」

 ニィが半月型の笑みを浮かべながら得意そうに言った。私は意識を集中させて、三匹の少なきものたちの動揺が果たしていかほどなのかを窺った。むりに平静を保とうとしているようだと分かるぐらいには、曖昧なハッタリが効いているみたいだった。それもそうだ。人間に魂を侵されていない少なきものには──たとえそれがヒト科であるらしいとはいえ──噓がいったいなんであるのかを理解することはできないのだから。

「耐えられない、ってなにが? 復興の火を奪えるのは、黒い拳の少なきも……」と最後まで言い終えそうだったところで、ニィが口を挟んだ。

「僕は二回目の鯨さ。どうすれば復興の火を奪えるのかをよぅく知っている。黒い拳の少なきものから聞いてないかい? 僕は……」と、今度はこちらが言い終わる前に、三匹の少なきものたちはまるですすの妖精みたいにさっさとどこかへ退散してしまった。

「ハッタリが効いたのね」と私はすなおにありがたがることができなかった。心をむしばむような不安を抱えたまま退散するしかなくなった三匹の少なきものたちがかなり気の毒にも思えていたのだ。

「さしてハッタリでもないよ」とニィが事もなげに言った。

「……ニィは暴力を知っているの?」と私は不安げな子どもみたいに訊いた。

「さして、って言っただろう? 僕は復興の火を奪う手段のを知らないよ」

 ニィはしょうがなさそうに笑んで、階段のステップを上っていった。私は夜光塗料のような土が一周回ってお洒落な斑点模様を為しているようにも見えるスニーカーを差し出し差し出し、大手の羽織の裾についていった。

「僕と黒い拳の少なきものは二回目同士で、確かに、切ろうとしても切りようのない縁があるけれど……それだからといって、まったく同じというわけじゃない。むしろ、僕らはついの魂なんだ」とニィが早口で言った。私は、そっか、と頷いた。

 展示室が観音式の扉を開け放しにしたまま堂々と獲物を待ち構えているんだろう、東館と西館とを一続きにして伸びた廊下が青白い奔流ほんりゅうみたいに光の粒を弾けおびをうねらせている三階にたどり着いた。私は廊下を通ることを躊躇った。足を踏み入れた瞬間に、たちまち、私の全身が青白い光に包み燃されてしまうんじゃないだろうかと思った。

 だけど、ニィはそういう億劫そうな様子をおくびにも見せずに青白く燃ゆる祈りの奔流へと足を踏み入れた。私は、あっ、と声を漏らした。

 燐のような青白い光がニィの後ろ姿をかたどった。まるで夜の砂漠を掠めながら戯れるつむじ風のように、祈りはニィの内側までには侵入はいっていかなかった。ぶ厚い透明な膜が輪郭を保護しているかのように青白い光は絵つきのアクリルキーホルダーのような余白を蛍光灯みたいな丸みを帯びながら残していた。

 ニィがすらりと伸びた黒馬のような片足を上げて、ヤジロベーみたいに旋回した。どうしたの? と呼びかけてきた。私はたったいま早朝の夢から醒めた少女のように、まだ温みのある夢心地でいながら、廊下に足を踏み入れた。

 私にもぶ厚い透明な膜がビニールコートみたいに纏わっているかなと思って、ぱーにした手のひらを見下ろしたり、首をじって滑らかな素肌がスロープのような傾斜を描いている肩から肘にかけてを舐めるように見てみたりしたけれど、雪のように白い肌はいまは大物の青魚の鱗のように、青白い光を濡れたように照り返していた。

 ニィはまるで雨降る砂漠の街をハミングのリズムで歩いていく亡霊みたいだった。住人たちがカラダの内から湧きでてくる歓喜の泉を、いまにも輪郭が破けてしまいそうだとおっかなくなるぐらいに震えている口元から仕様もなく垂れ流して、両手をシスターのように組んで、天を仰ぎながら気まぐれな神さまからの恩恵に感謝している最中、不細工な楕円形に歪み続けながら降り落ちてくる雨粒の一粒一粒を透過して、乾期の時分となんら変わりないように楽しげに歩いてみせていた。

 つむじ風に踊る砂のような歩調が、次第に、投げやりからくるエイトビートに思えてならなくなった。

 ──自分は恩恵を授かれないようにできているんだから、いっそ笑ってしまえ。そんな感じに見て取れた。

 燐のような青白い光が古びた匂いのする空気と共に揺蕩っているんだろう運命の展示室の手前で、ニィが立ち止まった。

「ほんとうに、できるんだね?」とニィが心配そうに訊いた。

 私は、一瞬、黙り込んだ。ニィの深淵さながらに深い瞳が、いまにも決壊しそうに潤んで見えた。

「大丈夫だよ。私を信じて」と私は決意の瞳を向けて言った。

「……うん」

 ニィは気概きがいなさそうに頷いた。それから、大手の羽織の裾を掴んで引いてきた私に驚いたような顔を向けた。

 私はニィを先導するように、なるたけ堂々とした航海者に見えるようにと真っ新な胸を張って、展示室へと足を踏み入れた。ユキヒョウのもふもふの尻尾が耳元でからかうような動き方をしている気配がした。


 まず最初に目に飛び込んできたのは、青白い火をそれぞれの正方形の中に閉じ込めて製氷皿のように透け煌めきながら並んでいる大理石風のタイルの上で、波にさらわれてきた浜辺の貝殻や死んだ珊瑚さんごみたいに点々バラバラバラと散らばっていた恐竜たちの骨だった。

 眼窩に空いた虚のような穴や、あばらとあばらの隙間に緩やかな弧を描きながら濡れそぼったビロードのように張りついている影からは、どこか無念そうで、また、どこか恨めしそうでもある情念が成仏し損ねた幽霊の残滓ざんしのように幽かに感じ取れるようだった。

 やっぱり、大人からしても恐竜の骨には歴史的な価値があるのだ。腐らないようにだったり傷つかないようにだったりと、心配性の大人がたいていの貴重品にやるような保護的加工が施されているみたいだった。その証拠に──私は室内を見渡した──恐竜はどこの部位の骨も折れていなかった。

 ただ、顎が外れたり、指が二本だけになったりはしていた。痛そうだ。私はあからさまに眉をひそめた。生きていなくて良いことは、痛みを感じなくていいことだ、と、骨を折ったこともないくせときたま私自身でも情けなくなるぐらいのとんでもない痛がりである私は思った。

 巨大な復興の火は煌々と照ったままでいた。

 ティラノサウルスの眼窩に空いた穴から、湖面に浮かぶ鬼火のような光がちろちろと覗いていた。たぶん、タイルに封じ込められた復興の火が、ここからの角度だと上手い具合に穴の最中さなかで浮いているように見えるっていうだけなんだろうけれど……。私は食い入るように幻の瞳孔を見つめた。

 まるで恒星の光だ、と思った。どれだけ足掻いたとしてもせいぜい百年ぽっち程度しか生きることのできない私たち人間にとっては最早えいえんとも取れる六百五十万年という時間を超えて、少なきものたちがいつかいたものになってしまわないようにと、無心の祈りを捧げて、巨大な復興の火を灯していた。

 ひとは死んだら星になる──そう初めに言ったひとは、そのひと自身の命にも代えがたいような大事な誰かを亡くしてしまって、きっと、とてもさびしかったんだろうな、とふと思った。

 私は私の胸の内側で幻の瞳孔に共鳴した復興の火がごうごうと渦巻いているのを感じた。僕らの生きる世界は、去ったものの祈りでできている──ニィが別段噛みしめた風もなく言っていた言葉の意味が、早くも分かってきたようだった。


 祈りは、火だ。

 火は、命で。

 命は、心にもあって。

 心は、魂に宿る。


「……だから、もう奪っちゃいけないよ」と私は凛と言った。

「…………」

 地に伏せたティラノサウルスの巨大な頭骨の陰から、投降した浮浪者のようによろめいた動作でもって、火の亡者が這い出てきた。

 私は青白い火で海のように燃された展示室を突っ切るように歩いて、切に言った。

「それじゃあ、生きていけないよ」

「……よくわからない」と火の亡者は俯いた。目深にかぶったフードの影から熱した銅線のような毛が幾本か覗いていた。

 終わりが近いな、というユキヒョウの呟きが私の鼓膜を震わした途端に燃されて消えた。頼もしい立ち居振る舞いをしたユキヒョウがこぼした言葉という輪郭を持った予感が、ニィのカラダにまっさらな雪原の最中で起こった雪崩のような怒涛で激しい悪寒を這わせた。ぶるり、という震えの気配はいつまで経っても燃されることなく、私の肌に臆病な余韻よいんとして残ったままだった。

 私はももの脇に下ろしていた手のひらに復興の火を迸らせた。火の亡者は俯いていて、青白く燃ゆる大海の中で新たに誕生した渦の気配になんてこれっぽっちも気づいていないみたいだった。

 私は少し考えてから、復興の火をカラダの内に閉じ込め直した。瞬間、火の亡者が顔を上げた。顔の大部分はフードの影になっていたけれど、目が合っている、ということは分かった。極限まで冷やした金属をあてられているかのような、ひりり、と痛い冷たい感覚が、私の心の表皮をぽろぽろと剝がしたいように走った。

「サチイチは教えてくれたんだ」

 火の亡者はとつとつと語りだした。

「この世界は多きのもので、割を食うのはいつだって少なきもののほうなんだ」

 私は無言で頷いた。世界が始まる前のような静寂に、展示室は満ち満ちていた。

「耐え忍んだということを美談にしてはいけない。優しさは多きものの上手い餌になるだけだ」

 私の呼気がわずかに震えた。

「理不尽には理不尽か無抵抗かしか在り得ない。そして、自分の心を守るためには徹底的に抗わなくちゃいけない。目には目を、歯には歯を。つまり、暴力には暴力を。理不尽には理不尽を……」

 火の亡者は浮浪者のような歩き方でもって私の許に近づいてきた。

 私は突っ立ったままでいた。なんの重荷にも食い込まれたことがないような十四歳の少女らしいまっさらな手のひらは青白い光を静かに照り返していた。

 いざやろうと思えば、強引であるらしい復興の火を押しつけて、マウンテンゴリラの魂を問答無用で少なきものの町から解放することも可能なんだろうと分かっていた。でも、それじゃダメだった。

 私は決意の瞳で火の亡者の顔を見上げた。暗い影の中でもそれが闇であることが分かるほど、深淵なんてお呼びでない、そもそも底という概念が端から無いような真っ暗闇の瞳が、ぽかりと二つ、浮かんでいた。

「サチイチは、思う通りに振る舞えばいいと伝えたんだ」

 嚙み締めるように言った火の亡者は少しの間、ゼンマイの回り終わった機械仕掛けのぬいぐるみみたいに停止して──肩回りの電気回路が弾けたように、バチッ、と黒い拳を振り上げた。

 私は思わず目を瞑った。頭の上に鳥が着地したかのような風圧がかかったのがキャスケット越しにでも感じ取れた。

「僕も、同じことを言われたよ」とニィの諭すような声が頭上で響いた。

 そろそろと目を開けると……頼もしさの代わりに優しさがふんだんに詰め込まれていた幸一くんの背中があった。私は泣きそうになりながら手を伸ばして、ニィの背中が怯えたように震えたから……ゆっくりと、引っ込めた。

「なんで邪魔だてばかりするんだ? ほんとうに紛らわしい姿形を取っているな」

「きみこそ」

 幸一くんと瓜二つのニィに暴力を振るってしまわないようにと大槌おおづちのような黒い拳を中途半端な高さにとどめていた火の亡者が、悔しそうに肩をいからせた。私はいまのやり取りを聞いて一つの疑念を確信に変えたのだけれど、あえて黙ったままでいた。いま問い詰めてしまうと、ただでさえ苛立っている火の亡者の神経を余計に棘つかせてしまうんじゃないかと思った。

「思う通りに振る舞えばいいと伝えられて、どうしてニンゲンを庇うんだ?」と火の亡者が痛切に訊いた。私は固唾を呑んで、ニィか、もしくは二年前の幸一くんがなにかしらの答えを返すときを待った。ニィは少しの間黙ってから、ハッキリと答えた。

「この子は希望だからだよ」

「……理解できない! 理解できない!」と火の亡者が癇癪かんしゃくを起こした子どもみたいに地団駄を踏んだ。散らかっていたタイルの破片がカタカタとしゃれこうべの笑い声のような音を立てた。

「なんなんだ! いったい、オマエらはなにしにここに来たんだ!」と火の亡者は頭にうずいたかゆみに耐えきれないというようにフード越しに掻きむしりながら叫んだ。

「あなたも含めた少なきものたちの魂を、少なきものの町から解放するためだよ」と私は答えた。火の亡者は苛立たしげに地団駄を踏み鳴らし続けた。もうそろそろ頭皮から血が滲んでいるんじゃないだろうかとこわくなった。

「それで、オマエのなんになる! サチイチと同じように元の世界へ帰るつもりならまったく無意味な行為だろ! ダレかのために生きるなんてバカのすることだ。必死にひねり出した優しさがなにも分かってくれない多きものの餌にされるなんてバカげてる!」

 火の亡者は百八円のライターに炙られて悶える幼虫みたいに身をよじらせた。楕円形の光の粒が青白く燃ゆるタイルの上に落ちて、蒸発することなく煌めいていた。涎だろうと思ったけれど、次々と降り落ちてくる光の粒は青白さや古びた匂いをとても大人しく受け入れているようで、もしかすると涙なのかもしれなかった。

「サチイチは、僕らに委ねたんだね」とニィが途方に暮れたように言った。

 私は、痛みや孤独や苦しみのまるごとぜんぶに蓋をして、見立てはまるでなんでもなさそうな無傷の背中に仕上げていた、まっこと憎々しきほどに強い優しさの陰から這い出た。視界の右少し後方で、ユキヒョウが静観の姿勢を決め込んでいた。

 戸惑ったような視線を向けてきたニィと、呪いのように重たい視線を巻きつけてきた火の亡者とを交互に見やって、私は二匹の間に立った。凛と胸を張って、乾いた口を開いた。

 背後に守るべき誰かがいて、目の前に運命ほども圧倒的ななにかがいた。私の心の琴線がぶるり、と震えた。

「こんなにも勇気が要ることを、ずっとやっていたんだね」

「なにを……」

「真性に優しい幸一くんだからこそ分かったことなんだよね。確かに、優しさは無駄なのかもしれない。世界はあんまりにも優しくなくて、優しく振舞おうとするひとにかどを立てる。攻撃して、こわい目でわらう。たとえそれが優しさのために振る舞われた優しさだったとしても、偽物だとか悪だとか刻んである足裏に踏みつけられてしまうのは痛い。私が振るった優しさを無下にされてしまうのは悲しい。少なきものの町から少なきものの魂を解放することは、結果的に、私の望む世界の続きを終わらせることになるのかもしれない。優しさなんて、無駄かもね」

「だから、ずっとそう言っていただろ……!」

「でも、私たちは少なきものなんだよ」

 火の亡者が黙った。まるで見えない杭が胸に打ちつけられでもしたみたいな、あんまりに唐突な黙り方だった。

「他人事でなんていられないんだよ。目を背けることなんてできないし、誰かを傷つけることさえ上手くできない。みっともなくもがくことが美しいと思っているし、よせばいいのに、多きものの悪事にいちいちムキになる。心のアンテナは痛いぐらいに敏感だから、悪辣あくらつな言葉や醜悪しゅうあくな偏見に強く。ほんとうはまったく別の生き物なのに、人間の姿形を取っているから、ひとの町ではあんまりにも生きづらい。半端者の私がこんなにも感じているんだから、真性に優しかった幸一くんはよっぽどだったと思う。心が真っ二つに分かれてえいえんに戻らなくなってしまうなんて、それがいったいどれほどの苦しみを伴うことなのか私には想像もつかない」

 火の亡者は黙っていた。私がマウンテンゴリラの思念体ではなくて、姿形のみならず内側をも侵し始めた魂に語りかけているということに気づいていながらも、ただ耳を傾けていた。

 私は深淵のごとき深い瞳を振り返った。

「少なきものの町に呼んでくれて、ありがとう。もう大丈夫だから。私を信じて」

「うん」

 ニィはうれしそうに顔をほころばせながら、ゆっくりと頷いた。

 私は腿の脇に下ろしたままでいたまっさらな手のひらに青白く燃ゆる復興の火を迸らせた。火の亡者が身じろいだ気配がした。

「私は、少なきものの町で色々なことを知ったよ」

 目を伏せて、私自身の記憶に没入していった。

「絶滅危惧種がひとの姿を取って祈ること。次に生まれにいくためには元の姿を取り戻さなきゃいけないこと。大切なことは初めから知っていること。復興の火は燐のように青白く燃えていること。また、恒星の光みたいにも。

 意地悪なクラスメートは意地悪なまま変わりないこと。生きている世界の時間のほうが急いで流れていること。暴力はすべてを奪えること。小さな兎の耳を生やした私はうつろになってどこへも行けなくなったこと。幽霊の私が私を生かそうとしてくれたこと。

 幸一くんが苦しんでいたこと。憎んでいたこと。大嫌いだったこと。真っ二つに分かれた心の思う通りに振る舞ってほしかったこと。あなたたちに私の運命を委ねたかったこと。

 道筋は分からないけれど、少なきものの町に来ていたこと。

 壊れていようと、どれだけの噓で塗ったくられていようと、私が幸一くんとの時間を幸せに過ごしていたという過去は変えようとしたって変えられないこと。優しさは誰かから意味を貰えないと心のなにをも枯らしてしまう我慢に変わっていくこと。知っているよ。知っていたんだよ。

 幸一くんは、幸一くんの魂の声を見つけてくれるひとを探しに行ってたんでしょう? 異常なものは世界から弾かれてしまうからって、真っ二つに分かれた心をあんな高熱を出してまでむりにでも統合させようとして、はやりすぎてしまったせいで失敗したんでしょう? そうして、座礁ざしょうして、少なきものの町に来ていたんでしょう?」

 私は青白く燃ゆる復興の火がごうごうと迸っている手のひらを差し出した。いまは誰かを傷つけるためにある黒い拳が、死にかけの火みたいに微かに揺れた。

「優しくて優しいあなたには、あなた自身が振るう暴力にすら耐えられない」

 火の亡者が、くっ、と酸素を蓄えた気配がした。死にかけの火が酸素を奪って再燃した。

 黒い拳がごうっと火柱みたいに振り上がった。私は身を固くして、それでも、闇の瞳を見上げたままでいた。私たちの目と目が、一瞬、星座のように幻の糸で繋がった。

 火の亡者は躊躇うように、高らかに上げていた黒い拳を震わせて……そうして、顔を覆った。地を叩いて這うような声が誰もいない荒野で痛々しげに身を打っているように震えて聞こえた。

「じゃあ、どうしたらいい。理不尽には理不尽か無抵抗かしか在り得ない。だって、心を守るためには抗わなくちゃいけないんだ。理不尽には理不尽を。暴力には暴力を……それすらもできないんだったら、もう、心を諦めるしかなくなるじゃないか」

「私が守るよ」

 私の声はいまにも泣きそうな子どもみたいに震えていた。まっさらな手のひらに迸る復興の火は祈りの勢いを増してますます激しく燃えていくようだった。

 小さな手のひらの輪郭が燐のような青白い火にかき消されていっている様を、眼前に掲げながらぼうっと眺めた。私がいままで、なんの痛みも傷痕も、そして祈りすらもこの手に負わなくて済んでいたのは、ひとえに、幸一くんが私を守ってくれていたからだった。

「もう、優しくあろうとしなくてもいいんだよ。むりに人間みたいになろうとしなくてもいいよ。幸一くんはずっと独りぼっちだったんだよね。ほんとうに聴いてほしかった声を誰にも届けられなかった。やり方を知らなかったし、もしも届けられたとしても決して優しいだけとは言えないそんな声には誰もが耳を塞いでしまうだろう、とか、そんな風なことを考えていたんでしょう? その通りかもしれない。私は幸一くんの優しさにもたれてばかりで、まるで多きものみたいにずるく鈍感になっていた」

 火の亡者は眼下に揺らめく復興の火を闇の瞳に灯そうとしているみたいだった。もどりの牙が半月みたいに光っていた。

「少なきものたちが次に生まれにいくのを見るのが嫌だった。妬んで、焦って、怒って、暴力を振るって復興の火を奪うほどに闇に包まれていくみたいだった」

 火の亡者がニィを見やった。ニィが安堵している気配が肩越しに伝わってきた。

「独りは嫌だった」と幸一くんの魂が言った。

 黒い拳が復興の火に触れようと、蚊も死なないような速度で下りてきた。

 青白く燃ゆる復興の火が迸っている手のひらを下ろして、いままで奪ってきた復興の火を返してくれるね? と私は訊いた。火の亡者はしばし黙ってから、少なきものの町から解放してくれるなら、と答えた。そうして、自分と同じく紛らわしい姿形を取っているニィに呼びかけた。

「もう少なきものの町からは離れるんだろ?」

 ニィは応えずに、ばいばい、とだけ告げた。私は決意の瞳を潤ませないようにと下唇を噛んで、両腕をロザリオのように開いた。

 全身に燐のような青白い火を迸らせた格好は、はたからだと〝死んだあとほんとうに星になれたひと〟みたいに見えるのかもしれなかった。闇の瞳に祈りの火が煌々と灯っていた。

「ごめんね」

 私は仲直りをしたい妹みたいに謝った。そういえば、幸一くんとは一度も兄妹喧嘩をしたことがなかったなぁ、と思い返して──とうとう一粒、涙をこぼした。


 私は真っ二つに分かれた心の片割れに抱きついた。


 すべては私に収束していくようだった。そうして、すべては私から放たれてもいた。

 私はよだかの星のように燃えていた。えいえんに消えることのなさそうな勢いで放たれていく祈りが、白んでいく視界を酸素のように満たしていた。銀河間から見下ろしていた惑星の記憶を復興の火でもてあそんでいるようだった。没入しては解放して、解放しては没入して解放しては解放した。

 うつろになった思念体たちが復興の火の気配を持ち、そうして、消していった。それもまた、博物館に満ち満ちていた不穏な空気が私たちを取り巻いていた不穏さをぼかしてしまったような、所謂いわゆる、慣れ、なのだろうな、と燃された紙の残滓のようにわずかに残されていた自意識の中で思った。

 復興の火は少なきものたちに灯って、思念体と綯い交ぜになって、まったく新しい命として灯ったまま生まれていく──そんな予感がした。

 生と死の成り立ちのほんの一部を垣間見たような感じがして、こんな頼りない胸には到底収まりきらないような壮大な情景に少しのおそれを抱いたし、また、感動もしていた。私の感情が私の手元から遠く離れていっているようだった。

 感情から伸びた糸を手繰り寄せて、心の内側にきちんと整頓しようとしたところで──火の亡者が胴に回されていたほそっこい腕を透過して、太古から崇められていた神獣のように、青白く燃ゆるつづみみたいな拳を宙につきながら、気高く、そして猛々しく、上へ上へと昇っていった。


 ──解放できた。


 マウンテンゴリラの思念体はもちろんだけれど、少なきものの町に幽閉されていた幸一くんの片割れの魂も、この瞬間、妹である私の祈りによって解放された──私は泣き笑ったような声を漏らしながら、青白く燃ゆる火柱と化した両腕を掲げた。

 うつろにされた思念体たちがなにものにも阻まれることなく昇っていけるようにと──祈りの旋風を起こそうとするように、火柱を上へ上へと掲げ続けた。もう、私の魂が復興の火に燃され尽くされて次に生まれにいってしまうかもしれないとかなんとかそういうことなんか、まるで考えていなかった。


 ──私は成長した!


 私自身で逡巡して、私が決めて、私のしたいことをして、私は私に満足できた。

 初めて見つけた。海中で煌めいている航路から逸れてしまわないようにと、汗腺が絞られるぐらいに強い力で舵を握った私の頭上には、満天の星空なんてものじゃない、無数の祈りのともしびが北極星のように青白く燃ゆりながら導くように揺蕩っている、私だけのマーブリングの空があった。


 どこへ行っても正解なんだ。

 私は希望を失わずに生きていける。


 ふと、舵を握っていた手を脱力させた。


 それが、私の選択なら。

 たとえ、停滞だとしても。


 私は……希望だ。


 孤独を恐れて停滞し続けようとするニィを──二年前の幸一くんの魂を──置き去りにして、どこかへ行ってはいけないなぁ──そう思った。



 私から放たれていた復興の火は徐々に鎮火の気配を見せていた。白んでいた視界はスクリーン型の端のほうからちょうどマトリョシカのような具合でもってこっちもまあまあ青白い展示室の色彩を取り戻していって、腕は融けかけた雪像のような輪郭を模り始めた。

 なんだか子どもの頃によく観ていたアニメの中でポップに活躍していたパワフル三人娘の青担当になったみたいだ──そう思った途端に、復興の火はまるで冷めたように、しゅんっ、とカラダの内に閉じ込もった。なんだよっ、と舌先だけを外気に晒した。古びた埃の味がした。

「げっ」

 しくじった中学生男子のような声がくぐもりながら聞こえてきて、見やると、地に伏せたティラノサウルスの頭骨の陰から串団子のようなフード頭が覗いていた。

「ねぇ、分かってもらえた? 終わりに近づいている人間はなにかを始まりに送り出すことができるんだよ」

「フンッ」と一、二、三がひねガキみたいに鼻で笑った。

大方おおかた、お前を襲うタイミングでも窺ってたんだろう。悪巧みの上手い奴らだ」とまだ微かに白んでいる視界の中で日向に晒された雪みたいに煌めいていたユキヒョウは言った。

 私から放たれた復興の火に巻き込まれてはいなかった。ごたごたしながらのお別れというのは歯と歯の間に物が挟まったときのような心地だけを残してしまうんだろうなと考えていたから、私はひそかにホッとした。ユキヒョウの髭が神経質そうに蠢いた。

「ソイツがボクらを睨んでいたせいで、ぜんぜん飛び出せなかったんだ!」と三匹の少なきものたちは一斉に喚いた。

「そうだったの? さすが肉食獣、頼りになるね」

「さっさと行ったらどうなんだ」とユキヒョウが顎の先で恐竜の巨大な復興の火を指した。

 三匹の少なきものたちは俊敏な動きで、タイルの欠片を幾片か蹴っ飛ばしたりしながら、恐竜の巨大な復興の火の側に立った。

「あなたたちの復興を祈ってるよ」

 遠慮がちに言った途端、三匹の少なきものたちは一斉に私を見た。

 ほんの少しの間だけだった。

 三匹の少なきものたちは、頷きもせず、答えもせず、厳かともとれる沈黙の中、横並びで恐竜の巨大な復興の火の中へと入っていった。


 大木ほどもありそうなぶっとい薪をくべたように、恐竜の巨大な復興の火が、瞬時、青白い滝のように燃え盛った。

 そうして、展示室を支える柱さながらに高くまで伸びた炎柱の先から、霊長目ヒト科のチンパンジーを模った燐のような青白い光が三つ、仲のいい幼子のように戯れながら上へ上へと昇っていって、ついには天井を透過していった。

 私はしばし幻想的な情景に感じた感動の余韻に浸るようにぼうっとしていた。

 背後にかばっていたニィが魚の死体のような手を頭の上に乗せてきて、ようやく意識をハッキリさせた。振り向くと、怯えたように震える瞳を瞬かせながら幸福そうに笑んでいるニィが、まるで内緒ごとを伝えたいときに使うようなひそやかな声で囁いた。

「アカウミガメの気配が近くにするよ。ねぇ、外に出てみよう?」

 私は意識を集中させた。N極の磁石に引き寄せられたS極の磁石のように、アカウミガメから灯してもらった復興の火が震えていた。私はN極の磁石の共鳴をも察知して、廊下に面した窓のほうに目を向けた。

「ほんとうだ。行こう、行こう」

 私はユキヒョウのもふもふの尻尾を出来心で掴み損ねて前につんのめったその勢いを殺さないままに駆けていった。

 博物館内に満ち満ちていた不穏な空気はいつの間にか、まるで掃除機で吸われでもしたかのように消え去っていて、あとにはただ無声映画のワンシーンのような静寂だけが残っていた。私たちの足音や、衣擦れの音や息遣いは、まるでどこか別の世界線で発生している音みたいに聞こえた。まだ見ぬ世界なんて私たちの想像よりも遥かに多くヘンテコなカタチで存在しているのかもしれない、とふと思った。

 博物館の外に出た。カットが入れられただけで、無声映画のワンシーンであることに変わりはなかった。風すらも吹いていなかった。

 凪の中で、空気を破って裂くようなニィの声がどこまでも通っていくようだった。

「空を見て! なんて美しいんだろう」

「……!」

 ほんとうに感動したとき、私の声は失われた。

 夢見がちな乙女が最後に思い描くような空だった。淡いピンク色と温かみのある橙色と深い藍色とが綯い交ぜにされて、端々に花魁のキセルから立ち昇った煙のような雲が尾を掠れさせながらひっかき傷のように浮いていた。世界の始まりのようでもあったし終わりのようでもあったし、大恋愛の最中のような空模様でもあった。ブリリアントカットを施された金剛石のような光が天の川の乳のように散っていた。

 あれは、少なきものたちの光なのだ──そう思うと、胸が咲きたての青い花の香りのようなさびしさと儚げな希望とで溢れて、たまらなくなった。


 アカウミガメの女の子の悪戯っ子のような笑い声がカラダの内側に響いた。


 私はハッとして辺りを見渡した。そうして、花弁が散ったように、自然に頬をほころばせた。

「お別れの挨拶をするために待ってたの?」

 訊くと、燐のような青白い火に姿を変えたアカウミガメの思念体が、水をかくように宙でくるぅりと旋回した。私の眼前に顔を近づけて、意図の読めない動きを幾度も繰り返した。私は甘えたな猫のように額を擦りつけてきたアカウミガメに微笑みかけた。意図は読めなくても、アカウミガメの喜びは肌で感じられた。

「よかったね。うん、うん。ばいばい。あはは、もう行っていいんだよ」

 私が笑って、細っこい人差し指で天を指すと、アカウミガメは額を擦りつけるのをやめた。

 私はドキッとして……もう一度、静かに告げた。

「ばいばい。あなたの復興を祈ってる」

 燐のように青白く燃ゆるアカウミガメの思念体は、しばし宙を揺蕩った。

 そうして、なにを惜しむそぶりも見せずに、凪いだ空気をかいのようなヒレでかき続けて遠く小さくなっていった。私の胸に咲きたての青い花の香りが夢見がちの乙女に贈られた見舞いの花束のように溢れた。

「この時間帯には、なにが起こっても不思議じゃないね」と私は美しい空を仰ぎながら呟いた。

「この時間帯?」

「うん。マジックアワーっていうんだよ」

「へえ……」

 私たちはそれきり、眠るように黙った。

 マジックアワーにえいえんに留まることになったら、私は夢を夢とも思わなくなるんだろうな、と薄ぼんやりと考えていた。


 やがて、深い藍色が夕と夜との拮抗状態を保っていた空の領域を占めてきた頃──ユキヒョウがマイペースに伸びをした。元々背高な格好がそれよりもずっと高く伸びて、私は思わず噴いてしまった。ネコ科って、どうしてこんなにも伸びるんだろうか。

 ユキヒョウは神経質そうに片耳を蠢かせて、大欠伸の息と共に「もういく」と言った。私は浮かべていた笑みを寒天のように固めて「どこに?」と訊いた。

「決まってるだろう。次に生まれにいくんだ」

「そんなけだるげな顔して言うことなの? まるで早朝の散歩にでも行くみたいにさ……なんか、あんまりピンとこないよ」と私は納得いかないという風に顔をしかめた。

「なぜならば、気分だからだ」

「えっ、まだなにも訊いていないよ?」

「どうせ訊くだろう」

 なにそれ、と笑んだ。気まぐれに変わる気分に忠実なユキヒョウのことだ。ほんとうに次に生まれにいくつもりなんだろう。

 私は側に寄ってきたユキヒョウに、遊園地帰りの車の中の子どもみたいに訊いた。

「また会える?」

「いつかはな」

「いつかっていつ?」

 ユキヒョウはめんどうくさそうにため息をついた。

 本気でさびしさに向き合っている私に対して呆れたような態度を取って見せないでほしかった。ショックだった。拗ねたように俯こうとしたところで、ユキヒョウの黒い爪が私の胸にあてられた。

「俺はここにいる。俺だけじゃない。お前が大事に想っている者たちは、みんなお前の中に生きている」

「そんなおべんちゃら言わないで。胸の中には臓器と心しかない。仮に、胸の中にユキヒョウがいるんだとしても、それは私が創り上げたユキヒョウでほんとうのユキヒョウじゃないんだもの。私はそんなあやふやな言葉は信じられないよ」

「お前の言う〝ほんとう〟とはなんだ? いま目の前にいる俺がお前にとってのほんとうなら、俺が言う言葉だってほんとうだ。つまり、俺はお前の中にいる。鯨や人間と違って、俺は嘘をつけないからな」

 私は、ぐ……と詰まって、屁理屈、と苦し紛れに言った。なんだそれは、と顔をしかめたユキヒョウのもふもふの尻尾を五本指でしっかと掴んで、私はみっともなく駄々をこねた。

「もっと確かな言葉が欲しいの。初めは違うとしても、私はだんだん、ほんとうのユキヒョウなら決して言わないような言葉を胸の中のユキヒョウに言わせるようになる。そうして、きっと、そのことに気づいたときに絶望して、ふとするごとに悲しくなるの。それはもう、喪失という病気なんだよ。私は健康な心でいたいよう」

 ユキヒョウは黙り込んだまま、もふもふの尻尾を手汗の滲んだ手のひらに握らせたままでいた。

 あんまりにも長い時間を黙り込んでいたものだから、私はふと、叱られてしまうんじゃないだろうか、と心配になって、恐る恐る顔を見上げた。そうして、息を呑んだ。

 ユキヒョウはしょうがなさそうに笑んでいた。なんの遠慮も含まれていない言葉を私の心に残そうとするように、ゆっくりと伝えた。

「いまの幼いお前には何を言ったって無駄だろう。いずれ、実感するときがくる。その未来が来るまで辛抱強く待つことだ」

 私はぐっと下唇を噛んだ。駄々に向き合うことを諦められてしまったように感じて悔しくなった。

 ユキヒョウは澄んだ灰色に光る神秘の瞳を深い藍色の空に向けた。もふもふの尻尾が水の中に戻された魚のようにびちびちと暴れだした。私は決して逃してしまわないようにと、湿った手のひらに一層強い力を籠めた。

 ユキヒョウがほんとうの別れを経験したことのない幸福な子どもを見下ろして、説くように言った。

「もっと同じ時を過ごせばお前の中に生きる俺も鮮明になっていっただろう。生きるとは、そういうことだ」

「……よく分かんないよ」

 私は悔しそうに言ったけれど、不思議と、心は晴れやかだった。ユキヒョウはくくっと喉を鳴らして、心と心の目を合わしてから、凛と告げた。

「生きることは、生かすことだ」

 私のまっさらな手を取った。もふもふの尻尾が手元から逃れて、快適そうに宙をうろついた。愛玩的な動き方をするもふもふの尻尾の先を眺めながら、大人しく、着火前の固形燃料のような手を取られたままでいた。

「きみには色々と助けられた。どうもありがとう」と隣に突っ立っていたニィが言った。ユキヒョウは横目でちらりとも見やらずに、ただ、ああ、とだけ返した。あんまりに淡白すぎる反応に私の反応が遅れた。

 ユキヒョウのもふもふの尻尾におでこを小突かれて、ようやく、動物同士の別れなんてあの程度のものなんだと気づいた。


 私は青白く燃ゆる復興の火を地平線に切れ長に覗いた朝日のように盛大に迸らせた。


「またね」と私はほんとうに子どもっぽく言った。ユキヒョウはただ私の目をじっと見つめていた。私はぽろぽろと涙をこぼした。


 雪原や、快晴の寒空を飛び立つ鳥のシルエット。大地を駆ける獣の足に重く響く振動が伝わってきた。ユキヒョウの記憶はとても短かった。気分気ままに生きているから、そのときどきの記憶にそんなに頓着とんちゃくが無いのかもしれない──そう思って、花弁がすべて散り落ちたあとに残された一本の茎のように、胸がこざっぱりとすいた。



 復興の火が祈りの役目を果たして、私の内に閉じこもっていった。いつの間にか瞑っていた目を開けると、星座のように青白く燃ゆるユキヒョウが目の前にいた。凛々しい思念体はもうこの世界から去ったものの祈りのように燃え盛っていた。

 私が縋りつこうとする前に、ユキヒョウは清い川の流れのように流麗な尾を引きながら夜空に向かって駆け上っていった。

 私はさびしさを喉にこみあげさせる暇すらもなくて、ただ、火のように熱い吐息を二回、川面をきる飛び石みたいに跳ねさせた。

「いってしまったね」

 ニィが私に寄り添うような格好で言った。

 私は小さく頷いた。

 黒い拳の少なきものが解放されたいま、恐竜の巨大な復興の火は砂漠のオアシスのように誰でもないすべての誰かに向けてただそこに解放されていた。今日中にでも、少なきものの町は卒業式の最中の教室の中みたいにしんとするんだろう。

 私は幸一くんと瓜二つのニィの横顔を見やった。深淵のごとき深い瞳はまだ怯えたように震えていて、入り口の広い洞窟みたいな袖から覗いていた中指の先はもうじき融けきる氷柱のように震えていた。

 私は笑んで、ニィのひんやりと冷たい手を取った。ニィが肩をびくっと跳ねさせた。

 私は決意の瞳を孤独を恐れる青年の瞳と幻の糸で繋げて星座にした。

「これからどうするつもりなの?」

「僕は少なきものの町に留まるよ。終わらない孤独はもう嫌なんだ。希望は……人の町に戻るんだろう?」

 わずかに上ずった語尾があんまりにも心細そうに震えていて、私はたまらず手を握った。


 目を伏せて、じっと考えた。


 舵を取ろうとして前方に差し出された手はまだ宙に留まったままでいた。頭上には導きのともしびが散らばった夜空が広がっていて、私が選んだ航路は希望の種に煌めいていた。

 私がいままで座礁せずに生きてこられたのは、幸一くんに舵を任せていたからだった。幸一くんが停滞することを選んだいま、私がようやっと舵を取ってさっさと先に進んでいってしまうなんてことはあんまりにも酷い裏切りだと思った。

 ひとは残酷な生き物だから、次第に、いつか置き去りにしていったものたちのことすらも忘れる。私はそんな風に忘れた私を果たして愛すことはできなかった。


 目の前にたくさん伸びていたように思えた選択肢は、じつは一つしかなかったのだ。


 私が私を愛せることが私にとっての幸せだった。

 その選択がたとえ、周りから無駄だと嗤われるような代物だったとしても、私が選んだというそれだけで尊い。心ない悪口にどれだけ心が傷痕だらけになったとしても、芯があれば、決して、瓦解がかいはしない。

 私の心に脊椎のように通った芯のことを、果てしないぐらいの命を見届けてきた世界では〝信念〟と呼んでいるのかもしれなかった。私は、一瞬、目を瞑った。

 忘れたくないな。

 忘れないようにしよう。

 信念を得るまでにはとても大変な道程どうていがあったということ。たくさんに支えられてここまで生きてこられたということ。私は私の選択に後悔なんてしないと信じて疑わなかったこと。いつか過去になるいまの私を憎んでしまわないように、決して、忘れちゃいけないことだった。


 私は目を開けた。

 舵を取ろうと前方に差し出されたまま宙に留まっていた手が脱力した。


 私は私の決意に〝言葉〟という取り返しのつけられない輪郭を持たせた。

「私も少なきものの町に留まるよ。あなたを独りにはしない。いつまでも一緒にいてあげる」

 ニィは、一瞬、驚いたように深淵の瞳をまん丸にした。そうして、乾いた唇を幾度かくっつけたり離したりしたあと、夢見る病弱な乙女のような恰好で笑んだ。水滴のように震える瞳が、私を鏡みたいに映していた。

「いつか、僕を憎んでしまわないかい?」

「しないよ。不安になるなら、ゆびきりしようよ」

 私は天に向かって立てた小指をニィの胸の前に差し出した。

 ニィはおっかなそうに、冷たい小指を白蛇みたいに絡めてきた。私たちは一緒に歌った。優しさにもたれて駄々をこねる私に、幸一くんはよくゆびきりの歌を歌ってくれたものだった。

「嘘になったら、そのときにはもうぜんぶが台無しになっているんだろうね」とニィが歌うように言った。

「不吉なことを言わないでよ。もう大丈夫だから……私を信じて」

 幸一くん、という呼びかけをすんでのところで飲み下した。終わらない孤独に怯える52Hzの鯨はうれしそうに笑んでいた。


 なにが起こっても不思議じゃないのだ。

 それはつまり、どんな選択でさえも許容されるということでもあるだろう──そう信じた。


 マジックアワーの空模様が幻想的だった。糸のようなものから伝わってくる遠くの誰かからの呼び声に鼓膜が絶えず震えていた。

 意識が夢のようにぼんやりしてきて──私は下唇をぐぐっと噛んで、糸のようなものを私自身の意思で断ち切った。途端に、ひとの町で巻き起こっていたぞめきや肌を優しく撫ぜてくるような潮風やお母さんの決死の呼びかけが、雨に降られた蜃気楼のように遠く霞んで思い出せなくなっていくようだった。

 私はとうとう、我慢しきれずに俯いた。

 幸一くんの手のひらが私の背中を励ますように叩いていた。





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