day3夕 アホウドリ・コウノトリ:森


 目を覚ますと、私は森の中にいた。むせ返るような雑草の匂いが寒天のように塗ったくられている地面の上に横たわっていた。

 私はむりに起こされた子どもみたいな仏頂面をしながら上体を起こした。たんこぶができているかなと思っておでこに手をあててみたけれど、そこは紙粘土を重ねたようにつるんとしていた。局所麻酔をかけられているみたいに、痛みもまるでしなかった。

 私は何度か両手のひらを閉じたり開いたりしたあと、首の骨の軋みをうなじに感じながら辺りを見回した。

 夏の木々が鬱蒼と茂っていた。遠くには博物館本館のガラスのロケットが見えた。

『不思議の国のアリス』の絵本の中で、アリスのお姉さんが大きな木の下で小説を読んでいるシーンに入り込んでしまったみたいだった。木の葉がこすれる音一つしない。微かに川のせせらぎが聞こえた。そうして、私の周囲には半端なひとの恰好をした不思議な生き物が四匹、戯れるか、じゃれるか、もしくは、争ったりなどしていた。

「さっき、すんごい音がしたけどな!」

「思わず飛び立っちゃったよう!」

 尻尾の先を咥えて木の幹に背をもたせかけていたユキヒョウを板ばさみにするように、二匹の少なきものがばたばたと翼を振っていた。

「それで、ちみたちはうつろじゃないんだろう?」と右のほうの少なきものは先端の風切り羽が枝分かれしてそれぞれはねている翼を私に向けて言った。翼の大部分は黒くて、チョップすれば折れそうな薄ピンク色の足を真っ白なフレアワンピースの裾から伸ばしていた。

「巨大な復興の火に近づいて、黒い拳の少なきものを怒らせたっていうのにね!」と左のほうの少なきものはあほの子みたいなはしゃぎっぷりで言った。緻密な計算をしたうえで設計された鳥人間コンテストの飛行機みたいなシャープな翼をしていた。胴に銃口が向けられているかのように見える模様だけが白くて、あとはすべて水墨画の墨のように淡い黒色をしていた。

「じつは、途中までは空から見てたんだ」

「じつは、最初から見てたんだ」

「はくぶつかんに入ったのを見たときには、もううつろにされてしまうだろうと思ったよ」

「あのサルたち、嫌いだ! 石を投げて、おいらたちを撃ち落とそうとするんだ」と風切り羽のはねているほうの少なきものは喚いた。

「そうそう。ほんと、嫌なやつら」

 鳥人たちはばさばさと翼を振りながら、あーでもないこーでもない、と、サルについての文句を言い始めた。羽毛が一枚舞うごとに、風切り羽の先っちょがユキヒョウの灰色の鼻頭を掠めているようだった。しゅんっ、とやかんのお湯が沸いたときに立つような音を放って、そのたびにくしゃみをしていた。

 私は手のひらを湿った地面につきながら、目の前の不思議な光景をぼうっと眺めていた。ニィの姿は見当たらなかった。どこだろうと、立ち上がって探してみようとした。

「でも、無事に戻ってきたでしょう? びっくりだよ、ほんとにね」と風切り羽がはねているほうの少なきものは言った。

「一人は眠りこけて出てきたしね」と翼がシャープなほうの少なきものは右翼を折りたたんで言った。

「そう、一人!」ユキヒョウが、しゅんっ、とくしゃみをした。

「あの子は人間だ!」と両方の翼を高らかに広げて叫んだ。

「木に縛って、おとりにして、黒い拳の少なきものがいなくなった隙に巨大な復興の火に飛び込むというのはどうだろう?」

「はくぶつかんの周りには、あの忌々しいサルどもがいるよ。石で撃ち落とされちゃうよ」

「そうかぁ。それならどうしよう」

「木に縛るというのは、なんだか可哀想なようじゃない?」と翼がシャープなほうの少なきものはひそやかに言った。オレンジ色の短パンから伸びた霞んだ黄土色の足は、足裏がカモメのように扁平へんぺいになっていた。

「そんなこと言ってられないよ。おいらたちの仲間なんて、毒でやられちゃったり鉛を撃ち込まれたりしたんだからね。縛られるぐらいなんでもないよ」

「でも、毒や鉛は、あの子がやったわけじゃないんでしょ?」

「それはね。それでも、自分たちの仲間が過去にやってしまったことは知りません、じゃあ、納得いかないよ。やられたほうは根に持つものさ。どこかで責任は取ってもらわないと。そして、それが、いまさ!」

「なるほど。そうかな。あっ、大変だ!」と強風が吹きすさぶ中で電線の上にとまった雀みたいな動きで翼をばたつかせながら、たぶん、アホウドリが叫んだ。

「どうした!」と、こちらはたぶんコウノトリが大事おおごとそうに叫んだ。

 コウノトリは農薬の使用や食用のための狩猟……ようは、毒や鉛によって、日本個体はもうとうに絶滅している種だった。翼も足の色合いも、いつか鳥類図鑑でみたコウノトリの写真とほとんど変わりないように見えた。

 二羽の後ろ姿はハーピーみたいだった。十歳ぐらいの、性別の分からない子どものような背格好をしていた。ほんとうに不思議な町だ。こんなハーピーが日本の上空を飛び立っている様子を目撃されたりなんかしたら、間違いなく翌日の地元の新聞の一面だろう。もしも現実だったなら。こんな不思議な町では、そんな光景当たり前だし、未確認生命体のモスマンだって確認し放題なのだ。おまけに、新聞配達員もいない。

「この翼じゃ、縛れない!」とアホウドリがあほの子みたいに絶叫した。

「なんだって! あ、翼の生えていないちみ、ちょっとお助け願えませんか」

「さっさと俺から数歩離れ、ろ……しゅんっ!」

「ねぇ、ニィは?」

 私が突っ立ったまま訊くと、アホウドリとコウノトリは不意に驚いたように数歩分を飛び退った。そうして、飛びかかってきた。

「うわっ! なにっ?」

 嘴を取り戻していなかったことが不幸中の幸いだった。私の視界が白と黒の羽毛で埋まった。おいらの種の復興のいけにえになってよ! とコウノトリが叫んでいた。意味が分かってて言ってるのだろうか、と、私はどちらかの翼の付け根を押さえつけながら思った。

「取り押さえるんだーっ」

「あっ、大変だ!」とアホウドリが言ったのと同時に、翼の付け根から伝わってきていた振動も止んだ。私が押さえつけていたのはアホウドリのほうだったらしい。

「どうした!」とコウノトリが一羽で暴れながら叫んだ。

「この翼じゃ、取り押さえられない!」

「あなたたち、あほなの?」

「あほじゃないよ。少なきものさ。そうしては、多きものの人間だろう?」とコウノトリがすっくと立って言った。

 目の周りがほんのりと赤かった。フレアワンピースの襟元から柔らかそうな純白の羽毛が白い芍薬しゃくやくの花束みたいにこぼれていた。バレエの発表会帰りの女の子みたいな恰好をしているな、と思った。翼だって、白鳥の翼と言い張ればたいていのひとはごまかせそうだ。

「そいつは人間の中でも少ないほうの人間らしいぞ。そして、まず間違いなく嘘をついてはいないだろうな。そいつには人間らしい狡猾こうかつさがまるでない。ようは、あほだな」

「なんだ、きみがあほなのか」とアホウドリが少年のように屈託くったくなく笑みながら言った。

「ちっ、違う!」

「あほでも、少なきものでもない。こやつは多きものだ。だって人間なんだから。黒い拳の少なきものをあんなに怒らせることができるのは、人間ぐらいのものなんだから。そうだろう? ちみは人間だろう?」

「ここはなんの町だ?」とユキヒョウが尻尾を咥えながら訊いた。

「少なきものの町だよう」とアホウドリが答えた。

「その通り。もちろん、おいらも分かってたぞ」とコウノトリが翼を振りながら言った。

「では、少なきものの町に来ることができるのはどんなやつだ?」

「もちろん」

「少なきものだ!」とコウノトリが先手を打った。ふふん、と、こちらの意地悪心をくすぐるようなドヤ顔をした。

「では、少なきものの町にいるそいつは少なきものだな」とユキヒョウが目尻を下げながらめんどうくさそうに言った。

「……確かに、そうだ!」

 黒と白の羽毛が幾枚か、橙色の夕陽差し込む宙に舞った。もう夕方になっているのだ。

「じゃあ、縛っておとりにしていけにえになってよ作戦は?」とアホウドリがコウノトリの横顔をうかがうようにして訊いた。

「破棄!」とコウノトリが両翼を上げた。なんだそのポーズは……グリコだ! 

「よかったね。木に縛られるなんていうのはなかなかにつまんなさそうだったよ」アホウドリは無邪気な少年のように、上下の歯をむき出しにして笑んだ。みかんをたくさん食べたあとのように顔の肌がほんのりと黄みがかっていた。濡れた黒草のように艶やかな髪が雛鳥の羽毛みたいにふわふわと揺れた。

「つまるとかつまんないとか、そういうのはもうどうでもいいんだけれど……ねぇ、ニィは?」

「気が立っているのか?」とユキヒョウが尻尾を咥えたまま窺った。

「立ってないよ。気を立てたってどうにもならないもん。私って、物事の端っこを掴んだら全容を明るみに出したくてたまらなくなっちゃう性分なの。引っ張り出して、聞きたてないと」

「気を立てたってどうにもならないと言ったが、なら、さっき黒い拳の少なきものにきゃんきゃんと吠えていたのはなんだ。まるで後先を考えてなかっただろう。俺が引っ張っていなければ、拳の下でぺしゃんこになっていたぞ」

「それは、ありがとう。そして、ごめんなさい。もう気は確かだから、あんな無鉄砲なことしないよ」

「なぜ謝る? 俺はお前の無鉄砲をひどく気に入っているんだ」

 私は面食らった。それから、俯いた。

「私はもう、やんないよ」

「そうか。鯨だが、なんだかへこんでいる様子だったぞ」

「私のほうがよっぽどへこみたいよ! どこにいるの?」

 ユキヒョウはうるさそうに顔をしかめて、私を指さした。アホウドリとコウノトリに次いで後ろを振り返ると、ニィが気まずそうに木の陰から左半身を覗かせていた。

「まず訂正しておきたいのはね……」

「ニィ! これっていったいどういうことなの?」

「気が立っているじゃないか……」とユキヒョウが呆れたように呟いた。私は猛然とした歩調でニィの側に寄った。ニィは顔を引きつらせて、なぜだかおでこを押さえていた。

「ちょ、ちょっと待って!」

「待たん!」

 しつけのなっていない犬みたいに近づいてくる私に、まるで犬ぎらいみたいに両手のひらを突き出した。

 ニィが押さえていたおでこに、冷えた溶岩のように黒くて硬そうな皮膚が貼りつけられていた。幸一くんと瓜二つの顔に腫瘍のような盛りあがりができているのを見つけた私は、ひるんで、止まった。

「……うぅ!」とニィはつらそうにうめいた。

「どうしてもどりを隠すの? あれだけ復興の火を灯してようやく額の一部分だけだなんて、むしろ、遅すぎるぐらいでしょう」

 安心したのか、落胆したのか、よく分からなかった。ひとまず、ニィが正真正銘の鯨であることは確かなのだ。

「僕は復興なんてしたくないんだ。次に生まれたくなんてないんだよ」

「どうして?」

「だって、待ち受けているのはどうせ孤独だ。僕の歌は誰にも届かないようにできているんだ。希望は、生きていて幸せじゃない生き物なんていないと言っていたけれど、あぁ、それがほんとうなら、いったいどれだけ素敵だったろう」

 ニィは脱力させた手のひらから燐のように青白い火をごうごうとほとばしらせた。そして、一方通行の祈りは強いなぁ、と参ったように呟いた。

「死んだように生きたくないんだ」

 私ははっと息をのんだ。記憶の中の幸一くんと目の前にいるニィが一分のズレもなく重なった。ううん、初めから重なってはいたのだ。だからこそ、少なきものは私たちの姿を取ることができた。

 姿形を貸すためだけに重ね合わさっていた幸一くんが、時を刻むごとに、徐々に色濃くなってきて、ニィの内側までをも侵し始めた。

 ──じゃあ、いま目の前にいるニィは、私の知っている幸一くんとほとんど変わりないのではないか。

 黙りこんだ私を見下ろして、慌てたように話を変えた。

「まず、サチイチを知らないとか、二回目の鯨じゃないとか、そんな風な嘘をついていたことを謝るよ。ごめんね」

「うそをつけるの?」とアホウドリが私の腕と脇腹の間から顔を出した。

「人間みたいじゃんか!」とコウノトリが以下略。種は違うはずなのに、まるで兄妹みたいに仲がよさそうだった。

「ずっとこの姿で留まっているとね、次第に、人間の魂が強まっていくんだ。同じ茎に咲いている本来の花を枯らしながら、別のところから伸びた新たな蕾を膨らましているような感じなんだ。いまではもう、嘘のつき方を理解できなかった頃のことのほうが理解できないよ」

「ねぇ、鳥さんたち。悪いけど、私たちはこれから込み合った話をしないといけなくなったから、しばし向こうに行っててくださる?」

「いや、ここに居ていいよ」とニィが美麗な笑みを二羽に向けた。

「だめ! 空気が和んじゃう!」と私は険しそうな顔をがんばって二羽に向けた。

「なんかおもしろい」とアホウドリは笑った。柔そうな唇の端が上を向いた。

「おもしろいな!」とコウノトリは以下略。ああ、もう。子どもの笑い声って、裁縫のリッパーだ。不穏な空気をいともたやすく断ち切って、あっという間にほぐしてしまう。

「だって、二人きりになったら絶対に怒るだろう?」とニィが途方に暮れたように言った。

「怒らないよ。ただ、あからさまにしょげたり、落ち込んだりはするよ」

「なおさらここに居てよ」とニィが二羽に頼みこんだ。

「どうしようかな?」とアホウドリは首を傾げた。シャープな翼に生えた黄みがかった羽毛が脇腹を擦った。見ているだけで背筋がぞわぞわした。

「そんじゃ、復興の火を灯してよ。そうしてくれたほうにつくよ。ちみらとはまだ灯し合っていないよ」とコウノトリは言った。私はユキヒョウをちらりと見やった。ユキヒョウの鼻頭が灰色になっていたのは、この子らと復興の火を灯し合ったからだったのだ。

 二羽と復興の火を灯し合ってようやく鼻頭だけを取り戻せただなんて、そんなの、どれだけ堅実に灯していったって、四日間という短い有限じゃあとても取り戻しきれない気がした。そして、実際に無理なのだろう。トンネルの手前でお別れをしたときに、アカウミガメの命運は既に決まっていたようなものだったのだ──私は心臓を冷たい魔女の手で掴まれたような心地になった。

 息が詰まった。幸一くんがマウンテンゴリラに教えた暴力の手が、時を経て、アカウミガメに危害を加えた。

 幸一くんは、思う通りに振る舞えばいいと伝えて、私をこの町に幽閉しようとした。頭のいい幸一くんのことだ。私がこうしてアカウミガメの現状に心を痛めるだろうということも計算に入れていたのかもしれない。

 私は目の前で困ったように眉を下げているニィを見つめた。本来の鯨の魂が弱まって、姿形を取った人間の魂が強まっている。ニィはいま、内面すらも二年前の幸一くんに近くなっているのだ。


 私は、疑ってしまった。


 あんなに慕っていた二年前の幸一くんのことを、私は信用できなかった。

 もう取り戻せない変化が悲しくて悲しくてたまらなかった。さっきからなにかを探るようにまさぐっていた冷たい魔女の手が、カチ……と、心臓のタイマーを止めた。もう取り戻せなくなった時間ぶんの幸福を取り戻すことができたということなんだろうか。たくさんの嘘を暴いて、私に残酷な現実を見せつけることで、ほんとうの幸一くんの復讐は完了したということなんだろうか。

 真冬の枯れ木の節くれような指が、楽しそうにウェーブしていた。

「僕の復興の火じゃないけれど、それでもいいかな?」とニィが両脇の二羽に伺った。

「ちみ自身の復興の火は無いの?」とコウノトリが意外そうに訊いた。

「そうなんだ。僕は種の復興なんて祈っていないから」

「それだから、いくら復興の火を灯してもらっても姿が戻らなかったの?」と私は訊いた。ニィは静かに頷いた。

「復興じゃなくて復活を願っていた希望も同じくそうだよ。自分で祈っていない人に祈りを捧げたって、ぜんぜん効果がないものなんだ」

「ひとのやる気と、その応援みたいなものかな」

「額の一部を取り戻すことができたのは、きょうりゅうの復興の火のおかげか?」とユキヒョウが尻尾を咥えたまま訊いた。

「うん。ほんのひとつまみ程度を掠め取っただけだったんだけれどね。問答無用で元の姿を取り戻させられちゃったよ。たぶん、もうおしまいになったものの祈りは一方通行であることが前提だからなんだろうな。僕らが望んでいようがなかろうが、祈っていようがなかろうが、お構いなしさ」

 強引ってほんとうに強い力だよね、とニィは言った。

「いいんだか悪いんだか、よく分かんないけど」

「やめて」と私はほとんど息で言った。ニィが戸惑っている気配が伝わってきたけれど、なにも訳を話さなかった。ユキヒョウの鼻息がとても大きく聞こえた。

「ちみのじゃなくてもいいよ。ねぇ、あほは?」

「あほじゃないってば。私は、だって……」

 私はお椀型に丸めた手のひらを見下ろした。

 私のも、アカウミガメのもオオカワウソのも、復興を祈る燐のような青白い火は迸らなかった。どこに消えてしまったんだろう。

「かわいそう。自分のも、誰のも無いんだね」とアホウドリが憐れむように言った。子どもの憐れみって、すごく効いた。治癒していくときの痛みが一気に響いてくるような感じだ。

「灯してもらえなかったって訳じゃないよ。でも、知らない間にどこかへ消えて行ってしまったみたい」

「ねぇ、あほ。忘れちゃったんじゃないの?」

 私は、一瞬、ドキリとした。そうして、ふるふると首を振った。

「そんなことないはずだよ。だって、復興の火を介して見た記憶もしっかりと覚えてるもの」

「サチイチも、僕らの記憶が見えるって言っていたよ。でも、僕らにはそんなもの見えないんだ」

「サチイチも言ってた、って……」

 私が問い詰めようとしたところで、アホウドリが片翼を伸ばして、私の手にあてた。それを見て、コウノトリも慌てたようにもう片方の手を、こちらはちょっとはたいた。

「ほんとうに忘れないかどうか、試してみよう!」とアホウドリが言った。

「あほ。忘れたら承知しないぞ!」とコウノトリが語気を強めて言った。


 埃を煮詰めたような曇天だった。私は空を切って飛んでいた。というより、風に持ち上げられていた。こんなにも多くの風の機微を感じたのは初めてだった。

 眼下には湖畔が広がっていた。こうして見てみると、地球は丸い形をしている、ということがよく実感できた。地平線から真っ赤な日が切れ長に覗いて、地上を山火事みたいに染め上げた。と思ったら、今度は灰色の海面が足先数センチという真下に現れた。

 爽快感がなにようにも例えがたかった。こんなに素晴らしい空の感覚を知らないで、地上を征服しようと躍起やっきになっている人間はばっかだなぁ、と思った。


 青白い火が、自意識の端で、ちりっ、と燃えた。



「……いま、見えたよ」と私は地に足を着けながら呟いた。

「なにが見えた?」とアホウドリが高揚して訊いた。私は思う通りの言葉で説明した。

「いいね。翼が無いのに、翼がある視点を体験できたんだね」と二羽はおもしろがった。そうして、やっぱりなにも迸らなかった私の手を見やって少しむっとしたようだった。

「私が悪いんじゃないよ……」

「アタマの具合が悪いんじゃないかなあ?」とアホウドリが気の毒そうに見上げた。

「とにかく、おいらたちはここに居るよ。鯨のほうに復興の火を灯してもらったからね」とコウノトリが言った。いつの間にか、目の周りの赤みが紅を差し足したように濃くなって、白い芍薬の花が首元までこぼれていた。

 私は観念した。ホッとしたように目元の雰囲気を優しくさせたニィに、一等気になっていたことを、なるたけ落ち着いた口調になるように努めて訊いた。

「ニィは、幸一くんに会ったことがあるのね?」

「……うん。もう随分と昔のことだよ。サチイチも、僕の歌に引き寄せられてこの町に来たんだ。前にこの町を訪れてきた人間というのは、紛れもない、サチイチのことだよ。サチイチはこの町にいる間、僕の生い立ちを凪いだ海のように静かに聞いていた。僕も同じように静かに、僕に姿形を貸してくれたサチイチの色々な話を聞いていた。希望のことは、そのときから少しだけ知っていたよ」

 私のことはなんて言ってた? という言葉をむりに飲み下した。

「じゃあ、最初に出会ったときから嘘をついていたんだね。私が再会を喜んでいたときも、ユキヒョウが前にこの町に来た人間のことや二回目の鯨の話をしていたときだって、幸一くんのことなんかまるで知らないフリをしてた。よくもまあ、あんなに清々しくすっとぼけることができたものだね。現実世界だったらなにかしらの賞が授与されるぐらいの演技達者だよ」

「しょうがないんだ。僕はサチイチに口止めされていたし、二回連続で兄妹が来るなんてまさか思いもしなかった。動揺してたんだ」とニィはバツが悪そうに目を逸らし続けながら言った。

「口止め?」と私は聞き返した。

「あぁ。もしも、雪のように白い肌と絹の糸ような黒い髪とを持ち合わせた女の子が来たら、きっときみのことを僕だと勘違いするだろう。でも、どうかそのときも、僕がこの町に来たということは秘密にしておいてほしい。……あんまりに切実な声色で懇願されたものだから、僕は、保証はできないよ、というようなことを言いながらもゆびきりしたんだ。結局、お願いをきいてしまって、いまは妹のほうに問い詰められているわけだけれどね」

「どうして?」

「さっきも言ったように、あんまりに切実な声色だったんだ。それに、この町に留まっていると本来の僕の魂が蝕まれて、蝕まれたところに空いた部分を人間の魂が補完するようになってくる。サチイチの願いが、次第に、サチイチの姿を取った僕の願いにもなってきたんだ」

「そうじゃなくて。幸一くんはどうして秘密にしてほしいなんてお願いをしたの? 私がこの町に来るかどうかなんて分からなかったはずなのに」

「さあ。それだから、もしも、と言っていたんじゃないかと思うけれど……でも、あんまり褒められた道筋じゃないから、とは言っていたよ」

 交差点に埋められる、とも、と、ニィが少しの間目を伏せてから言った。

 私はしばし考えて、眉間にしわを寄せたまま項垂れた。

「よく分かんないよ」

「とにかく、ね。それでサチイチのことは黙っていたんだ。ごめんね」とニィは心底気まずそうに謝った。

「幸一くんはマウンテンゴリラに会っていたんだよね? そのことを、ニィは知っていたんでしょう?」

「うん。僕らの間には不思議な縁のようなものがあるからね。お互いに二回目同士でもあるわけだし」

「それじゃあ、マウンテンゴリラが人間をこの町に幽閉したがっているということも知っていたはずだよね?」

 ニィは黙った。まるで両手の人差し指同士と親指同士とをくっつけ合わせて作られた円の内側に閉じ込められてしまった蟻みたいに、黒目を窮屈そうにうろうろとさ迷わせていた。

「知りながら、私を博物館に向かわせたの? 私だけじゃないよ。アカウミガメを見送ったときだって、彼女がうつろにされるだろうことを分かっていたんじゃないの?」

「違うよ。あのね、希望。これ以上の誤解を生まないために言っておかなきゃならないことがあるんだけれど……僕はもう嘘をつかないよ。あぁ、これも嘘だと思われてしまうのかな。噓ってなにもかもを壊してしまうね。一度、嘘を映したことのあるすべての目をどうにも疑い深くさせてしまうんだ」

 ニィはショックを受けたように、洞窟を通る子風のように震える呼気を漏らした。私は黙っていた。肯定を意味する沈黙ではなく、先をと促すだけの沈黙が、私たちを重苦しく包んでいた。

 アホウドリとコウノトリは不思議そうに私たちの顔を交互に見やっていた。私は力無い笑みを二羽に向けた。子どもは不穏を気にするべきではないのだ。平等に与えられた平穏を不機嫌な大人が奪っていいわけはない。だから、とっととあっちに行っといてほしかったのだ。巻き込みたくないことと、蚊帳の外にされることは、視点が違うだけで、じつはまったく同じことだ。

「僕は知らなかったんだ。黒い拳の少なきものが人間を、ひいては少なきものをうつろにしようとしているだなんて、そんな話聞いたこともなかった。前回の町では、僕と彼以外、みんな復興の火を灯して次に生まれにいったんだ。

 博物館にある巨大な復興の火のおかげで、みんな元の姿を取り戻すことができた。今回もそうなると思っていた。でも、アカウミガメの女の子から話を聞いて、そのときに少しだけ、なんだか不穏なようだとは思った。ほんとうにただそれだけだったんだ。

 僕は孤独に慣れてしまっていて、誰かと一緒にいることが億劫おっくうなんだ。サチイチに言われた通り、僕と彼はあんまり会っちゃ良くないような気がしていたし、黒い拳の少なきものとは前回の町で会った以来接触してなかった。ユキヒョウから黒い拳の少なきものの企みを聞いたとき、だからとても驚いたよ。

 アカウミガメの女の子を助けようと博物館に向かっていたときは……正直、希望ならなんとかできると思ってたんだ。黒い拳の少なきものはサチイチを短い間でもよく慕っていたようだったから、それなら、サチイチの大事な家族である希望のお願いだって聞き入れてくれるんじゃないだろうかと思った」

「それだけで?」

「きちんと言葉にして挙げられるのは確かにその程度だよ。でも……なにかね、漠然とした確信があったんだ。希望なら黒い拳の少なきものを説得して、アカウミガメの女の子を助けられるだろうというね」

「だめだったけどね。ねぇ、私は幸一くんじゃないの。妹とはいっても、腹違いなの。完璧に血だって繋がっていないんだよ。私はぜんぜん特別じゃない女の子で、ただの半端者なんだから」

 ニィは居心地悪そうに黙った。

「ニィが何度も言ってくれていたように、時間は四日間という短い有限なんだよ。私がごたごたに巻き込まれている間にとうとう猶予が無くなって、元の世界に戻れなくなるかもしれないという心配はしてなかったの?」

「あんまり。サチイチも、誰がなにをするでもなく勝手に元の世界に帰ったんだ。希望も、糸を手繰り寄せる方法を体得したなんて言っていたし、その心配はあんまりしていなかった」

「あんまり?」

「つまり、ちょっとはしてたよ」

「それは、私が幸一くんとは比べるのもおこがましいぐらいの出来損ないだから?」と私は震える言葉を吐きだした。ニィは面食らったようだった。

「違うよ、希望。僕はサチイチじゃなくて、鯨だよ?」

「もういまのニィは二年前の幸一くんになったようなものだよ。色々なことをいっぺんに知り過ぎて、頭が混乱しちゃったよ……」

 私は頭を抱えてしゃがみこんだ。腕と脇腹の間から幼子らしい柔そうな顔を覗かせていた二羽が、おっとっと、と陽気な動作でよろめいた。

 心配そうに背中の上に置かれた古びた魚のヒレのように平べったい手のひらを軽くはたいた。私は私でも驚いた。

 これは、怒りではなかった。私の腕は防衛本能によって上げられて、手は、見ず知らずの無礼なひとを叱責しっせきするかのような素っ気なさでもって、ニィの手をはたいた。

 私は不揃いの前髪を両手ですくって、くしゃくしゃにした。ひとを信じられなくなるということは、こんなにもつらい。

 噓は気ままで意地悪な女の子だ。この子がいればなんでも大丈夫だろうと不思議と思わせてくるような心強い味方として、一緒に立ち入り禁止の区域を通って厄介そうな障害物を避けてくれるけれど、三回に一回ぐらいの確率で見つかると、例外なく、あたしはこの子に連れていかれたの、あたしは悪くないの、とまったく悪びれた風もなく言ってみせる。そうして、私よりも乗り気だった噓はほんとうになにも咎められることなく、私だけが、毎度のこと、悪者扱いされる。あの子の誘いに乗ったあなたのほうが悪いのよ、と周りは口々に言う。私はそのたびに下唇を噛んで、思う。気ままで意地悪な女の子というのは、どうしてこうもするするりと周囲からの叱責の間を器用に縫うことができるのだろう。ずるい。悔しい。もう、あの子と一緒にはならないぞ。

 そうして、私が拗ねて幾らか経って、心が自己嫌悪の海に半身浴をし始めた頃。夜の草原で体育座りをしていた私の隣にさくさくりと歩み寄ってきて、鼻を軽く、ふすん、と鳴らし、私のつむじを見下ろしながら言うのだ。

 ──次は見つからないよ。

 私は初め、躊躇うけれど、気ままで意地悪な女の子というものは往々にして破滅的な魅力を持っていて……結局、ずるい無傷の手を掴んで立ち上がってしまう。あたしを活用しろ、とチェシャ猫みたいに笑んで言う。こんな厄介事ばかりで溢れかえっちまった世界じゃ、正直者のほうがバカを見るぜ。

 それで、とうとう周囲の誰からも見限られて二人ぽっちで置き捨てにされてしまったときに、どうなってしまうのかは分からない。私は嘘を責めるのかもしれないし、私が選んだことだから、と往生際よく受け入れるのかもしれない。

 とにかく、そうなってしまったときはもうおしまいだ。噓と仲良くしながらも器用に破滅を避けることができるのは、嘘と同じぐらい気ままで意地悪なひとだけだ。半端者の私であったり、人間歴の浅いニィのような鯨などは、よく気をつけておかないと、こんな風にひとの信用を失ってしまうことになる。そうなってしまったときはもうおしまいなのだ。ようは、破滅だ。私はいま、破滅だ。

 そうして、破滅が猛威を振るってくるのはいつだって現実だ。だったらもう、破滅を恐れて現実に戻らなくたっていいかな、と思ってしまうのだ。

「ねぇ、これ、翼あるもののしるしじゃない?」とアホウドリがシャープな翼を広げて言った。

「どれ?」とコウノトリが私の上体を翼全体で押しやった。私は閉めっぽい地面に手をついた。お気に入りのスニーカーのところどころに土がついていた。二羽はそんなみっともない汚れを食い入るように見つめていた。

 私はなんだか気恥ずかしくなって、もともと曲げていた膝を更に曲げた。ずずず……と、靴裏に刻まれた凹凸が土を削っていく振動が薄生地の靴下に包まれた足裏に伝わってきた。二羽はまるで蟹を用心深くつつこうとする浜辺の鳥みたいに、顔と靴との間隔を拡げようとも狭めようともしなかった。

「な、なにっ?」と私は訊いた。

「きみ、ぼくらが好きなんだ!」

「これは、翼あるもののしるしだな。ちみはおいらたちのなんだな!」

 私は、はぁ? と間の抜けた声を漏らそうとして……ハッ、と思い当たった。二羽は金色のニワトリマークのことを言っているのだ。

 ふぁんだなんだってはしゃいでいる様子がかわいらしかった。森の舞台装置の上で演っているお遊戯会を見物しているような気分だった。私の固くなっていた頬の筋肉が氷の融けていく速度で緩く解けていくようだった。

「翼あるもののしるしをつけている人間は、特に、ぼくらに親切なんだ」とアホウドリが得意そうに言った。シャープな翼をばさばさと上下に振って、いまにも木立を突き抜けて飛び立ちそうに見えた。

「こやつはな、こやつのふぁんの人間のふぁんなんだ。ちみがはくぶつかんからぐったりと魚の死骸みたいにそれはまぁーぐったりとした様子で出てきたときには、うつろになったかどうだかって、横でばさばさとうるさいもんだったんだ」とコウノトリの少女がおかしそうに言った。

「ぼくは人間に親しみを抱いているだけだよ。ふぁんじゃないよ」

「親しみを抱いているからふぁんなんだろ?」

「違うよ。ふぁんっていうのは、アタマを乗っ取られたもののことだ」

「乗っ取られたって、なにに?」とコウノトリが私と同じように首を傾げた。胸元からこぼれた羽毛がふわふわりと揺れた。

「さぁ? 飲み込んだ殻とか魚の目玉とか、たとえばそういうものにじゃない? ふぁんていうのは、きゃあきゃあ鳴くんだ。あるいは、どうっどうっ、とトドみたいに唸ったりするんだ。あんなのはどう見たってまともな状態とは言えないよ」

「じゃあ、人間はおいらたちのふぁんじゃないの?」とコウノトリは左翼を折りたたみながら訊いた。

「ふぁんと呼べる人間もなかにはいるよ。たとえば、ぼくらの食べるものを地面に撒いたり、宙に放ったりする人間がいる。でもそんなの、たいてい、ちょっとだけなんだ。ぼくらはもっと食べたくて、そんな人間に近づいていく。そうすると、きゃあきゃあ鳴いたり、どうっどうっと唸ったりする。そういう人間はぼくらのふぁんと言えるだろうね。うるさいから、すきじゃないけど」

「……それは、ファンっていうか、ただビビってただけだと思うよ」と私が薄く笑みながら言うと、アホウドリは、はて? と、じつに可愛げのある動作で首を傾げた。私は小さく噴き出した。

 アホウドリらしいな、と思った。自分たちの種の衰退と復興の歴史を知らないで、あっけらかんと、人間は親切だ、と言ってしまえる素っとん狂加減が、愛らしくもあって、少し悲しくもあって、私個人としてはとても心苦しかった。

「どうしたの?」とアホウドリがぐんねりと体を逆Uの字型に曲げて訊いた。

「なんでもない。知らないほうが幸せなことってある。むしろ、そうじゃなきゃ幸せになれないんじゃないかな」そう言って、私は俯いた


 アホウドリは一度、絶滅したと思われていた。羽毛貿易のための乱獲で、六百万羽ぐらいが捕殺された。そうして、やりたい放題やっていたとある雨だか晴れだか曇りの日、とうとう一羽も見かけられなくなった。途方に暮れた人間が諦めかけていた(こういう言い方をすると、改めて、人間がどれだけやばい生き物なのかがよく分かる)そのとき、極少数だけど、アホウドリの姿が確認された。殺したぶん死んでしまう! とようやく気づいた人間は、せっせとアホウドリの保護を始めた。人間は親切なんじゃない。ただ、都合がよろしいだけだ。


 やっぱり、知らないほうが幸せなのだ。私はまた頭を抱えた。いやだと感じるような事からは目を背け続けたらいい。

 どこへも行けないのはご免だと辺鄙な土地生まれらしく思ってはいるけれど、適材適所、才能の有無。私には、それこそ自由に空を駆けることのできる翼が無いし、身一つで遠い土地に旅立てるほどの勇気もない。

 人間からずる賢さと協調性を取っ払った先で派生した、あんまりにも生きづらい、存在意義といったらせいぜい絶滅危惧種が種の復興を祈るための助けになってやれることぐらいしかない、弱っちい生き物だ。

 ときには猛烈に怒りたくなるぐらい意地悪な所業をしてくる神さまだって、分相応に幸せになる権利ぐらいは与えてくれていた。言い換えれば、それは、身の程をわきまえなければ幸せにもなれないということだ。

 どうにもできないなら、目を背け続けよう。

 いつか、無力でも立ち向かうひとが美しい、と言っていた。確かに、幸一くんは美しかった。でもそれは、幸一くんが真性だったからだ。

 まるで幸一くんに試されているようだと下唇を噛んだ。


 薄い瞼の上から幸薄そうな手相が刻まれた手のひらがどかされて、あんまり綺麗とは言えない世界を直視したとき、希望はどうする? どうしたい? 

 背後には、ずっと優しく守ってくれた二年前の姿のままの幸一くんがいて、希望があれだけ戻りたがっていた世界には、完ペキな姿が瓦解した、たぶん一概に美しいとは到底言えない幸一くんがいるだろう。

 希望は立ち向かうことをやめて、幸せな町にえいえんに留まることを選ぶのかな。それとも、噓の破片があちこちに散らばった不幸な現実に、そのほそっこいあんよで踏みしめ踏みしめ、戻っていこうとするのかな。

 希望は、優しい噓を選ぶ? 

 それとも、心を裏切らないことを選ぶ?

 僕は、


「まだ子どもなのに、そんなに暗い顔しちゃダメだよ、あほ?」

 ハッと顔を上げると、池の底に沈んだおりのようにどんよりと暗い目と、私の目とが合った。とても十四歳がしちゃいけないような表情をしていた。

「飴と鞭……」と彼女の口元が動いた。

 深夜二時の円鏡のようなつぶらな瞳の中には町があった。私の住んでいる町だ。アスファルトを冷水で溶かしてぐるぐるにかき混ぜた果てにできた混合物みたいに、空気が黒くて、硬そうで、一息吸い込みでもしたら、たちまちカラダの内側が深くて重たい傷痕で埋まってしまいそうだった。

 そんなところに居ちゃだめだ、と手を伸ばした。人の町に閉じ込められている私も、切実な表情で手を伸ばした。

 でも、すんでのところで止まった。周囲に纏わる町に圧縮されているかのように小さく、そして、遠ざかっていく私は、どこか躊躇った表情をしていた。

 私はかくんと首を傾げた。なにが私を躊躇わせるの?

「知らないほうがいい? そんなわけはない! 知ってたほうがお得に決まってるじゃないか! 人間はたくさんを知っているから、そこまでの多きものになれたんだろ?」

 マシンガンみたいに休みのないその口調が知らず私を責めているようで、ドキリとした。コウノトリは要領を得ないという風に顔をしかめていて、アホウドリは屈託なく笑んでいた。

「知らないほうが幸せだよ。現に、意地悪なハイエナのクラスメートたちは授業中だってうるさくて、勉強なんてろくにしたこともないくせ、勉強よりも大事なことがあるってもっともらしく言ったりしてるけれど、読書家で勤勉でお真面目な私よりも幸せそうなんだもん。

 なにを知ろうともしないひとが、苦しくても知ろうとしてるひとのことをわらうんだよ。なにを知りもしないくせ、知った風な悪口を言うんだよ」

「そういう人間は、幸せなの?」

「ちみは、羨ましいと思うの?」

 私は口をあくび途中の猫みたいに開けかけて……なにも言えなかった。

「幸せって、たとえば魚みたいによく見える?」

「大きかったり小さかったり?」

「美味かったりまずまずだったり?」

「頑張れば捕まえられる?」

「分け与えることができる?」

「ぼくらにとっての幸せは、魚だ。でも、きみにとってはそうじゃないかもしれない。魚は好き?」

「うん。一応、漁師町育ちだから」と私は呆けた口元からこぼした。

「おいらたちと一緒だ! うれしいぞ!」とコウノトリが翼を振ってはしゃいだ。

「幸せって、分かち合うことはできても、共有することはできないよ。きみにとっての幸せはきみにしか感じられない」

「だから、おいらたちは世界で一番幸せだし!」とコウノトリが声を張って、グリコのポーズを取った。

「世界で一番、不幸せでもある!」とアホウドリが笑いさざめきながら、イの字型のポーズを取った。私は望遠鏡型に丸めた手を口元にあてて、くすくすと笑った。

「そうだね。きっと、あいつらにとっての幸せは、私にとってはとても不味く感じられるものなんだろうね」

 アホウドリは、さぁ? という具合に首を傾げた。コウノトリはばしゃばしゃと翼を羽ばたかせた。柔らかい羽毛に撫でられた風が、機嫌よさそうに私の頬を撫でていった。


 私はぽつぽつと、雨漏りみたいに話しだした。コウノトリとアホウドリが、知っていたほうがいい、と二羽してせがむものだから、その事実がたとえどんなに醜悪なものであろうとそう思えるのかどうか、ちょっと試してみたくなったのだ。


 アホウドリの衰退と復興の歴史を話している最中、まるで懺悔しているみたい、と思った。

 首から金のロザリオをぶら下げて黒いローブを身にまとった女のひとが教会のなんか偉いらしいひとに向かって両手を組み、なにかしら懺悔しているシーンをどっかで見かけたことがあった。懺悔し終えた女のひとは妙にすっきりとした面持ちで「気にしないことにします、エーメン」とかなんとかちゃっかりと感謝を伝えてから席を立ち、元の生活に身綺麗な状態で戻っていく。私はそれが違和感だった。懺悔するだけして終わりだなんて、随分と都合がよすぎる。

 もしも、意地悪なハイエナのクラスメートたちが頭をどこか固い床に強くぶっつけるかして、いままでにしてきた数々の悪行を一転、後悔するようになって、許されたいからと懺悔してすっきりしやがったらと考えると、ほんとうに腹が立った。

 結局、それは、私をいいように使っているということだ。いままでとなんら変わりない。自分が気持ちよくなるための道具として私を使うな。私はちゃんと、あなたたちが大嫌いだ。

 ほんとうに後悔しているのなら、態度で示さなければダメなのだ。ひとは言葉にしなきゃ伝えられない。だけど、口だけではどうとでも言える。

 言われたことよりも、してもらったことで、そのひとのことを考えるべきなのかもしれない、とふと思った。無口な性質のひとはいるけれど、無行動な性質のひとはいない。それは、性質というより性格、ようは、ただの怠け者だ。

 幸一くんは、私に、優しく接してくれていた。

 それがたとえ嘘のための嘘であろうと、その事実は変わりないし、変えられないんじゃないだろうか。


 私が種の衰退と復興の歴史を話し終えると、アホウドリはしばしあほの子みたいに口を開けた。

「そっかぁ。そんなことがあったんだね」そうして、重々しく頷いた。

「そうだよ。だから、人間は親切なんかじゃないの。人間の私がこう言うのも心苦しいけれど」

「違うよ。人間は親切だよ」とアホウドリは白黒の翼を上下に振りながら言った。私は呆れたように笑んだ。

「話、聞いてた?」

「聞いてたよ。人間はこの綺麗な羽毛が欲しくて、ぼくらの命をたくさん終わらせた。それは確かに酷いことだ。目の前が真っ暗になってくるような気持ちだ。でも、人間は親切だよ」

「それは、現実逃避をしているの?」と私は戸惑いながら訊いた。

「確かに、ここはうつつの世界じゃない! だけど、それがなにか関係あるか?」とコウノトリが理解しがたいというように顔をしかめた。つんとかわいくとんがらされた口が、そのまま長くて鋭い嘴に変わっていくイメージが脳裏に浮かんだ。

 私は犬みたいに首を振った。そうして、はたから見たら赦しを乞うている姿にも見えるのかもしれない、地面にぺたりと座り込んでせわしく手を操りながらという格好で言った。

「人間は親切じゃないよ。だって、あなたたちの命をたくさん終わらせた。少なきものにした。そうしていつか、博物館にある恐竜の骨のような〝いつかいたもの〟にさせられてしまうかもしれない。こんなに確かな過去があるのに、どうして親切だなんて言えるの? そんなの、まったくおかしいよ」

「おかしくないよ」とアホウドリが困ったように言った。

「ああ、まったくおかしくない!」とコウノトリが可笑しそうに言った。私はとんちんかんな二羽に混乱しながら、少しはやった口調で訊いた。

「なんでよ? 分かった。やっぱり、現実逃避をしているんでしょ。でもね、ほんとうに悲しいことだけれど、私は嘘を言っていないよ。あなたたちがたくさん人間に終わらせられてしまったというのは確かなんだよ」

「うそだとか疑ってるわけじゃない。疑えるほどうそがなんなのかを知らないからな」とコウノトリは至極当然という風に言った。私はますます混乱して、黒目をちょっとさ迷わせた。

「じゃあ、なんで?」

「ぼくらに親切にしてくれた人間がいたということも同じぐらい確かだからだよ」

 アホウドリはそう言って、困ったように首を傾げた。仔鴉の羽毛のような眉毛がしんなりと曲がった。

「どっちかっていうと、おかしいのはきみのほうだよ。ぼくらよりも激しく怒っているみたいじゃない?」

「まったくその通り! あほは妙な生き物だな! 話しているときだって、急にをもどしそうな顔をしたり、と思ったら肩を震わせてむくれていたり! おいらたちよりもよっぽど怒ってるみたいだ!」

 コウノトリはちょっと無礼で好奇心旺盛な子どもさながらに、私のキャスケットを翼で叩いたり、鼻頭を小突いたり……と、その他にも色々なちょっかいを出してくるたびに、いちいちその反応を伺った。

 あほあほ言い過ぎ! と私が拗ねたように叫んだときもなんか楽しそうに翼を振っていた。

「あほで悪いっ?」と私は屈辱と切なさから抽出された涙を目尻に浮かべながら吠えた。偽善者、と嗤う意地悪なクラスメートたちの顔が脳裏に浮かんでいた。

「わるくない! ぜんぜんわるくない!」とコウノトリは愉快そうに翼を羽ばたかせた。白と黒の羽毛がふわふわと舞った。アホウドリの吐息に進路を変えられた羽毛が、地面の上に力無く落ちた。

「ここはうつつじゃないけれど、うつつではぜんぶが真なんだ。楽しいことも悲しいことも、空腹も満腹も、すべてはそのときのぼくらのもの。混じりけなんて、含ませようにも含ませられない」

「過去は重んじるべき!」とコウノトリがグリコのポーズをした。爽やかな笑みだ。

「そう言ったいまも、過去になる!」とアホウドリがイの字型のポーズを取った。

「なんなの。おっかしな決めポーズ」と、私は可笑しくなって笑ってしまった。

 そして、うっ、と一度、えずいて泣いた。

 幸一くんがどんな想いを胸に秘めていたとしても、きっと褒められたものではないんだろうそんな想いを態度には変えず、私に優しく振る舞ってくれていたことは確かなのだ。私が幸一くんを慕っていたことだってそうだし、港町の子どもらしく、潮風に取り巻かれながら二人してげらげらと笑っていたことだってそうだ。

 家族は壊れていたけれど、私はそんなこと露ほども知らずに幸せだった。知ってしまったから知らなかった頃のことが台無しになるなんて、そんなことはない。過去は重んじるべきなのだ。そう信じたいまの私も過去になって、おしまいのときまで……ううん、未来永劫、誰もいない未来に生きる誰かにも重んじられることになる。

 誰かが誰かを軽々しく扱う世界より、そういう世界のほうが素敵だと思った。

 私は私が素敵だと感じることを信じて実行できるような素敵なひとになりたかった。だって、それが私にとっての幸せだから。

「おいらたちはうれしいぞ。知って苦しんで代わりに怒るあほみたいな人間が、もっと増えてくれたらいいな!」とコウノトリがあっけらかんと笑んで言った。

「あほみたいな人間のほうが好きだよ。忘れないでね。もしも忘れてしまっても、信じていてね」とアホウドリが私の肩をいじらしくさすりながら言った。

 私はけほけほと笑って、しゅんとしているニィを見上げた。予兆のない動きに驚いたように、ニィの深淵のように深い瞳が水滴のようにまん丸くなった。

 少なきものの町のことを忘れないでいよう、と思った。

 下手くそな生き方を肯定されて、私を守るために否定ばかりしていた幽霊の私が成仏していくようだった。ニィがその瞬間をしっかと捉えてくれたみたいだった。濡れたように真っ黒い深淵から、がところどころ弾けながら立ち昇った。

 そのとき、私は私になった。

「希望」

 えっ、という声は音にならずに燃えた。

 まるで海の中にいるみたいだった。

 私は祈りに包まれて、詰まることも息苦しくなることも溺れることももがくこともこわがることもなく、とても快適に息をしていた。

 手のひらを見下ろした。まるでよだかの星のように燃え盛っていた。燐のような青白い火は私の鼻の穴や大きく開かれた口から侵入はいって、まるでまっさらな輸血のように全身を巡った。

 お風呂に浸かっているみたいだった。カラダが熱かった。

 進化しているのだ、と思った。他者からの祈りや優しさを恐れない私に……ううん、それは進化ではなくて、統合だった。許しだった。肯定だった。

「すごい!」とコウノトリの感嘆の声がくぐもって聞こえた。

「まるではくぶつかんの巨大な復興の火みたいだ!」とアホウドリが叫んでいた。

 私は目を見開きながら、上を仰いだ。

 ニィが怯えた瞳をしていた。少なきものの町から出ることを魂から拒んでいるみたいだった。私はしばしその瞳を見つめていた。幸一くんの弱弱しい表情を見つめていた。

 やがて、まるで感情の波が収まったかのように、復興の火が私の中に閉じていった。

「……ニィ。どうやって復興の火を灯すのか分かったよ」と私は落ち着いた声色で言った。

 ニィは黙っていた。

「見たら嫌でも分かる」と代わりにユキヒョウが言った。私は、ふふっ、と囁くように笑って、オーバーオールについた土をはたきながら立ち上がった。

「ねぇ、もう一回やってみて!」とアホウドリが私の手を翼にのせてせがんできた。

「で、できるかなぁ」

「できるって! おいらたちは次に生まれにいきたいんだ!」とコウノトリが翼を羽ばたかせて言った。

 私の手がのせられたアホウドリの翼と、紅潮しているコウノトリの頬とを交互に見やった。


 私は二羽に祈りを捧げた。


 途端、燐のような光の残滓ざんしが膨らんだように視界を埋めた。思わず目を閉じて、それからそろそろと開けると……目の前には、まるで名もない星座のように青白く燃ゆる鳥たちがいた。

 アホウドリとコウノトリは、それぞれ甲高く、一声、啼いた。そうして、幾秒間か頭を前にもたげた。まるでお辞儀でもしているかのようだった。

 復興の火が辺りを海のように覆っていた。

 やがて、元の姿を取り戻した二羽は、翼を羽ばたかせて飛び立った。

 ──うわっ?

 私めがけて。

 二羽がカラダを透過したとき、微かな笑い声が聞こえた……ような気がした。

 

 より一層、復興の火の勢いが増したようだった。

 記憶の奔流が始まり、私の自意識が渦にもまれたように、目まぐるしく没入していった。

 ──これは、二羽に灯っていた少なきものたちの復興の火の記憶なんだ……。

 花……海、土煙、角……爆竹……銃声、月、太陽、砂……硝煙、風、銀色……。

 私は眠るように目を瞑って、奔流に身を休めた。暴力的ではない激しさだと知っていたからだ。

 ほとんどの復興の火の気配が、博物館に収束していった。火の亡者が奪ったからなんだろう。アカウミガメの女の子もそうだ。私はすべてを解放しなきゃいけなかった。私がそれをしたかった。

 

 目を醒ますと、燃された紙の残滓ざんしのような光が辺りに舞っていた。私は天を仰いだ。鬱蒼とした木立の葉の隙間から、流星のような青白い光が覗いていた。

「あんなに美しい姿で生まれにいくんだね」と私が最初に静寂を破った。手を眼前に掲げてぐーぱーした。悪戯っ子の舌のような火がちろちろと揺れていた。

「みな、そうだ」とユキヒョウが眩しそうに目を細めながら言った。

「私もかな?」

 訊くと、ユキヒョウが意外そうに首を傾げた。

「少なきものならそうだろう。もしもお前が望むのなら、ああいう始まり方もある」

「そっか……。なんだかうれしい。私たちの成仏があんなに美しいなら、人生も少しは愛せそうだよ」

 振り返ると、ニィがまるでバケモノにでも睨まれたかのように、びくっと肩を震わせた。幸一くんと同じ姿でそんな反応をされるのはショックで……私は犬みたいに頭を振った。まだ信仰体質が抜け切っていないみたいだ、と苦笑した。

 なんとなくだけれど、幸一くんはあの夜、失敗したのだろうなと思った。

「人の祈りは一方通行なんだね。だからそんなにも強いんだ」とニィはなにかを強く求めてくる視線をいなすように言った。黒目がずっとうろうろしていて、そのあんまりにも怯えたな様子が段々と気の毒に思えてきた頃だった。私の胸の傷痕がじくじくと膿むように痛んだ。もういい加減涙に溶けてしまいそうな涙腺を、留めるために強く下唇を噛んだ。

 ──だって、待ち受けているのはどうせ孤独だ。僕は次に生まれたくなんかないんだ……。

 そんなにも、孤独を恐れていたの。

「そう、みたい。私はマウンテンゴリラの魂を解放して、少なきものの町を復興の火で包もうと思う。私が、そうしたいと思って、するの」と私はなるたけ声が震えないように努めて言った。

「そんなことをしてる暇があるのかな。猶予が無くなって、元の世界に戻れなくなるかもしれない」

「さっき、その心配はあんまりしてないって言ったばかりじゃない。そうやってすぐに手のひら返しをするところとか、まるで人間そっくりだよ」

「……手のひら返しというか、ヒレ返しだよ」とニィが入り口の広い洞窟のような袖をはためかせながら言った。私は鼻で笑った。

 人見知りなところとか、心根こころねが穏やかなところとかは知っていたけれど……たまにひねガキみたいな口調になったり、ひとの神経を逆なでするようなことを言ったり、こうやって場にそぐわない冗談を言ったり、そういうところは、十二年間一緒にいた私も知らない幸一くんの面だった。まったく、いったいどれだけ隠すのが上手いんだろうか。或いは、元々の鯨の魂の面であるのかもしれないけれど、それは、元の世界に戻った幸一くんに会って確かめないと分からないことなんだろうな、と薄ぼんやりと思った。

 ニィは病熱に浮かされたように、瞳を黒々と潤ませていた。私はぐぐっと下唇を噛んだ。


 何事にもスマートな姿勢で向き合うことのできる幸一くんは、あの夜、はやった。そしてきっと、その証拠の熱だったのだ。あれは、言うなれば魂の悲鳴だった。どうして気づいてあげられなかったんだろう。ほんとうに後悔はしてもしきれなかった。

 幸一くんは、むりやり、自分自身をこれから旅立っていく広い世界に適応させようとした。異常なものは、どこでだってはじかれる運命にある──幸一くんがよく口にしていたことだ。幸一くんは、きっとずっと、自分を異質な存在だと感じていた。家族の中でも、少なきものの自覚としても……或いは、それは、見知らぬ女のひとの許に連れてこられて、見覚えのない小さな命を守らなきゃいけなくなった六歳のときから、ずっと、そうだったのかもしれない。

 悲しみの泉はとまらなかった。栓を閉めきれなかった涙腺から、じわじわと涙が上った。

 私には到底分かり得ない、深刻で、圧倒的で、少しでも油断したら喰い殺されてしまいそうなほどに強い悪夢のようななにか──それに、幸一くんはずっと苛まれていた。苛まれて苛まれて苛まれて──とうとう、幸一くんは、自分を真っ二つに切り離した。


 火が完全に閉じこもった手の甲で目元を擦った。ニィはどこか遠く遠くを眺めているかのような沈んだ目つきをしていた。

「ねぇ、ニィ。縁があると言っていたけれど……あなたと火の亡者は」

「サチイチは、思う通りに振る舞えばいいと、伝えたんだ」

 ニィの瞳がなにかを決意したかのように凝固したように見えた。曇天の下の雪のように鈍く光る顔に埋め込まれた二つの瞳は、変わらず、なにも垣間見えない深淵のごとき暗さをひそめたままだった。

「僕は、希望についていくよ」とニィは優しく微笑んだ。

「……どうしてそこまでしてくれるの?」と私は訊いた。ニィは、一瞬、たじろぐような揺らぎを見せた。

「僕はうれしかったんだ。希望が僕の歌を見つけてくれて、ほんとうに」

 前にも言っただろう? とわざとらしく笑んでいた。

 鯨としての答えに、私の心は確かに落胆していた。そんな心の機微に半ばうんざりしながら、そうだったね、と幾度も頷いた。

「では、やはり黒い拳の少なきものの許に行くんだな」とユキヒョウが点呼を取る先生みたいな口調でもって呟いた。

「………………」

 私とニィは一緒になって黙った。刺された視線をうっとうしがるように、もふもふの尻尾がワイパーみたいにしなった。

「なんなんだ。うっとうしい」とちゃんと口に出された。私は困惑した様子を隠そうともせずに訊いた。

「なんなんだ、じゃないよ。ユキヒョウも来るの? だって、なんのメリットもないし、むしろ危険しかないんだよ?」

「黒い拳の少なきものは凶暴だよ。今度だって全身全霊で、僕らをうつろにしようとかかってくる」

「そんなの、あんな目に遭ったんだ、分かるさ。お前は吠えるわ、敵わない相手に気を立てて潰されそうになるわ、鯨は不快な音を鳴らすしで、もう散々だ」とユキヒョウが言ったのと同時に、もふもふの尻尾が、そうだそうだーと言いたげにぶんぶんとしなった。

 私は基本的に高慢であるユキヒョウの態度にむくれて訊いた。

「じゃあ、どうしてそこまでしてくれるの?」

「なぜならば、気分だからだ。前にも言ったろう」

「そうだよねぇ」と鯨が間延びした語尾で同調した。私は凄みの効いた睨みのつもりのなよなよとした視線をニィに向けて、小さく笑った。

「二匹とも……ありがとう、ございます」

 森の中は濃い橙色に染まっていた。夏でよかった。これが秋や冬だったら、人間の夜目じゃ到底太刀打ちできないぐらいの暗闇が森を支配していただろう。

 私は夕方の気配を恐ろしい夜に備えて蓄えようとするように、大きく、一息吸った。カラダの内に潜り込んできたのは、濃密な別れの気配だった。私はむせた。いつの間にか近寄ってきていたもふもふの尻尾がバカにしたようにうねったので、五本指でちゃんと掴んだ。出来心で。そして、きっちりはたかれた。

「ねぇ、もしも少なきものの町から解放されて、次に生まれたら……もう私のことなんか忘れちゃってるかな?」

 私はへらへらと笑みながら訊いた。に受けてほしいと切に願う心とはまったく裏腹の行動を取るカラダが嫌いだった。そうして、カラダよりも心のほうと密接している涙腺がまた震えだしてしまうのだ。それも情けないように思えて恥ずかしかった。

 私がしょげたように、一瞬、俯いたところで、ユキヒョウが事もなげに言った。

「憶えているだろ」

「ほんとうに?」

「ああ。人間よりも遥かに多くのことを、俺たちは憶えている。むしろ、お前のほうが忘れるさ」

「そんなことないっ!」

 ユキヒョウが日向に晒された氷原のように冷ややかな笑みを浮かべて、ニィも、そうだよねぇ、と笑みかけたとき──私は私でも、うるっさいな! と怒鳴りたくなるぐらい盛大な声量でもって叫んだ。

 恥ずかしかったけれど、戸惑う様子を見せたほうがより恥ずかしくなる気がしたので、そのまま突っ走った。

「忘れないよ! 絶対! 心の一番大事なところにフィルムとっとくから!」

 迷惑そうに細められていたユキヒョウの目が、柔和に曲がった。

「そうか」もふもふの尻尾が私の目元をそっと掠めた。

「う、うん……えぇー、反応、それだけ? 薄いよ。お母さんの作るめんつゆぐらい薄いよ」

「だから、なんなの、それは」とニィがけらけらと笑った。

 私は、ほんとうにほとんど水道水なんだよ……とくっちゃべりながら、別れの気配を振りまく二匹と連れ立って歩いた。

 地面からは湿っぽい夕の香りが立ち昇っていた。優しい橙色の夕陽が、少なきものの町と心を癒すように染め上げていた。

 私が言いそびれていたことは、たぶん、当たっているんだろう。

 これは、十二年間、幸一くんの優しさにもたれていた私の禊でもあるのだろうな、と思った。私はこの町に留まることを選んだ幸一くんの魂を解放してあげなくちゃいけなかった。それが、雪村希望のやりたいことで、雪村幸一の妹としての使命だった。

 ふと、ニィの横顔を見上げた。

 私は決意の瞳を前に向けて、魂の解放のために歩を進めた。






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