第8話「社員の心得」

 社員でもない久里浜はその後もオフィスに居座り、おおよそ業務とは関係ないような指示を周りの人間たちに与えていた。

 誰もそれをとがめようとしないので、久里浜の指示はまかり通っていった。

珈琲こーひーが飲みたいなぁ〜。誰か買ってきてよ」

 久里浜が呟くたびに、誰かがオフィスを飛び出して行く。これでは通常の業務にも支障が出るというものだ。


「やってられるかよ!」

 え切れず、部長が机を叩いた。

「ん? どうしたんだい、部長?」

 久里浜が白々しらじらしく尋ねる。

「こう何度も何度も、仕事に関係のないことを言われて集中できるものか! こっちは遊びじゃない。仕事で来ているんだ!」

 オフィスの中に、部長の怒号が響き渡る。

 よく言ったものと、デスクの下で先輩や沙織ちゃんが音のない拍手を送っていた。

「へぇ~」

 当の久里浜ときたら、叱責しっせきを受けても動じた様子はない。

 立ち上がった久里浜は部長の肩にポンッと手を置く。

「だったら、明日から来なくて構わないよ。人事の方には、僕の方から伝えておくから」

「なんだと!?」

 部長が睨みを利かせる。今にも掴みかからんとする剣幕であった。

 そんな部長を挑発でもするかのように、久里浜はヘラヘラと笑う。

「そんなの、当たり前じゃない? 仕事に意欲のない人間を置いていても、会社に何の利益もないじゃない。それなら、派遣さんでも雇った方がまだ有用だよ」

「そんな横暴な……」

 部長が絶句して、言葉を飲み込んだ。

 久里浜は肩をすくめる。

「僕を訴えでもするかい? ……でも、残念だけれど、今の僕は社員でも何でもないからね。関係のない一般人として一意見を言わせてもらっただけだけど、どうかなぁ?」

「うぅむ……」

 部長は唇を噛んでいた。それ以上、言い返したところでどうにもならないし、何より久里浜が次期社長に就任したら自分の立場が危うくなってしまう。

 湧いて出た怒りをしずめるかのように、部長は深呼吸を繰り返した。

「それが、賢明けんめいだね」

 ウンウンと、久里浜は頷いた。


 そして、久里浜は何やら思い立ったようだ。

 みんなの方を向き、大きく息を吸って演説を始めた。

「いい機会だから言っておくけど……。他にも、やる気のない人間が居たら、今の内に退社しておいてもらえるかな? 僕が社長になってから負債を抱えさせられるのも迷惑だからね。毒は予め出しといて貰えるとありがたいよ」

 みんなの手が止まる──。

 誰しもが、憎しみのこもった視線を久里浜へと向けていた。

 久里浜の一言によって、オフィスにはピリピリと張り詰めた空気が流れる。


 はて、犬である私には、彼らの小競り合いの原因がイマイチよく分かっていなかった。

 だから、我関せずと相変わらずキーボードを叩いていた。

 そんな私の姿が、久里浜の目にまったようだ。

「どうやら、この会社に相応しいのは彼だけみたいだね」

 久里浜は私のことを称賛しょうさんし、パチパチと拍手を送ってきた。

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