第7話

 だいぶ長い時間寝てたようだった。松浦が死んだ次の日だというのに気分はさほど暗くなかった。

 目を覚ますと加州が機嫌よさそうな顔で、鷹松の顔を覗き込んでいた。

「おはようっス、水哉ゆきちかさん」

「いてっ」

 慈しむような笑みを浮かべられ鷹松は若干イラついた。

 笑いながらキスをしようと顔を近づけてきた加州の頭を、鷹松は思わずひっぱたくほどに、だ。

「酷いっ」

 加州は頭を押さえながら不服そうに頬を膨らませる。

「もうちょっとこう甘い雰囲気とかあるでしょ」

「ねえよ。馬鹿っ」

「ええええ。せっかく結ばれた後の初めての朝なのに。あ、照れてるっスか? ねえ照れてる?」

「阿呆っ」

 鷹松は枕で加州をひっぱたくとベッドから起き上がろうと身を起こそうとした。瞬間腰に鋭い痛みが走り鷹松はうずくまった。

「――ッテエ」

 散々加州の若さに任せた行為に腰が悲鳴を上げていた。腰だけじゃない。ケツの穴も中に何か入っているような不快感とひりつく痛みがある。

「大丈夫です?」

 加州は心配そうな顔をしながら覗き込むが、その顔はなんだか嬉しそうで相好が崩れている。なんだなんだこの甘ったるいような雰囲気は。彼氏面というのはこういうことを言うのだろうか。

 キモイとは思わないが、加州のこの顔は非常にむかついた。鷹松は呻きながら、べたべたしてくる加州をベッドから蹴り落とした。シーツごと加州はベッドの下に落下し、見えない位置で悲鳴が上がった。

 ざまあみろ、と思いながら鷹松は枕を手元に手繰り寄せ抱きしめた。

「加州、新聞とタバコとってこい」

 加州が体にまきついたシーツと格闘している頭上から鷹松は命令する。

「……もー……」

 なんとなく不服そうな声とともにのそりと加州が立ち上がる。真っ裸の加州は自分の下着を拾い身に着けると、寝癖のついた髪を手櫛で整えながら玄関扉から新聞を取りに向かった。

 扱いに不服なのか、ポストを開け閉めする音がいつもより大きい。さすがにドスドスと歩きはしないが、下に誰も住んでいなければそれも付け加わっただろう。

 だからといって、付き合ってもいない相手に甘くする必要はない。というか。

「世の中のやつらは一回やれば彼氏面すんのか?」

 と彼女いない歴=年齢の鷹松としては疑問に思うわけだ。付け込まれたとは思うが、だからといって別に付き合いたいとも言われてないし、そうであるならば順番が違うわけで、と鷹松はベッドの上で頭をぐるぐるとさせていた。こういうことは非常に縁遠く不器用であった。

 そんな鷹松のことなどわからない加州は新聞とタバコを命令されたとおり取りに行くと膨れ面のまま鷹松に差し出した。

「さんきゅ」

 うつ伏せの鷹松は胸元に枕を敷くと煙草を一本口に咥える。

「灰、落ちるっスよ」

 ふてくされたように言いながらそれでも鷹松の煙草にライターを近づけ火を灯してやり、手が届く場所に灰皿を用意する。かいがいしい子分は命令待ちなのか、それとも甘えてもらいたいのかわからないがベッドの縁に座った。

 フー、と煙を吐き出しながら鷹松は寝転がったまま新聞をめくる。

 ここ最近は世の中の大きな出来事はなく、とりあえずはぱらぱらと新聞をめくってはななめ読みする。やれ誰が汚職だの、円安に拍車がかかっただの、どこそこで飲酒運転で捕まった輩がいただのそんなものばかりだった。

「ん」

 時折加州が灰皿を手に鷹松に差し出し、そのたびに鷹松は煙草から口を放しフィルター部分を爪ではじいて灰皿に灰を落とす。

「水哉さん」

「ん?」

 鷹松は株を確認しながら加州の呼びかけに反応する。

 今日は特に気になる銘柄もなし、と新聞を折り畳み脇に放ると加州のほうを振り返った。

「付き合ってほしい」

 加州はいつの間にかベッドの上で正座になって鷹松を見下ろしている。

 いつになく真剣な顔をして加州は正座のまま鷹松に詰め寄った。鷹松は思わず「うお」と小さく呟きながら顎を引く。百九十近い男がにじり寄るのだ。そりゃ怖い。しかも真顔なのだから鷹松であっても少し怖かった。それなのに

「ど、どこに?」

 と聞いてしまうのはお約束だろうか。

「……」

 加州は鷹松の煙草を奪うと灰皿に押しつぶすようにしてもみ消した。

「おい、加州」

 文句を言おうとした口に加州の唇がかぶせられる。昨日の夜とは違う性急で乱暴なキスだ。体をひっくり返され噛みつくように強く何度か顔の位置を変えながら降らせてくる。間近で見る加州の瞳は獣のようだった。思わず鷹松はぞくり、と背筋が震えた。

「こういう意味での付き合って、です。俺、ずっと水哉さん見てて、昨日のことがあって、この人を支えてあげたい、守ってあげたい。好きなんだって自分の気持ち気づいた」

「……男だけど、俺」

「そんなのわかってる。わかってて好き」

 加州は鷹松の首筋に顔を寄せ甘く歯を立てた。背中に腕が回され強く抱きしめられる。じかに触れた胸から加州の心拍の音が聞こえるようだった。

 女なんか笑いかけただけで堕とせるような精悍な男の顔のくせに、鷹松に対して小心者のように緊張している。

 必死さに、なんだか、仕方ねえなあという気持ちになる。

 鷹松は天井を見上げながら、顎をくすぐる加州の髪に指をからめた。耳元近くで聞こえるリップ音にわずかばかりのこそばゆさを感じつつ、溜息をついた。 

 慕ってくれるのは嬉しい。昨日もずいぶんと救われた、と自分では思っていた。だが、幸内の、親父の顔がどうしてもちらつく。加州は大事な坊なのだ。

「……諒太……俺」

「返事はいい……聞きたくない」

 鷹松の声音で大体のことは察したのだろう。加州は駄々をこねるように頭を振る。

「でもお前」

「どうせ水哉さんの頭の中は親父でいっぱいだもの。だから今は返事をしないで。いつか、いつか俺がアンタに並び立てるような一人前になったら、そんときアンタを頂戴」

 断わらないで。どうか断わらないで。

 加州の泣きそうな声が胸に痛い。

 組の宝に手を出すのはご法度だ。鷹松に甘い幸内でも加州が望むような関係は許さないだろう。それを知ったら加州はやけになるだろうか。でも今の鷹松に、きっぱりと加州を突き放す勇気はなかった。

「考えておくわ」

 ただ短くそれだけを答えた。

 今はそれで良いのだと加州は頷き、抱きしめた腕の力を強めた。



 その後、加州は鷹松に告白の返事は求めなかったし、鷹松も特に返事を言う気にはならなかった。二人の関係は二人だけの間の時のみ多少の変化は見られたが、他の人間が一緒にいればその変化は見られなかった。せいぜい坊は若頭になついてかわいらしいという程度だ。

 いつものように二人で出かけ、いつものように二人で帰る。

「お前は何処に家があるんだ」

 と幸内がぼやくが、加州は好きにさせろとけんもほろろだ。後々幸内に当たられる自分の身になって欲しいと鷹松は思う。だが断わらないのは鷹松が決めたことだし、加州に文句は言えない。

 今日もいつものように二人で鷹松の家に行き、加州が夕食を用意している間に鷹松は風呂に入った。

 今日は気温がいつもより高い。熱いのをさっと浴びて出よう。

 鷹松はコックを全開まで開き大量のお湯を体の浴びせる。少し熱い湯が体についた汗を勢いよく流していった。

 汗を一通り流したあとで石鹸を泡立てて体につけた。そのまま体についた泡は流さず、シャンプーを手に取り、つんつんの頭につけた。指の腹で強く頭を洗い頭全体を擦ったあとシャワーを浴びた。

「ん?」

 外から電話の音が聞こえた気がした。

 ノズルに手をかけ、風呂の外へと耳を済ませたが、その音は気のせいかと思うくらいすぐに聞こえなくなった。

 ——間違い電話かなにかだろう。

 鷹松は特に気にせず全身の泡を洗い流す。シャワーの湯を止めると軽く頭をふって水気を飛ばした。

「風呂でたぞー」

 鷹松はタオルで簡単に体をぬぐうと風呂から上がった。脱衣所のタオル掛けにかかっていたバスタオルを取り再度頭から足の先までぬぐう。腰にバスタオルを巻いて脱衣所をでた。

「ご飯できてますよ」

「おう。なあ、諒太さっき電話あったか?」

「いや? かかってきてないですけど」

 加州はちらりと家電のほうを眺めた後、頭を振った。電話機はたしかに着信を示すランプはついていない。何かあれば留守電に入るか再度駆けなおすだろう。特に気にする気もなかった。

 加州は食器棚からご飯茶碗を取り出し、炊飯器の蓋を開ける。ふわっとした白い湯気が炊飯器から立ち昇り、炊き立ての独特のにおいが鼻をくすぐった。

「なんか電話待ってました?」

「いや、なんか聞こえた気がしただけ。気のせいだったみたいだ。気にすんな。どうせようがあるならまたかけてくるだろ」

 鷹松は冷蔵庫からビールを取り出すとプルタブをあける。キンキンに冷えたビールに口をつけうまそうな顔をした。

「あ、ずるい俺も飲む」

 きゃんきゃんとほえる加州にビール缶をとってやり、鷹松は食卓に付いた。

「うるせーな。ちゃんとあるよ」

 鷹松はそういうと両手を合わせた。

 加州も茶碗を並べると席につき手を合わせる。

「いただきます」

 意識的にあわせようとしたわけではなかったが、二人の声がそろい、ままごとのような夕食の時間が始まった。


 幸内ご自慢の庭が赤く色づくころ、鷹松は幸内邸へと足を運んだ。

 ここ数ヶ月の加州の態度やら働きやらを報告をするためだ。加州に任せた女は順調に返済をし、赤崎とのやりとりも率先してこなしていた。鷹松でなく他の舎弟と組ませても仕事の出来はよく、半年という短い期間ではあるが重大な欠点は見受けられなかった。

 人への当たりも良く、なによりも事務所でのほかの組員の受けが良かった。これであれば他の組員の反発もおそらくないだろう。

 一緒に幸内邸に来ていた橋本も堀越も、加州が来た当初難色を示していたが、仕事ぶりは噂で聞くらしく認める口ぶりに変わっていた。

 お披露目の時期も近いだろう。

 息子の評価に幸内は上機嫌だった。

 加州を組長として祭り上げ、鷹松以下が補佐し本条組を盛り上げる。若い組織だ。加州の代で大きく飛躍するのも夢ではないだろう。

 今日は飲んでいけ、と陽が傾くころに膳が運ばれてきた。遅れて幸内と兄弟杯を交わした古参の幹部達も数人やってきて席に着いた。

「跡取りとしての教育をそろそろはじめてもいいかもしれんな。鷹松からはずいぶんと優秀だと聞いとる」

 一緒にいた加州に幸内が言うと加州は照れ臭そうに笑い、鷹松に一瞬視線を投げた。

「鷹松若頭がずいぶんと丁寧に教えてくれたから。わからないこともめんどくさがらず教えてくれるし、それにやり終えたらずいぶんと褒めてくれる」

「ほんと坊は若頭がお好きなんですなあ」

「そりゃあもちろん。尊敬してます」

 加州は機嫌よく古参にも応対しながら鷹松に笑いかけた。鷹松はいつ口を滑らせるのかとひやひやしながら酒を煽る。それがまた他から見たら鷹松が加州の言葉に照れているように映ったらしく、囃し立てられる羽目になった。

「俺は普通に教えただけで、坊の飲み込みが早かっただけですよ」

 俺は何もしちゃいない。ただこいつが自分に気に入られたくて必死こいてただけだ。あの顔を見ろ。ご褒美をほしがっている犬のようじゃねえか。

 鷹松は再び酒を煽り、膳に箸をつけた。

「いやはやこうも坊と頭が仲がよきゃ俺らの出番はねえなあ」

「隠居も早そうだ」

「そうしたらわしらだけで日本の外にでて派手に遊ぶか」

「親父は坊も連れていきたがるでしょうに」

「ちがいねえ」

 がはは、とにぎやかな笑い声が酒宴の場に響く。古参どもはすでに組は安泰と思っているらしい。黙って座っていれば甘い汁が吸える。どこですっころんで泥水をすするか考えもせずにだ。

 誰だってマイナスの未来など想像はしまい。それなりの年まで勤めあげ、組長とずぶの付き合いをすればちゃんとした墓くらいには入れる。

 鷹松だってそのくらいの未来にはしたいと思っていたし、するつもりだ。 

「ねえ、親父。俺が跡取りときまったら、早いうちから若頭には俺の右腕になってもらって一緒にやっていきたい」

 加州は無邪気に幸内にねだり、かつての棘は見受けられない。一瞬の反抗期だったのかもしれない。

「バカ野郎、気がはええわ」

 そうはいうがあとを継ぎたいと明確に表明したのは初めてで、幸内は嬉しそうであった。

「俺を連れ歩く前におべんきょが先ですわ、坊」

「ええええっ」

「諒太、鷹松に手間かけさすんじゃねえぞ」

 加州の言葉に幸内は機嫌よく笑い、一緒に座していた面々も一様に笑った。

「坊、俺や堀越も忘れないでくださいよ」

 橋本が調子よく加州に酌をし、加州はその酒を受けた。

「もちろんっスよ。お二人には特に、これからもよろしくお願いします」

「坊はほんま、人を抱きこむのが早いですなあ」

「ははは、それほどでも」

「そこで謙遜するのも小憎らしい。坊には敵いませんな」

 古参幹部は二代目になるであろう加州へのゴマすりを忘れない。加州はそれを知ってか知らずか笑顔を振りまきまくっていた。

「ん? きたねえな」

 鷹松は周りに合わせるように笑いながら、ふと自分の膳の脇におちた蠅の死骸をつま弾いた。



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