最終回

 風に乗って響いてくる歌に誘われて、顔を上げた。

 ふと窓から外を伺えば、焼け残った建物を修復すべく奮闘する女たちの姿があった。まずは屋根を塞ごう、それから全体の歪みを戻して――などと話し合っては、また散っていく。重労働とはいえ機嫌は悪くないようだ。調子外れながらも明るい歌声から、そのさまが察せられた。

 西の森の大半を焼いた炎は、およそ信じがたい風の悪戯で私たちの村へと伝播していた。大半の男が出払ってしまっていたから、残された者たちは大混乱に陥った。すべてを捨てて逃げ出すほかないと覚悟し、東へ、東へと向かっていたという。

「ですから雨が降りはじめたときは、これぞ天の助けと思いました。あわや村を呑み込むところだった炎が、あっという間に消し止められて」

 脱出を先導していた村娘が、朴訥とした調子でそう、私に語ってくれた。迷いに迷った末の決断だったと、彼女は振り返った。

「武彦さまと累さまは、なにが起きても村を守り通すように、とご命令でしたから。みすみす灰にしてしまっては、さぞ立腹なさるだろうと。あとで厳罰が下されるに違いない、残って無意味な消火に励んだほうがいい。そう思いかけたのですが、千歳さまのお顔がふっと甦ったのです。もっとも優先すべきは命だと気付きました」

 雨は三日三晩続き、すべての火が鎮まるのを待って、止んだ。おかげで村の被害は最小限に食い止められ、火災による死者は出なかった――。

「文乃、まだ横になってたほうがいいんじゃない? 治りきってないでしょう?」

 物音に振り返れば、右足に布を巻いた文乃が、壁に手を付きながら立ち上がろうとしているところだった。怪我を庇っている様子こそあるものの、顔色はとうに普段どおりだ。痛みも引いたものと思しい。

「いつまでも姉さまに背負っていただくわけにもいきません。私も一日も早く、元の暮らしに戻りたいのです」

 気丈そうに笑っている。私も笑みを返した。

 蛇も光になって消えてしまいました、とあのあと文乃が教えてくれた。私を追いかけてこようとした直前のことで、安珠の様子が急変したことに困惑したという。

 唐突に、しかしそっと、文乃の体を吐き出すと、安珠は頭部を上下させつつ発光を始めた。私のもとに駆けつけることしか頭になかった文乃は大慌てで、再度の同化を試みていたそうだ。不思議な動作が安珠なりの別れの挨拶だと気付いたのは、その姿が完全に見えなくなってからだった。

 文乃の手を握って、ともに一階へと下りた。角の部屋には、体の自由を失った武彦叔父が、ただ静かに座っている。

 増水した川に呑まれ、攫われて、延々と押し流されたものと想像される。下流の浅瀬に倒れ伏しているところを、村娘のひとりに発見された。措置の甲斐あってどうにか息を吹き返したものの、かつての豪胆さ、屈強さ、烈しさは水に拭い去られたままである。

「叔父さま、千歳です。私が分かりますか」

 すっかり小さく萎れてしまった顔を覗き込んで、声をかける。返事が来たためしはないから、半ば日課のようなものだった。ところがその日だけ、叔父は幽かに涙を零しながら、こう呟いた。

「済まなかった」

 たった一言の謝罪が誰に向けられたものかは、むろん語られなかった。私か。文乃か。村の人々か。あるいは久遠か、蟲たちなのか、森なのか。それはきっと、今後の長い平穏の中で、彼自身が見出していくべきことなのだろう――。

 側近だった累の行方は、いまだに知れない。あの伸び縮みする杖の断片が、やはり川の下流から拾い上げられたのみである。既定の日数が過ぎて捜索が打ち切られたのち、村の掟に従い死者として弔われた。ただ名前だけが刻まれた真新しい墓標が、墓地の片隅に建っている。

 屋敷を出ると、途端に娘たちに囲まれた。各々が携えてきた箱や籠を、私に差し出してくれる。ひとりがはにかみがちに、

「皆で集めました。ほんの少しでも、森に緑が戻る手助けになればと」

 植物の種だった。わあ、と文乃が声を上げる。私はそれをそっと掌で掬い、さらさらと、陽の光を浴びせるようにかき混ぜてから、

「ありがとう。もしよかったら、一緒に植えに行かない?」

 彼女たちは色めきだった。

「私たちも一緒で構わないんですか」

「もちろん。皆で植えたら、きっとすぐに芽吹くよ。ねえ、文乃」

 傍らで文乃は、ほんの少しだけ頬を膨らませてみせ、

「姉さまのお供は本来、私だけなのですが――でも姉さまがそう仰るなら」

 連れ立って、西の森に向かった。村娘たちが先を行き、手を繋いだ私と文乃はしんがりを務めた。黒く焼け焦げた大地と、木々の残骸と、降り積もった灰。抜けきらない煙のにおい。いまだ惨たらしい火災の爪痕が残る中を、私たちは歩んだ。鎮魂の祈りとともに。

「見てください、千歳さま。もう新芽が伸びています」

 娘たちが騒ぎながら、私を手招く。文乃がぴょんぴょんと跳ねるように足取りを速めた。

「本当だ――まさか、こんなに早いなんて」

 それは小さな、しかし瑞々しい芽だった。目が覚めるように青い、森の命。

 屈みこんで近くを掘り返し、運んできた種を蒔いた。丁寧に土をかぶせ、掌で優しく撫でる。同行した誰もがそれに倣った。文乃が立ち上がり、私を振り返って、

「姉さま、蟲笛を聴かせたらいかがでしょう。私たちの種に。この森に」

 頷き、腰の袋に手を伸ばした。笛を抜き出そうとしたとき、ふと引っかかりを覚えた。力を込めると、ころりとなにかが転がり出てきた。拾い上げて、つい涙を零しそうになる。食べ切ったと思い込んでいたのに、ひとつだけ残っていたのだ。私たちの切り札。

 すでに文乃が新しい穴を掘りはじめている。種を彼女に託し、笛を構えた。目を閉じ、ゆっくりと息を吹き込んで、音を伸ばした。音楽を生じさせた。

 蟲たちと私たちのための音楽。ふたつの種族を繋ぐ旋律。

 この種が大樹となるのを、私たちは目にできるだろうか。曾祖母の歳まで私たちが生きたとして、緑の甦りに立ち会えるだろうか。いつか再び、蟲たちのさざめく夜が訪れるだろうか。

 なにも失われはしないと、あのとき久遠は言った。ならば私たちの物語もまた、森が留め置いてくれるのだろう。そうだったらいいな、と願いながら、私は蟲笛の音色を響かせつづけていた。

 光によって、水の流れによって、旋律によって、あるいは誰かの声によって、この物語がかたられるとき、私たちはまた逢える――そんな気がして。

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夜毎さざめく蟲たちは 下村アンダーソン @simonmoulin

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