第20回

 音楽は失せ、光だけが残った。

 小さく波立った水面も、岸辺の木々も、柔らかに明るんでいる。中空を漂う光は長々と尾を曳き、明滅を繰り返しながら、じゃれるように旋回している。蒼。緑。白。

 私たちはただ黙って見つめ合っていた。問いたいことは無数にもあったが、言葉はひとつも浮かびはしなかった。静寂の中、一瞬だけ久遠が微笑んだような気がして、私は彼女に歩み寄ろうとした。腕が水を打つ音。

「久遠」

 と本当に久方ぶりの声を上げた。この時間が永遠にも続くのではないかと思い込みかけた矢先だった。久遠の姿が、視界の中で陽炎のように揺らいでいることに気付いたのだ。少しずつ、しかし確実に透き通り、光の小さな粒となって、舞い上がっていく。

 嘘、と声が洩れた。眼前の光景が幻でないことを悟った。

「久遠、待って。行かないで」

 叫びながら、重い水をかき分けた。すぐさま駆け寄らなければ。駆けつけて抱きしめなければ。大した距離ではないのだ。久遠はそこに――まだそこにいる。声を張り上げて呼びつづけた。久遠。

「やり直せるって言ったのに。何度だってやり直せるって」

 いつの間にか、泉じゅうの光という光もまた、久遠のもとに収斂していた。自ら奏でた旋律の意味を、私はようやく理解した。蟲はもとより水に近い生き物。封印を解かれた彼らは、最大限の能力で体を水に作り替えて、この泉を甦らせ、そして森へと――。

「久遠を連れて行かないで。お願い」

「大丈夫」

 久遠が唇を開いた。穏やかに笑っていた。

「怖がらないで。私たちは、形を変えていく生物だから。なにも失われるわけじゃないんだよ」

 ようやく彼女のもとに辿り着いた私の頬を、透明な掌がそっと撫でる。水であり、蟲であり、久遠でもあり、あらゆる生命であり、死者であり、森そのものでもある――その優しい感触。私の涙もまたそこに溶け、ひとつになって、消えていく。

「一緒にいて。傍にいてよ。どこへも行かないで」

「一緒にいるよ。あなたが森に還るまで――ううん、森に還ってもずっと。約束する」

 約束する、と繰り返した彼女を、私は無我夢中で抱き留めた。強く引き寄せようとしたけれど、その最後の言葉は、体のぬくもりは、どこまでも蒼く清浄な光は、私の腕の中から零れて、すぐに飛び去ってしまった。なんの痕跡も残しはしなかった。

 独りきりになった私の頬をふと、冷たいものが濡らした。見上げた空が、瞬く間にざわめきを増していった。人の耳には意味を成さないざわめきを。

 木の葉が、水面が、雨粒に叩かれて盛大な音を発しはじめた。いつ絶えるとも知れない豪雨が世界を埋めていく――その始まりの場所に、私はいつまでも立ち尽くしていた。

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