第19回

「あの泉なの? 水がもう、一滴も」

「失われたわけじゃない。呼び戻せばいい」

「どうやって」

「封印を解くの。蟲笛吹きなら知ってるはずだよ――その旋律を」

 呼吸を忘れた。返答するすべが浮かばないままに数秒が過ぎた。そうしてようやく、久遠の瞳に映っているのが私ではなく、遠い記憶の中の千代なのだと悟った。久遠は――きっと思い出したのだ。おそらくは先ほどの地震を引き金に。

 蟲を誰よりも愛した、歴代最上の蟲笛吹き。この場に居合わせるべきは私ではない。千代だ。

「ごめん、久遠。私は」

「千歳」

 初めて彼女がそう私の名を呼び、静かに歩み寄ってきた。いまだ白く滑らかな、鉱石のような腕をこちらに伸べ、私の首に絡めた。冷たい肌の触れ合う感触。

「私はあなたが必要なんだよ、千歳。森を、蟲たちを守るために戦ってきたのは、私たち。そうでしょう?」

 抱き寄せられる。あらゆる感情が混然となって、声を出せなかった。

「千歳、よく聞いて。水を統べる者の魔法を使う。火を消し止めるの。大丈夫、ふたりならやれるよ」

「久遠――」

「裏切り者だなんて言ったの、取り消すよ。水琴は私の、蟲笛はあなたの手にある。森の命は失われてない。千歳がいなかったら、ここまで来られなかった」

 彼女の指先が私の髪に触れ、額を露わにさせた。唇が一瞬だけ、押し当てられる。

「ありがとう」

 久遠が私から体を離した。背中から水琴を下ろし、いつかと同じように石の上に腰かけた。弦を掻き鳴らす。掌が舞う。その仕種はいかにも優美だった、水琴の奏者にふさわしく。

 音楽が生まれた。私はその旋律を――知っている。

 まったく無意識に、しかし研ぎ澄まされた感覚とともに、蟲笛を構えた。

 閉じた瞼の裏側に、蒼白い光が踊る。ぽつり、ぽつりと瞬くばかりだったそれが、やがて空間を埋め尽くすほどの数になる。風に吹き上げられるように、月明かりに憧れるように、位置や彩度をしきり変えながら、輝きつづける。

 私はこの光景を知っている。

 思い返す。信じがたいほどに冷たく、澄んだ水。素足を浸した感触。凪いだ水面からこちらを見返していた、もうひとりの私。蟲笛を携え、幻の音楽を奏でていた私。

(あれは私? それとも――千代の記憶?)

 森が過去と現在を、夢とうつつを、溶け合わせていく。そっと目を開ければ、足許に緩やかな流れが生じていた。ゆっくりとこちらへ至り、私を濡らした。それは少しずつ勢いを増していき、やがて蒼い奔流になった。甦った水が一帯に満ちる。泉が、向かい合った私と久遠を抱いている。

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