【ニッシー:過去編】ニシローの初恋②

 下校時刻になると同時に、俺は部員どもを一人残らず美術室から追い出した。それから窓と扉の施錠を確認して、顧問のいる準備室へ入る。部活動日誌を提出するためだ。この流れ自体はいつものことで、違うのは俺の隣にチガヤが立っているということだけ。

 顧問の柳原ヤナギハラ先生――ヤナっちは、日誌にざっと目を通すと「代わり映えしねぇなぁ」と言った。


「部長さんよ、ちょっとはこう、今日は全員でデッサンをしてみましたーみたいな日はねぇの? 部活動らしいことやってんの、お前ら二人だけじゃねーか」

「俺の言うことなんか聞くわけないっしょ?」

「まぁなぁ……お喋り部所属、だしな。そもそも他人に言われて描いてるようじゃ、なーんも意味ねぇしな。まぁあいつらは楽しきゃいいんだろうな、あれも青春ってやつかね」

「でしょーねぇ」


 なぁ、とヤナっちが俺を見る。もう日誌はどうでもいいらしく、確認欄に殴り書きでサインを入れると机の上に放り出した。


「ニシは美大とか受ける気ねぇの?」

「ないっすね、別に上京とか希望してないんで。それより内部推薦が欲しいっすわ、福海大なら家からめっちゃ近いし」


 俺の通ってる高校は、福海大学の附属校だ。せっかく内部推薦枠があるのだから、そのまま芸術学部に進めれば十分だ。俺は漫画が描きたいわけで、アートがやりたいわけでもなければ、一流の絵描きになりたいわけでもない。だからといって、漫画を学べる専門学校を志望しても、うちの親は絶対に許さないだろう。ユズカが大人になるまでは、家の中を引っ掻き回したくない。だから俺には、この選択肢しかないんだ。

 ヤナっちは渋い顔をして、そんな理由で進路決めてんじゃねぇよ、と呆れ声を出した。


「進学実績とか、クソみたいな話をする気はねぇんだけどさ、今の世はまだ肩書きにもそれなりの価値がある。人生に箔付けて損はしねぇぞ。ニシの成績なら十分狙えるんだし、俺は勿体ねぇと思うよ?」

「いやいや、無理っしょ」

「このままノホホンとしてたら、そりゃ無理だがな。二年生の今から気合入れれば、まぁスタートラインくらいにゃ立てるさ。お前の事だから、挑む前から諦めてんじゃねぇの?」


 俺は否定の言葉を出せなかった。全くの的外れでもないから、ヤナっちの指摘はタチが悪い。そりゃ俺だって「美大」や「東京」に憧れる気持ちはなくもない。誰でも手を伸ばせるわけじゃないというのもわかっちゃいるし、ヤナっちの言葉をありがたくも思う。だけどそれは「健全な家庭」で「マトモな両親」のバックアップがあってこそ、という気がする。俺が家を出るということは、あのクソみたいな両親のところにユズカを一人残して行くってことだ。そんなことは絶対にできない。


「親が反対してんだったら、俺の方から話してやろうか?」

「いやぁ反対っていうか、ずっと家のことをしてくれてたばーちゃんが亡くなったもんで、今は俺が家事やってんですよ。中学受験を控えた妹の面倒も見てるし、正直もう俺の受験どころじゃないんで、内部推薦枠は俺にください」

「くださいじゃねぇよ、自力でもぎ取れ。しかし、本当にお前は欲がねぇなぁ」


 ヤナっちの視線が俺から外れて、チガヤに向いた。

 まさか、チガヤも内部推薦狙いなのか。だけど芸術学部への推薦枠は「学科は問わず学部全体で三名まで」のはずだ。美術科とデザイン科と写真科に一名ずつ推薦するのが、福海高うちの慣例になってるはずで――つまり、俺たちは、ライバル?


「チガヤ、美術科……だよ、な?」

「ご、ごめんなさい……」


 チガヤは申し訳なさそうに呟き、完全に俺から顔を背けてしまった。


 気まずいまま美術準備室を出て、無言で歩く。昇降口で通学靴に履き替えても、駐輪場へ自転車を取りに行っても、チガヤは俺についてきた。どうやら約束は有効らしい。このまま流れで押し切ろう、下手に確認したら逃げ出しそうだ。

 校門を出て、いつもの帰り道を並んで歩く。自転車を押す俺の隣には、なんだか緊張気味のチガヤ。中等部からの付き合いの中で、こうして一緒に校門を出たことは何度もあるけど、最寄のバス停まで送ってあげたことしかない。俺の家に連れて帰るのはさすがに初めてだ。

 

「あの、ニシくん」

「ん?」

「行っても……いい、のよね?」

「俺が誘ったんだから、来てくんなきゃ困るッスよ」

「……そうよね、ふふっ」


 やっと、チガヤの顔から緊張が消えた。俺がいつも通りなことに安心したのか、珍しくチガヤが自分の方から喋り始めた。


「あの、私ね、ニシくんは美大を目指すと思ってたの……すごく成績いいし、絵も上手だし……」

「俺も、チガヤは美大目指すと思ってたよ。めちゃめちゃ絵うまいし、成績だって悪くないじゃん?」

「私は……福海から、出たくない……から……」

「俺もそうだよ。家の事情もあるけどさ、あの人口の多さがどーにも住める気しないのよなー。夏冬のコミケだけでお腹いっぱいって感じ」

「それ、すごくわかる……」


 お互いに言い合ったところで、チガヤが急に足を止め、ニシくん、と力強い声で俺の名前を呼んだ。


「わ、私たち、同じ大学に行くの、悪くないと思うのよ……それで、一緒に、漫研に、入っちゃうの……ど、どうかしら……?」


 チガヤの頬は真っ赤だった。ものすごい勇気を振り絞ってることが、たった一目でわかるくらいに。これが「ニシロー」なら軽いノリで返すところだけれど、今の俺は完全に素の「西啓一郎」になっていた。

 憧れの絵を描くひとから誘われれば、俺だって素直に嬉しいんだ。


「いいなそれ! どっちが推薦取っても恨みっこなし、残った方は絶対に一般入試で合格すること! なぁチガヤ、それでいいよな!」


 自分でも驚くほどに、俺の返事は早口だった。いかにもな感じでちょっと恥ずかしい。チガヤは驚いた顔で俺を見つめて、しばらくポカンとしていたけれど、うん、と小さく頷いた。


「よし、約束だぞ?」

「うん……恨みっこなしね。ふふっ」


 くすぐったくなるような約束をして、お互いに笑いあったところで、俺たちは再び歩き出した。ふと車道に目を向けると、いつもチガヤの乗ってるバスが、俺たちをあっさりと追い越していくところだった。

 その時、誰かに「ニシロー」と呼ばれたような気がした。周囲を見回すと、通りを挟んだ向かい側のコンビニに同学年の派手な連中がたまっていて、こっちを指差しながらぎゃあぎゃあとわめいている。


「ニシローがチガヤと二人で帰ってるー!」

「うっわ、やっぱ惚れてんじゃねーのー!」


 とんでもない声量で騒いでるのは、妙に俺を気に入ってる瀬里菜セリナと、いつもチガヤをからかってる透真トウマ。二人の取り巻き連中も含め、どいつもこいつも面倒なやつばかりだ。

 俺たちの間にあるのは路線バスも通る二車線の県道で、横断歩道とは少し距離がある。わざわざ渡っては来ないだろうが、延々と大声で叫ばれるのも困る。俺は逃げることに決めた。即座に自転車へまたがって、チガヤの鞄を強引に前カゴへと放り込む。


「チガヤ、後ろ乗って」

「えっ? でも、二人乗りは禁止で――」

「ちょっとだけだって、あいつらから逃げるだけ!」

「……叱られたら、責任取ってよね?」


 しぶしぶ荷台に座ったチガヤに「掴まってろ」と声をかけ、一気にペダルを踏み込んだ。加速とともに連中の奇声が遠ざかっていって、そしてチガヤは誰よりも近くにいた。俺の腰に腕を回して、背中にべったりくっついて、俺を叱るような言葉を延々と呟いている。


「本当にもう、ニシくんは勢いだけなんだから……」

「悪い悪い、いろいろ面倒でさ。付き合ってんのー、とか始まるんだろーなって」

「逃げたって、明日は顔を合わせるのに、意味あるの……?」


 確かに、明日は朝イチで吊し上げられるだろうな。どう答えてやろうか。そうだよと嘘をついても、正直に違うと言っても、結局は「そういうこと」にされてしまうような気がした。別に誤解されるのは構わない。チガヤは俺の憧れの絵描き、世界で唯一尊敬できる女の子だ――そこまで考えて、ふと気付く。俺はチガヤの日常を守ってやれるかもしれない。

 聞こえよがしに不細工とかデブとか言ってるクソ女、すれ違うたびに胸や尻の大きさでからかってる野郎共、俯いて耐え続けてるチガヤ。その間に割って入って、チガヤを庇い続けてきた俺。そうすることで「俺はあいつらとは違う」と思ってきたけど、ただの自己満足だとわかってもいる。俺が軽いノリでたしなめたところで、チガヤに投げられる醜悪な言葉が消えるわけじゃない。俺の彼女になったって言えば、とりあえずトウマたちは黙る。

 チガヤには、自分に自信を持ってほしい。胸を張って堂々と、あの素晴らしい世界を描き続けてほしいんだ。


「なあチガヤ、俺たちさ、付き合ってるって言っちゃおっか?」

「えっ……な、なんで?」

「そう言っとけば、あいつらチガヤに意地悪しなくなると思ったんだけど、ダメ?」

「そういう目立ち方、したくない……ごめんなさい……」


 普段通りの軽い口調、それでも本気だった俺の提案を、チガヤはあっさりと拒否した。ああ、学内に好きなヤツでもいるのかな――そう思うと、何だか妙にイライラした。

 だって、チガヤと仲良くしてるのって俺だけじゃん?

 それなのに、好きなヤツがいるとかありえなくねぇ?

 俺がずっとやってきたことは何だったんだよ?

 さっきの約束は、チガヤにとって、何だったんだよ?

 苛立ちが膨らみ続けて、背中の温かさが苦しくなって、俺はペダルを踏む足を止めた。気が付けば福海大のそばまで来ていて、もう俺たちと同じ制服は見当たらない。


「チガヤ、降りて」


 意図せず冷たい声が出た。チガヤは素直に荷台から降り、前カゴから自分の鞄を取り出すと、意外にも俺の顔を真正面から見据えてきた。


「……どうして、そんなに怒るのよ?」

「別に怒ってないよ、悪かったなーと思っただけ。誤解されるような事しちゃって、ごめんな」

「えっ……?」

「トウマたちにもちゃんと言っとくからさ、俺とチガヤは何の関係もありませんって。だから何も心配しないでいーよ」

「ま、待って、ニシくん」

「俺みたいなノリだけで生きてるチャラい男、冗談じゃないよな! ごめんチガヤ!」


 そう告げた自分の唇が、自分のものじゃないみたいだった。

 こんなの、チガヤが思い通りにならないことへの苛立ちでしかない。まるで子供みたいな癇癪かんしゃくだ。こんな態度を取ってしまったら、今まで築いてきた信頼も台無しだろうな……いや、そもそも俺たちの間に信頼なんてあったんだろうか。俺が勝手に構い続けて、優越感に浸ってただけというオチはないのか? ひとりぼっちの女子にも気を遣える俺様、みたいな感情はなかったと言い切れるのか?

 思わず唇を噛んだ俺を見て、チガヤは辛そうに目を伏せた。


「ニシくんは、自分の価値がわかってないのね」

「俺の価値?」


 うっかり呟いて、すぐに後悔した。何を言い出すかはだいたい予想できる、おそらく俺が何よりも聞きたくないヤツだ。自転車のハンドルを握る手で耳を塞ぐわけにもいかず、抵抗するように視線を逸らしたけれど、チガヤの言葉は止まらなかった。背が高くて、美形で、明るくって、面白くって、優しくて、頭も良くて、だからみんなの人気者で――その最後に「私なんかとは全然違う」と自虐まで添えられた。

 軽く流すことはできなかった。普段通りに「そんなことないッスよ」とか言ってればいいだけなのに、わかってるのに、そんな言葉じゃ満足できない。打ち消す力があまりにも足りない。今の俺は、軽薄な「ニシロー」のままじゃいられないんだ。


「俺とチガヤは、何も違わないよ」

「違うから……」

「違わないって!」

「違う! ニシくんは、やっぱり何もわかってない!」


 俺たちは足を止めて、大声で主張をぶつけ合った。学校ではヘラヘラしてるだけの俺と、俯いたままやり過ごしてるだけのチガヤが、お互いの感情を剥き出しにしている。

 そんな俺たちのすぐ横を、大学生のグループが歩いて行く。軽そうな女がバカにしたような笑みを浮かべ、金髪の男が指笛を吹いてからかってきた。


「夫婦喧嘩はお家に帰ってやりなー!」

「うるせえ黙ってろクソが!」


 感情任せに叫び返して、俺は自転車にまたがった。こっちは真面目な話をしてるんだ、あんなのに絡まれるのは面倒すぎる。


「話を続ける気があるなら、もう一度、乗って」


 チガヤは返事をしなかったけど、さっきと同じように荷台へ座り、俺の腰にそっと腕を回した。

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