【ニッシー:過去編】ニシローの初恋①

 放課後の美術室は、今日も騒々しい。

 扉を開ける前から女子のバカ騒ぎが聞こえてきて、なんだか愉快な気持ちになる。

 ああ、今日もここに俺の居場所がある。

 俺が俺らしい顔を見せても、ここの連中は何も言わない。


「うぃーっす、お疲れッス」


 声をかけながら扉を開けると、十人ほどの美術部員が一斉にこっちを見て、口々に「ニシロー」と俺のあだ名を呼んだ。西ニシ啓一郎ケイイチロウ、略してニシロー。


「ニシロー遅い!」

「部長のくせに遅刻ー!」

「また女の子に呼び出されてたの?」

「違う違う、日直だって!」


 否定も空しく「うっそだー」の大合唱。代替わりの時に「唯一の男子部員だから」という意味不明な理由で部長を押し付けられた俺は、すっかり女子部員どものオモチャだ。ノリだけでチャラチャラ生きてるお調子者の残念イケメン、だけど部活だけは真面目にやる男。学校という世界の中にいる「ニシロー」は、そういう存在として立ち回っている。なので今日も部長として、ちょっとそれらしいことを言う。


「ところでお前ら、たまには部活動っぽい何かをなさいませんこと?」


 美術室を談話室だと勘違いしてる部員たちは、今日も絵なんて描いてない。ほぼ全員が中央の作業台を囲んでいるが、そこに広げられているのは飲食物と漫画雑誌だ。

 こいつらは、学園祭の展示物しか作品を仕上げない。公募展のたぐいにも一切興味がない。顧問が自分の作品にかまけて準備室に篭り、こちらには滅多に顔を出さないのをいいことに、今日もやりたい放題だ。


「部活動でーす! 漫画は資料でーす!」

「おっ? じゃあいっそ、美術部全員で同人誌作っちゃう?」

「えー、うちらはニシローみたいに上手くないからぁ」

「生まれた時から絵が上手いヤツなんていねーッスよ?」

「まあまあ、部長もおやつ食べません?」

「食べまぁす!」


 後輩に差し出されたチョコビスケットを一つ貰って咥え、そのまま部室の一番奥、いつもの作業机に鞄を置いた。

 美術部には一人だけ、この掛け合いに加わらない部員がいる。同級生の斉藤サイトウチガヤだ。今日もチガヤは窓側の最奥にある作業机に陣取って、こちらに背を向けたまま黙々と絵を描いている。とても好ましい背中だ。

 我らが福海大附属福海高校に「漫画研究部」や「イラストレーション部」はなく、唯一おおっぴらに絵を描ける部活として、チガヤは美術部に入ってきた。普段は同人誌の原稿を描いたり、コスプレ用の小道具を作ったりしている。そんな彼女は女子の割に背が高く、さらに肉付きの良い体型をしているせいで、派手なグループの連中から容姿をからかわれることがあった。そのせいか目立つことを嫌い、常に俯き加減で口数も少ない。

 俺とチガヤは中等部からの付き合いで、ずっと同じクラスにいるけれど、彼女が友達と仲良く談笑する姿なんて一度も見た事がない。学校内で親しいのは俺だけで、ほとんどイジメに近い状況のチガヤを庇うのも俺だけ。俺が彼女を放っておけないのは、唯一の「同志」と呼べる存在だからだ。

 俺も本当は、漫画を描いてる方が好きだ。同人誌を作って即売会に参加したり、さまざまな漫画賞へ応募したりを繰り返している。学歴至上主義の両親は、そんな活動に価値を認めたりはしない。なので「絵を描くこと」を承諾させるため、俺は美術部で油絵を描いている。できることなら、死ぬまで漫画を描いていたい――普段はデタラメに生きてる俺の、人には言えない本気の夢。

 俺にとっても、チガヤにとっても、この放課後の美術室は唯一「本物の自分でいられる場所」だ。もしかしたら、毎日ここでバカ騒ぎをしている部員たちにとっても、同じ意味を持つ場所なのかもしれない。


「チガヤ、何描いてんの?」


 漫画の話で盛り上がる部員たちを無視して、俺はチガヤの隣に椅子ごと移動した。彼女の肩がぴくんと震え、それでも視線は原稿用紙に向けられたままだ。

 チガヤの持つ丸ペンの先には、人気ファンタジー漫画が題材の、美麗な世界が広がっていた。ペンアートと呼びたくなるような緻密な描き込みは、原作漫画の作画にも引けを取らない美しさがある。


「イラストかぁ。同人誌?」

「うん……知り合いの本、だけど……」

「相変わらずすっげーの描くなぁ、マジで憧れちゃうわ」


 軽く言葉を投げたけど、本心だった。俺はチガヤの描く世界に憧れを持っていて、彼女と一緒に創作活動をしたいと思っている。それは部活の枠内じゃなくて、一緒に同人誌を作りたい――二次創作ではなく、オリジナルで。

 俺がいくら誘っても、チガヤは首を縦には振らない。はっきり「嫌」とは言わないものの、決して了承してくれる事もない。理由を問えば「コスプレ衣装を作るので忙しい」なんて言い出すのだから始末が悪い。いっそ「アンタみたいなヘタクソと合同誌なんてゴメンだ」くらい言ってくれれば、こっちも諦められるんだけど……チガヤは絶対に俺を悪く言わないから、どうしようもない。


「そんな大したものじゃ……ないの。ニシくんの漫画の方が、素敵だと、思う……」

「お世辞はいいって。俺とお前のレベル差くらい、一応わかってるつもりだぜ?」

「違うわ……お世辞じゃ、ないのよ? ニシくんの描く世界は、温かくて、優しくて、夢と希望に満ちてるから……」

「わお、褒め殺し?」

「ち、違うってば……っ!」


 俺を相手にしてる時だけ、チガヤは否定の言葉もきちんと口にする。他の連中を相手にしている時は、暗い顔で黙って俯いてしまうのに。気を許してくれているのなら悪い気はしない。しつこく声をかけ続けた甲斐があったというものだ。


「ま、たまには素直に受け取っときますかね。ありがとチガヤ」

「べ……別に、本当のこと、言っただけ……」


 一瞬だけ俺の目を見たチガヤは、すぐに視線を原稿に戻した。彼女のペン先から生まれる魔法は、今日も俺を完璧に魅了していく。


「しっかし、せっかくそれだけ描けるのに、なんでコスプレ優先しちゃうのかなぁ。だいたい衣装なんて、一着作れば半年くらいは着られるんじゃねーの?」

「そうだけど……改良、やめられなくて。憧れてる人がいて……あんなふうに、なって、みたいの……い、衣装だけでも」

「へぇ、有名レイヤー?」

「ううん、福海のイベントに来てる子……同い年なのに、すごく、素敵なの。私みたいな不細工デブとは、ぜんぜん違ってて……」


 チガヤは自分の容姿を下げてから、暗い顔で俯いてしまった。だけど俺は、チガヤを不細工だとは思わない。むしろ顔立ちは凄く綺麗だと思う。問題なのは愛嬌のなさで、それは多分、自信のなさから来てるんだ。

 胸を張れ、チガヤ。俺がずっと「そんなことないよ」って言い続けてやるから。


「チガヤは不細工じゃないって、俺いつも言ってんじゃん。女の子は誰でもヴィーナスなんだぜ? ボッティチェリもカバネルもブグローも、ぜんぜん細身には描いてないけど、すげー綺麗だと思わない?」

「絵画の裸婦と生身は違うでしょ……?」

「いいの。俺はとにかく、チガヤは綺麗だぞって言いたいだけなの」

「も、もう! そんなことばっかり言うんだから……っ!」


 ちょっと「軽薄なニシロー」になるだけで、チガヤはあっさりと赤くなってしまう。可愛いヤツめ。こういうところを他のヤツにも見せればいいと思うんだけど、中々そうもいかないんだろう。

 まぁ、どんな理由があろうと、からかう方がクソだ。俺はそう思ってるのに、何故かあいつらは「ニシロー」へ媚を売ってくる。それがたまらなく不快だった。背が高くて格好いいとか、顔がどこぞの俳優に似てるとか、褒め言葉とすら思えない。言葉を交わしたことさえないような女子に「好き」なんて言われた日には、やり場のない怒りさえも湧いた。まだストレートに「ヤリたい」って言われる方がマシだ……まぁ、言われたらヤッちゃうんだけど。ストレートに求められると弱い。

 そういう猛者は例外として、告白の大半には「マジで冗談じゃない」と思ってる。俺のことは何も知らない、スペックにしか興味がない。今の俺が何を追いかけてるのか、その片鱗すら知ろうともしない。見栄えが良くってノリがいい、友達に自慢できるような彼氏を、自分の隣に置きたいだけ。そうやって、自分の価値を高めた気になりたいだけ。

 他人へ見せびらかすための存在なんかに成り下がった日には、俺の描いてる地味な夢なんて、一つ残らず捨てさせられるに決まってる。その後は趣味も進路も人生も、ありとあらゆる場面で他人に自慢できるスペックを要求されていく――うちの両親が、俺やユズカへそれを望むように。

 だから俺は、女子からの告白を受けるたび、必ず「俺の描いた絵、どこが好き?」と聞くことにしている。せめてそのくらいは答えてくれないと、こっちだって話にならない。ちなみに学内で俺の絵を褒めてくれる女子は、色恋沙汰と全く無関係のチガヤだけで、ほとんどのヤツは見てすらいない。なお、チガヤ以外の美術部員は毎回「ニシローうまいねー」という論外な感想で終わる。最初から期待もしてないけど。

 そもそもみんなが見てるのは、いつもヘラヘラしてる「ニシロー」という軽薄な男であって、部屋に閉じ篭って漫画ばかり描いてる「西啓一郎」という地味な男じゃない。本当の俺を目の当たりにしたら「騙された」くらいのことは言うかもしれないな。

 そんな事を考える俺に気付く気配もないまま、チガヤは俯いて黙りこくったままだ。きっと今頃はさっきの自虐を後悔してて、ずっと自分を責めているのに違いない。


「なぁチガヤ、自分を下げちまうのは勿体無いぜ? そんなにすげーの描けるのにさ」

「……ごめんなさい。ネガティブな言葉なんて、聞きたくないわよね」

「まあね、でも急には変われないよな。気長にいこうぜ、俺で練習すりゃいいだけだって」

「ニシくん……いつも、ありがとう……」


 再び頬を赤くしたチガヤが、か細い声でお礼を言った。そして彼女は急に、じっと俺を見つめてきた。

 その目が綺麗で、視線があまりにまっすぐで、さすがに照れる。普段の俺なら適当に混ぜっ返すところだけど、チガヤが相手だと反応に迷う。


「あの、何か、お礼したい……できること、ある……?」


 よりによってチガヤに、真っ赤な顔でそんな事を言われてしまったら、デタラメな返事じゃ流せない。冗談が通じるタイプじゃないんだ。だけど「いらないよ」とも言えなかった。それはそれで、何だか突き放しているみたいで。

 俺の立場から見れば、お礼を言われるようなことなんかしてない。それでも俺は、チガヤの勇気をなかったことにはしたくない。こんな言葉を発するだけでも、チガヤは精一杯に違いないから……その気持ちを、しっかりと受け取ってあげたかった。


「何でもいいの?」

「うん……わ、私でできることだったら……」

「やった、じゃあ遠慮なく。本当に何でもいいんだよな?」


 念を押した俺に、チガヤが頬を染めたまま頷く。聞き耳を立てていたらしい他の部員どもが「ニシローがエロい」だの「部長やらしい」だの小声で言い合ってるのが聞こえてきて、チガヤは完全に下を向いた。


「ほらー、ニシローがエロいからチガヤ困ってるじゃーん!」

「部長ー、いつもそーやって女の子食いまくってるってホントですかー?」

「食ってねえって! むしろ食われてる方なの俺は!」

「食われてんの!?」


 きゃはははは、と甲高い声がいくつも響く。部室中が爆笑の渦だけど、チガヤだけは固まったままだ。

 ああ、いまから口にする「お願い事」を聞かれたら、二人揃って卒業までオモチャ扱い確定だろうな――絶対聞かれてなるものかと、俺はチガヤの耳元へ顔を寄せた。それ自体が燃料だと気付いたのは、背後から部員どもの奇声が飛び、チガヤの唇から「きゃっ」と可愛い声が漏れた瞬間だ。もはや手遅れ。


「なっ、何……!?」

「ごめん。今日このあと暇か、って聞こうとして……俺んちで、原稿手伝ってくれない?」

「えっ? ニシくんの……?」

「お前さ、ずっとイラストばっかで漫画描いてないだろ? あんまりサボってると、そのうち描けなくなっちまうぜ! 絶対もったいねーからな、世界の損失なんだからな!」


 照れ隠しに説教をかましてしまった俺へ、困惑の視線を向けたチガヤは、すぐにクスクスと笑い出した。


 「もう……仕方、ないわね……!」


 あのチガヤが、俺に向かって微笑んだ。

 卑屈さの欠片も見当たらない、すごく可愛い笑顔だった。

 そんなチガヤを見たのは、長年の付き合いの中で初めてだった。

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