第1章 マトリカリア・グレイビアード

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 巨大な鳥がプロックトンの前に現れてから、十五年の月日が流れた。


 あの風変わりな木造の家は、同じように風変わりなまま町外れに建っていた。そしてあの時の赤子も、まだこの家にいた。


 十五歳になったばかりのマトリカリア・グレイビアードは、すみれ色の目をした少女だ。みんなにはマトリと呼ばれている。


 白い皮膚にほっそりした体つき、たっぷりした豊かな黒髪は三つ編みにして後ろに垂らしている。


 マトリは自分の顔の中でも、すみれ色のひとみはなかなか気に入っていた。マトリはこの町から出たことがなかったが、カイコウラ町にすみれ色の瞳を持った人が一人もいないことだけははっきりしていた。


 風変わりな道場に住み、さらに風変わりな住人の養女で、しかもこの珍しい色の瞳なだけに、いじめられたことも多々あった。それでもマトリはこの瞳が気に入っていた。黒髪と白い皮膚に生える色だと、自分では思っていた。


 しかし、おしむらくは鼻の形だった。マトリの鼻は小さくて低かった。鼻筋のシュッと通った、彫刻像のような顔立ちの人を見るたびに、マトリは残念な気持ちになった。


 しかしマトリは、鼻の形に関してはずいぶん前に気持ちの整理をつけていた。少なくとも自分の鼻は、いつも服やら帽子やらの自慢話ばかりしてくるグレイシーと違い顔の真ん中についている。それだけがなぐさめだった。


 マトリは裏庭の菜園で、キウイバードという鳥に餌をやっている最中だ。


 ラグビーボールよりひと回り小さいくらいの、モフモフっとした茶色のかたまりが夢中で野イチゴをついばんでいる。マトリはキウイバードの丸い背中を、愛しく思いながら眺めた。


 マトリの動物への愛情は、兄のヒックスに言わせれば「病的なレベル」らしかった。幼い頃、友達が少なかったマトリは多くの時間を森で過ごした。そしてマトリも不思議だったのだが、動物たちのほうもマトリのことを好いているらしかった。


 マトリはカラフルな鳥を肩に乗せて森を散歩したり、ゆっくり歩く大トカゲをしげしげと眺めたりして過ごした。


 蝶々ちょうちょの卵らしきものを採取して来て、道場で孵化ふかさせたこともある。さなぎから鮮やかな青色の蝶が現れ、道場中がブルーになった。さなぎから現れた蝶がしわしわの羽を広げ、ゆっくり色づいていく様は神秘的だった。


 カエルの卵をバケツいっぱい採取し、井戸の近くにあるたらいで飼育した時は失敗だった。誤って洗濯の時に使う石けんをたらいに落としてしまい、おたまじゃくしが全て死んでしまったのである。


 中にはすでにカエルの後ろ足が生えかけているものもいた。マトリはおたまじゃくしのために一晩中泣き続けた。ヒックスがなぐさめたが、どうもおたまじゃくしが全滅したことを喜んでいるように見えてならなかった。


 プロックトンはいつでもホッホッホと笑って見ており、マトリがどんな動物を持ち込んでも叱りつけたことは一度もなかった。


「はい、今日はもう終わり! たくさん食べたでしょう」


 マトリは野イチゴの入ったかごを頭の上にかかげた。キウイバードは、茶色の羽を膨らませると、もっともっとと言うようにマトリの足元で何度もジャンプした。キウイバードは飛べないのだ。


「メーティったら。食べるか寝るかのどっちかしかすることがないの?」


 メーティはキュキュっと鳴いてつぶらな瞳でマトリを見上げると、白くて長いくちばしを前に突き出して激しくおねだりをしてきた。


「もう! じゃあ今日はあとこれだけね、さっきの畑仕事で取れたやつ」


 マトリは近くに置いてあった空のスープ缶を逆さにした。ぼたぼたと地面に落ちた数匹のミミズを、メーティは大喜びで捕まえにかかる。


 マトリはメーティがミミズを食べるのをしばらく眺めた。メーティがこの家に来てからだいぶ経つ。森で傷ついて動けなくなっていたメーティを、マトリはここへ連れてきて看病した。怪我が治ってからも、このキウイバードはこの道場を離れなかった。それ以来、マトリとメーティは大の仲良しである。



 道場に入ると、二人の男が何かの特訓をしている最中だった。


「お父さん、帰ってたんだ」


 マトリは嬉しくてつい顔をほころばせた。二人のうち一人はマトリの養父、プロックトンだ。相変わらず長い白髪を後ろで束ね、ふさふさしたひげを蓄え、眉毛も真っ白で、背は低い。


 道場の床には、二つのレンガが間をあけて並べてあり、その上に十枚ほどの瓦がバランスよく積んである。


「くっ……。師匠、申し訳ありません。瓦すら割ることができない……修行が足りないばっかりに……」


 ふわふわっとした金髪の青年が、両腕を床について落ち込んでいた。白い道着を着たプロックトンが声をかける。


「言うなラフィキ、お前が修行に励んでいることは知っているぞ! さあ、もう一度挑戦せい!」


 プロックトンの唯一の弟子、ラフィキ・ジャンティは立ち上がると、深呼吸した。背が高く深緑色の目をしたラフィキは、なかなかの好青年だ。


 ただし、普段は町の北側にある「白狼山はくろうさん」という狼が住む山でハンター業をしているため、町でラフィキを見かけることはなかった。


 マトリは邪魔しないよう、そろりそろりと道場の隅に移動した。しかし、そこには先客がいた。


 杖をついた小柄な老女が、道場の隅の丸椅子に座って修行の様子を眺めていた。灰色の髪はナスのヘタのようにまとめられてちょこんと頭に乗っかっており、顔の皮膚はたるんでいたが、切れ長の目だけは鋭く光っている。


「スカビオサさん! 今日も来たんですか。今日はどういったご用件です?」


 マトリが尋ねた。そしてさりげなくスカビオサから距離をとった。


「教会への寄附金集めぞえ。ありがたいお説教をしてくれる牧師さんに少しでも敬意を払う気持ちがあるのなら、ここに1ドルだけでも入れなさい。お宅だけぞえ、今までに1セントも寄付してないのは。さあ」


 そう言ってスカビオサは寄付集め用の空のトマト缶を振り回した。


「あ! ラフィキがまた瓦を割るみたいですよ、ほら!」 


 マトリは急いで話題を逸らす。スカビオサはニヤニヤと意地の悪そうな顔でラフィキを見た。


「おい、金髪のノッポ、本当に瓦が割れるんかえ?」


 まさに瓦を割ろうとしていたラフィキは、スカビオサの声で顔にさっと赤みがさした。瓦を叩き割るはずの拳は、瓦の上でボクっと嫌な音を立てた。


「…………っ!!」


 ラフィキは瓦を一枚も割れずに倒れ込んだ。スカビオサはゲラゲラと下品な笑い声を上げて喜んでいる。


「スカビオサさん! どうしてそんな意地悪をするんですか!」


 マトリが叫んだ。


「ラフィキはあがり症だから声をかけないで下さいって言ったじゃないですか! 本当はすっごく強いのに、足も早くて、誰も負けたりしないのに!」


 マトリはもどかしさのあまり手をみ絞った。スカビオサはフンと鼻を鳴らして立ち上がる。


「そうだとしても、誰かの視線を感じたら力が出せないんじゃ、役立たずと同じじゃないかえ。プレッシャーに打ち勝つための修行とは……フン! 私の息子のほうが、よっほど強くて頼り甲斐があるぞえ。


 ああ、今日は寄付を集めるのは無理そうだえ。こんなむさ苦しいところじゃ、ひとときも気が休まるまい。うちのほうがどれだけ居心地がいいか知れない。早く帰って、シチューのパイでお昼にしたいね」


 スカビオサはナスのヘタのような頭をふりふり、土間の引き戸を通って出て行った。



* * *



「ラフィキ、大丈夫よ! 絶対にみんなが見てる前でも力が出せるようになるわ。スカビオサさんみたいな人に……じゃなくて、誰になんと言われても気にする必要なんかないわ!」


 マトリはラフィキを励ましながら瓦を片付けるのを手伝った。


「ああ……大丈夫だ。いずれ必ず……」


 ラフィキは無表情のままモップで道場の床を磨いた。落ち込んでいるのか判断しかねる表情だ。ラフィキは落ち込んでいる時も楽しんでいる時も、無表情か、ちょっと眠そうな表情をしているかのどちらかだった。


「マトリよ、留守中何事もなかったか! 首尾は上々か!?」


 プロックトンは飛び跳ねるようにマトリの元へやって来た。


「うん、お父さん、お帰りなさい! 修行はどうだった? お父さんがいない間にね、菜園で育ててたそら豆が収穫できるようになったのよ! そら豆って本当に空に向かって生えてくるのね、私びっくりしたの。それから、お父さんに言われてた本も全部読み終わったわ。早いでしょ?」


「さようか! さすがわしの娘じゃ!」


 マトリは得意になって胸を張った。マトリが自ら行動を起こすのは、全てプロックトンに褒められるためと言っても過言ではなかった。


「有意義な修行であったぞ。己の中に残る雑念を一網打尽いちもうだじんにしてきたわ。今のわしは力がみなぎっておる! それはさておきな……」


 プロックトンが急にひそひそ声になったので、マトリは声を拾うため腰をかがめた。今ではマトリの方が、プロックトンより十センチも背が高くなっていた。


「修行中、チュロスフォード市の昔の仲間から聞いたのじゃがな……」


「え? お父さん、ずっと森で修行してたんじゃなかったの?」


 プロックトンは森にこもって修行をすると言って、たびたび道場を離れることがあった。


「も、森で修行した後、チュロスフォード市に寄ったのだ。チュロスフォード市で一番大きいスミス家の館でな、女中を数人募集しとるそうだ。スミス家はゼーランド国でも有数の貿易商じゃぞ。マトリ、興味はあるか?」


「お父さんそれって……私、この家出るってこと?」


「もし決めればの話じゃ」


プロックトンが急いで言った。

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