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「マトリ、お前ももう十五歳じゃ。この道場で、家のことを助けてくれるのは本当にありがたいことじゃ。じゃがな、この家だともう覚えられることはほとんどない。新しい人との出会いもないじゃろ。もっと広い世界を見てみたいと思わぬか、マトリよ」


 突然の話にマトリはたじろいた。慣れ親しんだこの家を離れることを、マトリは考えたことがなかった。


「お父さん……ちょっとだけ考えて、それから返事するのでもいい?」


「何かやりたいことでもあるのか、マトリよ?」


「それは……」


 プロックトンが薄い灰色の目でこちらを見上げている。マトリはつい目をそらしてしまった。


「マトリよ、決めるのはそなたじゃ。もちろん、この道場にいてもかまわぬぞ。じゃがスミス家に行ったほうが、間違いなく多くの人脈を得ることになる。その人脈は、そなたの可能性を広げるものじゃ。覚えておくのじゃ」


「うん、お父さん……」


 外の世界に興味がないわけではない。しかしどうも実感がかなかった。小さい頃から森を走り回り、草木や鳥たちと共に育ったマトリにとって、一日中大きなお屋敷の中で働くのは全く想像できないことだった。


 しかし、だからと言ってやりたいことがあるわけでもない。初等学校しか卒業していないマトリには、大貿易商のスミス家の女中はとても良い仕事だ。


 しかし、マトリはこの道場での生活がとても気に入っていた。養父であるプロックトンが大好きだった。しかしチュロスフォード市は遠いので、この道場に帰ってこれるのはせいぜい数ヶ月に一度だろう。


「働きに出たからと言って、この場所が無くなるわけではないのじゃぞ」


 そんなマトリの気持ちを知ってか知らずか、プロックトンはマトリの背中をポンと叩いた。


 その時、玄関の引き戸がガラガラと開いて、サスペンダー姿の青年が入って来た。


「あー疲れた、今帰ったよー。うわ、じじい! 帰ってたのかよ!」


 サスペンダーに少し短めのズボンがトレードマークのヒックス・ウォーカーは、この道場でマトリと一緒に育った二歳年上の義兄だ。金茶色の髪があらゆる方向にツンツンと飛び出している。背はマトリより少し高いくらいだ。


 ヒックスは鳶色とびいろの目でプロックトンを見ると、そろりそろりと動いて寝室へ続く二階への階段へ足をかけた。


「えー……、じゃあ俺疲れてるし、またな、じじい。後で話聞いてやるから……」


 プロックトンがふるふると震えだした。


「ぬぬぬぬぬぬ……ヒックス! たるんでおる! わしに会ったが最後、修行から逃れられると思うでないぞ! その小根をたたき直してくれる! 今から組み手じゃ!!」


「えー! やだよぉ、腹も減ってるのに」


「何を言う! ふぬけたものだな、ヒックスよ! 空腹時こそ人間の本来の力が出るのだ!」


 ラフィキがヒックスをしっかり捕まえて、プロックトンの前まで引きずっていく。


「師匠、ご一緒させて下さい」


「ラフィキ! おやじの味方かよ! 俺は知性派なの! 修行とかいらないから!」

 

 マトリが昼食の準備をする間、磨き立ての道場の上でヒックスが投げ飛ばされる音が何度も聞こえてきた。



* * *



「ヒックス、マトリ、ラフィキ、どんどん食べるがよい! 食事は体づくりの基本! 良い食事をとることは、良い体を作る基本じゃ」


 プロックトンはそう言うと、でたジャガイモを猛烈な勢いで口に押し込んだ。


 裏口に通じる小さな台所に四人は集まっていた。丸太を横に切っただけのテーブルに昼食が並べてある。まきストーブの上ではお湯が沸いたやかんがシュンシュン音を立てている。


「うん! お父さん、このジャガイモおいしいね」


 マトリは熱々のじゃがいもにバターをたっぷりつけた。


「何が良い体づくりだよ! ジャガイモしかないじゃんか。おれ、いい加減に肉が食べたいなあ」


 昼食は茹でたジャガイモにバターと、マトリが庭で摘んだイチゴのみという質素なものだった。


「夕方にザ・フィッシュに行ってみるね、ヒックス。もしかしたら魚が安く手に入るかも。それにラフィキが持ってきた鹿肉があるわ」


 マトリはそう言って、摘みたての瑞々しいイチゴをかじった。甘い果汁が口いっぱいに広がる。


「ラフィキ、遠慮するでないぞ。ジャガイモならいくらでもある」


「遠慮なんかするかよ! ラフィキが手に入れた種イモをマトリが育てて収穫したやつじゃんか」


 ヒックスが口をとがらせてそう言った。ラフィキは無言で黙々とジャガイモをほおばっている。


 みんながまだジャガイモを食べている最中に、玄関を激しく叩く音が聞こえてきた。尋常な叩き方じゃない。扉が壊れてしまいそうだ。


「お父さん、私が出るね」


 マトリは台所を出て、引き戸をガラガラと開いた。


 そこには痩せた猫背の男が立っていた。油っぽい黒髪はきっちり真ん中で分けてあり、あごに生えたヤギひげもどことなく油っぽい。服は黒ずくめで、貧弱なコウモリを思わせるような男だ。


「ジャドソンさん……」


 ジャドソンはあいさつもせずに土間へ入ってきた。


 アーロン・ジャドソンと出会ったのはつい最近だが、今ではマトリが最も会いたくない人物の一人である。今日こそ負けるものかと、マトリは臨戦態勢に入った。


「相変わらずしょぼくれた道場ですねぇ。今お弟子さんは何人いるんですかね」


 ジャドソンはせせら笑って道場を見回した。


「グレイビアードは戻っているんでしょう? 今日こそ話をつける必要がありますからねぇ」


 ジャドソンは土足のまま道場に入ろうとしたが、マトリが両手を広げてジャドソンの前に立ちはだかった。


「お父さんは、あの件に関してははっきり断ったはずです! それに、うちは土足厳禁ですよ!」


 マトリは可能な限り怖い表情でジャドソンをにらみつけたつもりだったが、ジャドソンは余裕だ。ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべ、ヤギ髭を手でねじり始めた。


「全く時間を無駄にしてくれますねぇ。お前みたいな小娘を相手にしている時間は、このジャドソン様には無いのですよ」


 ジャドソンは頰骨の出っ張った顔を思い切りマトリに近づけた。マトリはのけぞったが、その場からは動かなかった。


「どくんだ、小娘。ジャドソン様に逆らうとどんな痛い目に合うか、一度経験しないと分からないようですねぇ。もっとも、もう厄介ごとに片足を突っ込んでいる状態ですがね。今はまだわからないだろうが……」


 厄介ごと? マトリは胃がザワっとした。


「それってどういう……」


「ジャドソン、わしはここにおるぞ!」


 後ろからプロックトンの声がした。振り向くと、廊下を全速力でかけてくる最中だ。ヒックスとラフィキもこちらにやって来る。


 土間は廊下よりかなり低い位置にあった。プロックトンはプールの飛び込み台からジャンプするような勢いで、廊下からジャドソンに向かって飛び上がった。


 マトリはさっと避けた。ジャドソンの一歩手前に着地したかったようだが調整できず、そのまま棒立ちのジャドソンに激突した。


「ぎゃあ!」


 見るからに軽そうなジャドソンは、吹っ飛んで玄関の分厚い木の引き戸に激突した。ヒックスはゲラゲラ笑っている。


「クソ……。相変わらず理解に苦しむ男ですね、グレイビアード」


 ジャドソンは咳払いをして立ち上がり、服のシワを伸ばした。

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