2000年3月13日

 テーブルに小さな置手紙が残されていた。隅には、鼻提灯をふくらませた俺らしき似顔絵が描かれていた。


<おはよう!一応声掛けたんだけど気持ちよさそうに寝ていたからそっとしておくね>


 ハートマークで締めくくられた置き手紙の下には、フロントに積まれていたシドニーの観光案内地図がはさまれていた。<プレイフェアストリートにはオシャレなカフェが並んでいるから>と、こちらがコーヒーをあまり好まないことも知らず、余計なミニ情報まで書き込んであった。


<夕方4時にはタイムカード押せるから、それまでには部屋に戻ってきてね!>


 こうしてシドニーでの生活が始まった。

 サキの地図によれば、シドニーのアイコンであるオペラハウスまでここからわずか400m。シドニー湾を望むサーキュラーキー駅から徒歩数分という立地を売りにしている。周辺にはフォーシーズンズやシャングリラ、パークハイアットといった高級ホテルが並んでおり、通り沿いはハーバーブリッジやオペラハウスの眺望を自慢するレストランなどが軒を連ねている。

 従業員用にあてがわれたこの部屋からは、さすがにシドニーのハーバービューとはいかない。窓からは裏通りの交差点を見下ろすことができた。マクアリープレイスパークという緑を囲む一角やそれを囲むようにして立ち並ぶ高層ビルが圧倒している。

 昨晩部屋につくと、サキは灰皿代わりにしている空き缶を持ってこの窓辺に来た。”いい眺めでしょ?”とも言わず、彼女は向かいの高層ビルの点滅をじっと見つめていた。


「…部屋を狭くしてすまない」


 何か言わなければという焦りではなく、事実そう思った。シングルルームにしては十分な広さだが、追加で俺用のベッドが運び込まれたせいでサキが集めていたファブリックパネルや小さなオリーブの木は隅へと追いやられてしまった。


「なんもなんも~」


 タバコをもみ消すと、サキはあくびを噛み殺しながら化粧を落とし始めた。

 「なんもなんも」は彼女の口癖で、故郷札幌では「どういたしまして」とか「気にしないで」という意味で気軽に使うらしい。

 乙女座のくせに大雑把。歯を磨きにバスルームに入ると、鈴なりに干してあるブラジャーやパンティーが鏡越しに見えた。


「目のやり場に困るなぁ…」


 控えめに抗議したつもりだったが、「変なことしたら追い出すからねー」という警告が返ってきた。アートを飾ったり、緑を置いたりするセンスはあるくせに、それ以外は「なんもなんも」らしい。



 街に出てみた。ホテル正面のピット通りは、そのままオフィスビルが建ち並ぶシティエリアへと続いている。ブランドショップには目もくれず、途中で左折してハイドパークという国立公園の中に入っていった。


「――というわけで、今日はそこのニューサウスウェールズ州立美術館に行ってきた」


 アボリジニアート・コレクションではオーストラリア最大級を謳うだけあって、充分な時間をとって正解だった。ところが夕方部屋でその報告を聞いたサキは笑い転げた。


「リュウが美術館!?似合わないっしょ!」


 ドアノブにブラジャーをひっかけて干しているヤツに言われたくないぞ、とだらしなく伸びた黒い下着を指さした。


「ハイハイ。でも美術館めぐりしたから図工の成績も1から2ぐらいにはなるんじゃない?すこしはアボリジニに感謝しないとね」


 サキは笑いすぎた顔を手のひらで扇いだ。


「黙って聞いてりゃぬかしやがって!じゃあそこの包みも窓から放り投げるぞ!」


 ベッドの上に足を投げ出していたサキは、ようやく『HELEN KAMINSKI』と印刷された大きな紙袋がベッドの脇に置いてあるのに気付いた。

 HELEN KAMINSKIは、ラフィア椰子の葉で編んだ帽子やバッグで有名なオーストラリア生まれのブランドである。創設者のヘレン・マリー・カミンスキーは、オーストラリアの強烈な日差しから子供たちを守るため、ラフィアハットを編んだ帽子を作り、余りを農場の沿道で売り始めた。それがセレブご愛読のVOGUE編集者の目に留まり、瞬く間に世界中に知られるようになった。

 しばらく部屋を狭くしてしまうお詫びにとシドニー店の場所を調べておいた。今日そこで淵が黒いラフィアハットを包んでもらった。夏が終わってもしばらく使ってもらえそうだし、何よりエスニック柄を好むサキによく似合うと思った。


「…アタシに?」


 サキは自分の鼻を指さした。


「いらなきゃ捨てていいぞ」


 どうして俺たちはいつもこうなってしまうのか。つい慣れ合いで余計な一言が出てしまう。

 サキはその大きな紙袋から、滑らかな布に包まれたラフィアハットを手に取り「やわらかい」とひとりで頷いている。当たり前だ。その辺のスーパーで売っている数ドルの麦わら帽子と一緒にされてたまるか。ちょこんとそれを頭に載せると、「似合うかな?」とサキはつばの下ではにかんだ。


「性格がめちゃくちゃ悪そうな女優みたいだな」


 素直に「似合ってるよ」という代わりに、つい皮肉が出てしまう。サキはフンと鼻を鳴らすとバスルームに消えていった。すぐに中から「着替えたらでかけるからねー」と明るい声がした。俺はバスルームから聞こえてくる鼻歌を聞きながら、窓辺に置いた空き缶灰皿を引き寄せた。

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