2000年3月12日

 アラベスク柄のサマーワンピースが柱の陰に隠れるのが見えた。

 大柄な黒人の背中に隠れてバスを降りると、スッとバスの裏側に移動し、あっという間に彼女の背後まで来た。アラベスク柄のサマーワンピースはこちらに気付かず、相変わらず柱の影から首を伸ばしている。


――まったく不用心なヤツだ。


 いきなり手首を掴まれたサキはギャッと悲鳴を上げた。


「スイスでのお礼にケツでも蹴飛ばしてやろうかと思ったが、一応レディーにそれは失礼かなと思って」


 サキは俺の胸に拳を叩き付けた。一応って何よと声を荒らげたが、そこに刺はない。


「元気そうじゃないか」

「元気そうで悪かったわね!」


 俺とサキはいつもこんな調子だ。

 東京にいた頃のショートボブは今は彼女のうなじを覆っていた。肩から提げているエスニック風のポーチは、就職祝いに俺がプレゼントしたものだ。それに合わせてアラベスク柄を選んだようだが、全体的にうるさい感じになっている。

 ビルの谷間からシドニータワーアイの淡い光が見え隠れしている。


「柱に隠れて俺を驚かすつもりだったみたいだが、アンタが一番目立ってたぞ」

「わざわざ迎えに来てあげたのにまずはソコ?」


 結局ケツを蹴飛ばされたのは俺のほうだった。サキはいたずらっぽく笑うとアカンベェをした。ベイエリアに向かうトラム駅を目指しながら、突然立ち止まるとサキにカメラを向けた。急にレンズを向けられたサキはふたたび文句を言ったが、諦めて笑顔になると頭のてっぺんに指先をあて、シドニータワーアイを背景におサルさんのような格好をした。

 シドニーとサキ。オーストラリア最終章の全てがファインダーの中に納まっていた。


 シドニーといえどもオーストラリアの夜は早い。あちこちの店でもう閉店と断られ、ようやく小さなスタンドバーに落ち着いたのは夜10時過ぎだった。


「アムスからちょうど一年ぐらいだね」

「そうだったな。それにしてもあの頃は勇ましい格好をしていたな」


 サキが頼んだケールのサラダを取り分けながら再びからかう。

 黒のライダーズジャケットに大きなゴーグル――。これからルーブル美術館だというのに「まるでルパン三世の仲間じゃないか」と笑う首を絞められて1年になる。


「――ヨーロッパなんて何だかすごく昔みたいな気がするなぁ」


 サキはハンバーガーからピクルスを抜き出すと皿の上にそれを捨てた。そしてテーブルに肘を乗せると彼女は大きな口を開けてハンバーガーにかぶりついた。

 サキが札幌を離れて早稲田のアパートを借りたのは、ヨーロッパから帰国して2か月後のことだった。東京に出てきたサキは、朝は配送センター、夜は目白にあるイタリアンレストランに立つ生活を始めた。ヨーロッパでの旅行など思い出している暇もなかった。


「自分でいうのもなんだけどアタシよく頑張ったなぁ」


 サキは肩をすくめて細いメンソールに火をつけた。

 お互い忙しかったが時間が合えばよく会った。サキが一人でしゃべり、俺が黙って聞く。からかい合い、励まし合う。それだけの関係だったが、一度だけ泥酔したサキにひどく絡まれたことがあった。

 都会に出てきて半年、アルバイトを掛け持ちながらの就職活動は思うように進んでいなかった。その日新宿のタイ料理屋でハイボールから始めたサキは、就職活動や都会への愚痴を一方的に俺に聞かせた。2時間ぐらいそれに付き合ったが、「今日は早めに切り上げようや」と俺は店員に手を上げた。ところがサキはそれを制するように手の平をテーブルに叩きつけた。


「どうしてそうやってアタシを避けるの?パリからずっと好きだったんだよ?リュウはバカなの?リュウのことが好きだからわざわざ東京に来たのにどうしてアタシじゃダメなの!?」


 他のテーブルから好奇な視線が飛んできたが、俺が横を向いたままそっけなく切り返した。


「あのなぁ、酔っ払いにバカと言われようと好きと言われようと俺は全然気にしねぇからな」


 するとサキは店中の時間が止まる大声で「リュウのバーカ!」と叫び、そのまま店を飛び出していった。

 数日経って<この前は酔いすぎてよく覚えていない>というメールが送られてきた。俺はそれに乗る形であの夜のことは何もなかったことにした――。



 サキが働くサーキュラーキー・エリアの夜景は眩かった。シドニーのシンボル・オペラハウスがライトアップを浴び、そのすぐそばをクルーザーが白い波線を描きながら泳いでいた。


「そうそう。貸しベッドのことなんだけど急に空きがなくなっちゃったんだって。だから今日からアタシとベッドを半分ずつでシェアすることになったから」


 ホテルに向かう途中、サキはこともなげにそういった。思わず目を見開いて足を止めると、サキは吹き出しがら俺の背中を叩いた。


「リュウってホント冗談通じないよね!顔面蒼白じゃん。やっぱりチェリーボーイ説は本当だったんだね!」


 東京であれだけ近くにいながらサキと発展しなかったのは、こうした彼女のデリカシーのなさを面倒くさいと思っていたからだ。


「じゃあ童貞捧げてやってもいいぞ」

「じゃあ、って何よ」


 ふたたびゲンコが胸に飛んでくる。ヒラリと交わすと、スキップをしながら逃げた。シドニーのビルの間をふたりのふざけた笑い声が転がっていった。

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