2000年3月15日

 こうなったのは俺のせいじゃない、全部サキのせいだ。だが今そこを突くのはやめておこう。


「下なんか見ちゃダメだ。俺の目だけ見ろ。今は俺だけを見てくれ!」

「助けて…」


 シドニータワーアイ地上250メートルを吹きすさぶ風に、彼女の震える声はかき消された――。



 きっかけは昨日散歩にでかけたときのことだった。

 サキはジェラートを舐めていた手を突然とめると、「そうそう、あれに一度登ってみたかったの!」と黄昏に鈍く光るシドニーハーバーブリッジを指さした。

 ブリッジ・クライムというツアーがあるらしい。ノースエリアとシティを結ぶ全長1.1キロのアーチ状の鉄骨を徒歩で登る。3時間半かけて頂上134メートルまで登ると、はるか眼下にノース&ウェスタンラインの黄色い車体や緑色のシドニー湾が臨めるらしい。ところが聞いている途中で笑いをこらえられなくなった。


「エッフェル塔で生まれたての子牛みたいに膝をガクガクさせてたのは誰だ?」


 サキは「いつの話しを持ち出してんの?」と眉を吊り上げたが、たった1年前の話である。その後部屋で『地球の歩き方』をめくっていた俺は思わず手を叩いた。


「そんなに高いところがお好きならこういうツアーもあるぞ」


 シドニータワーアイ地上250メートル部にある展望台からタワーの外に出て街を見渡す「スカイウォークツアー」が紹介されていた。


「…ま、いずれにしてもサキには無理な話だな」


 俺はあくびをするとそのページを閉じて立ち上がった。ところが「エッフェル塔よりも20メートルも低いじゃん」と彼女は事もなげに言った。


「やめておけ。けしかけた俺も悪いが、乗ってくるアンタも悪い」


 手を振ってこの話を終わらせようとしたが、サキはベッドの上で飛び跳ねると「明日そこに行くよ!」と声を弾ませた。



「――いいか。もう一度いうが今なら引き返せるぞ?」


 彼女の勤務が終わるのを待って、訳も分からずシドニータワーアイの受付に来てしまった。ところが俺の深刻な言葉を聞き流すと、サキは係員が持ってきたいかつい青いつなぎにせっせと着替えはじめた。ところがツアー開始前のアルコールチェックで軽い事件が起きた。俺だけがチェックに引っかかったのである。


「リュウ、怖くて部屋で飲んでたの!?」


 サキは膝から崩れ落ちて爆笑した。すぐにマウスウォッシュのアルコール分であることが証明されたが、彼女は「怖くてマウスウォッシュ飲んでテンション上げてたのね!」と訳の分からないことを言いながら俺をバシバシ叩いた。


「(この階段の先がスカイ・ウォークデッキです。安全ベルトをもう一度確認してください)」


 ガイドはやや上ずった声で一番うしろまで聞こえるように声を張った。つなぎの腰部分から伸びた頑丈なチェーンが左手側のレールにしっかりと繋がっている。


「これで落ちる心配はなさそうだな」


 ところがさっきまで笑い転げていたサキの表情は固いものになっていた。


「…やめてよ落ちるとか。縁起でもない」



 陽が傾き始めたシドニー湾はオレンジ色にさざめいていた。さわやかな風が吹く方向には、昨日見たハーバーブリッジが海面に大きな影を落としていた。


「あの白い高い建物がサキのホテルじゃない?」


 返事はない。サキはあざになるほど俺の腕にしがみついており、顔を埋めて小刻みに震えていた。

 カメラはもちろん、手から離れるものはたとえティッシュ1枚であっても持ち込みは認められない。他の観光客は、記念撮影用に設置されたカメラに微笑んだり、ガラス張りゾーンの上で飛び跳ねたりしていたが、俺は腕にしがみついたもう一人を引きずりながらゆっくりと進んだ。どう見ても高いところを嫌がる恋人を無理やり連れてきたワンマン彼氏である。真実は逆であり、そうした冷ややかな視線に怒鳴り散らしたいのをどうにか我慢した。

 サキは何度もえずきながら頑張ってきたが、とうとう声を上げて泣き出した。ガイドが赤ん坊をあやすような声で慰めたが、サキはいよいよ情けない叫び声をあげて泣き崩れた。俺はサキを抱き寄せてやさしく背中をさすった。これほどサキに近づいたのは、パリでキスをされた時以来だった。


「…大丈夫。今は俺だけを見てくれ」


 サキはぐちゃぐちゃになりながら、まっすぐ黒い瞳を俺に向け、無理やり口角をあげた。このとき初めてサキを愛おしいと思った――。



 部屋に帰っきたサキは、再びベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねた。


「おい、ベッドの上で跳ねるな!ホテルマンがお客様から注意されるようなことじゃないだろう!」


 サキはアカンベェをしてはしゃぎ続けた。


「…そういえば記念にもらってきた写真があったな」


 サキは急に飛び跳ねるのをやめた。封筒から六切サイズに引き伸ばされた写真を取り出すと、彼女は慌ててベッドを降りて駆けてきた。


「なんだコレ?すさまじいな」


 涙と鼻水でぬれた頬に乱れた前髪を張り付けて、口だけ笑っているサキが写っている。サキは写真をひったくると薄ら笑いを浮かべた俺を睨みつけた。


「――なぁ、今まで我慢してたんだが、」

「何よ?」

「…一回だけ思いっきり笑わせてくれ」


 俺は彼女が飛び跳ねていたベッドに突っ伏すと、手足をバタバタさせて笑い転げた。


「コイツ二度と笑えなくしてやるっ!」


 サキは仰向けになった俺の上に馬乗りになると、脇腹や胸に激しく拳を叩きつけてきた…。

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