10. 菌株探索

 代謝の多様性という言葉を聞いたことはあるだろうか。微生物、特に単細胞生物は皆似たような見た目をしている。丸いか、卵形か、あるいは細長いか。しかしその似たり寄ったりの細胞の内部で動いている分子的なメカニズムは驚くほど多様だ。生命活動に直接必要な一次代謝産物も、そして直接必要はないが生存を有利にするような二次代謝産物も。中には他の微生物との生存競争に勝つため、殺菌作用のある物質を生産するものもいる。タクミはスズの肺炎を治すために、抗生物質、すなわちヒトの体には影響をせずに病原菌を殺菌するような物質を生産する微生物を探していた。最初に見つけた菌株が生産する殺菌作用を持つ物質はどうやってもマウスに対する毒と分離することができなかった。殺菌作用を持つ物質自身が毒性も持っていたか、それともよく似た化学的性質を持つマイコトキシンが同時に生産されていたか。そこで彼はその菌株を用いた実験を一時中断して、抗生物質の単離がより簡単にできる菌を新たに探すことにした。代謝が多様なら、それぞれの菌の生きる環境も多様だ。土の中、水の中、岩の中、熱湯の中、氷の中、深海の底、他の生き物の中。もちろん採取旅行に行く暇なんてないから、庭の土を穿り返したり、アガープレートの蓋を開けて放置して空気中から舞い落ちた胞子から菌、特に放線菌門のバクテリアを培養したりした。そうやって集めた様々な菌に関してdisk diffusionテストで殺菌作用の有無を確かめ、ポジティブだった菌株に関しては液体培地で培養、およびその培養液から抗生物質の単離を試みた。集めた菌の中に病原性のものがいて感染したりしたらやだから、菌培養部屋を少し改装して、専用の白衣とラテックス手袋を用意した。少しづつマニュアル化も進めて、屋敷の使用人や工房の職人に手伝ってもらえる範囲も増やした。作業用に改装した元倉庫は今やラボと呼ぶにふさわしい。


 タクミが会議室(元は使用人たちの作業用の部屋)に入ると、センセアおよび実験を手伝ってくれている屋敷の使用人と各工房の代表たちがすでに集まっていた。ここ最近、二週間に一度、全体ミーティングを開いてそれぞれの進捗状況を共有するようにしている。特に、醸造所で蒸留しているエタノールは他の工房でも洗浄液や燃料としても使用しているし、その他にもラボで調整した試薬や各工房が作った工作機械や小道具を互いに融通しているので、全体の需要と供給を調節する場が必要になったのだ。さらに、タクミの要求する機械や器具によっては工房間のコラボも行っている。

「みんな揃ってるね。じゃ、連絡事項から始めよか」

 タクミが席について声をかけると、皆お喋りをやめて傾聴した。初めのうちこそこのように頻繁に全員で顔を合わせてそれぞれの仕事の話をするというのに慣れず戸惑っていたが、回数を重ねるうちにだんだん皆積極的に参加するようになってくれた。

「一点目ね、この前から言われてた使用水量の増加分についてなんだけど、取水権の買い取りが無事終わったので当面は大丈夫だよ。今回はうちの予算から出したけど、それぞれの工房の規模を今後も維持していくつもりだったら改めて考える必要があるね。僕から提案するとしたら、貯水池の新設だけど、これは街単位の大規模工事になるので僕らだけではできないし、数年単位の話だね。次、ケタハ村から醸造用のお芋の荷馬車が着いたのでバクス(醸造所の指揮をとっている使用人)は中身をチェックして、できたらエタノールの生産量の試算を次回までに用意してね。他、連絡ある人いる?」

 一同を見渡して、特に声がないのを確かめると、次に各員の簡単な進捗状況の確認を行なった。今どのような工作をしているだとか、どの材料のストックがそろそろなくなりそうだとか。最後に、回ごとに持ち回りで一人が詳しい進捗状況を報告して終わる。タクミが注文する機械器具部品は彼らにとって意図も使用方法もわからないようなものが多いので、それらがラボや他の工房でどのように使われているのかをこのミーティングで初めて聴いて理解を得るという面もある。

「連続式蒸留機の容量もうちょっと上げたいね。基本的な設計はそのままで、一番下のお鍋大きくしたやつ作れる?試運転までできる?」

「わかりました。今作りかけのが五つあるので、そのうちの一つを改造してみます」

 エタノールの生産には鍛冶工房で作られた多層構造の蒸留器が使われているし、さらにその蒸留機の冷却水流路の部品として樹脂工房の作ったホースが使われている。部品の発注もインターネットではできないから、直接出向くか手紙を書くかして、しかも在庫状況も一定でないので、こうして全員を集めないと本当に二度手間になってしまうのだ。タクミが各工房を訪問する頻度も下げられる。

 ミーティング後には参加者に昼食が振舞われるのだが、これがとても好評だった。タクミやスズが食べているものよりかは若干簡素になってしまうが、それでも街職人の平均的な昼食よりかは豪華らしい。工房間の技術交流の場としても機能している。

 タクミは彼らとは別に、自室でスズと一緒に昼食をとる。この前近代的な社会には彼らにはどうしようもない階級意識のようなものがあるが、今のところそれで大きな問題も起きていない。二人の昼食は餃子大のトルテッリーニのようなタンブリングと野菜たっぷりのかきたま汁だった。

「会議お疲れ様。どうだった?」

「会議じゃないよ、ミーティングだよ」

「ええー?一緒じゃん」

「意識高いからね。会議じゃなくてミーティング。相談じゃなくてディスカッション。予定じゃなくてスケジュール。結果じゃなくてリゾルト。セヤナじゃなくてアイアグリーウィズィットゥ。マジデ?じゃなくてアイドンゲリットゥ。判断基準じゃなくてクリテリア。客観主観じゃなくてオブジェクティブサブジェクティブ。マジデ?!じゃなくてサァープライズィング!紅茶じゃなくてブラックティー」

「マジデ」

彼のこの言葉遣いは主に大学院時代の影響だった。特に、クリテリア(criteria: 何かを判断する基準。例えばdisk diffusionテストは殺菌作用の有無のクリテリアで、液体培地での抗菌作用のテストはマウスに注射する溶液の濃度のクリテリアだ)やフィアーシビリティ(feasiblity: どれだけ容易に実行できそうか)などは日本語に適当なものがなかったのでそのまま便利に使っている。

「なんかね、PIになった気分だよ。気分ちゅうか実際そうなんだけど。え?PIってのはprincipal investigatorの略で、研究室とかプロジェクトのボスって意味だよ。教授とかそういう人のこと」

「それすごいんだ?」

「まあね!それほどでもないけどね!」

様々なグラントに応募して年間数百万から数千万、あるいは数億円の予算を引っ張ってきて研究プロジェクトを動かすのがPIだ。達人とか師範代とかそういう感じの立ち位置だ。

「それにみんなよくやってくれてるよ。幸い、事故もないし。本当この街の職人の技にはびっくりだよ。だって、動力っつったら風車水車ぐらいしかなかったのに、僕が設計図渡したら熱機関作っちゃったんだもん」

 職人たちが彼の求めるものをきちんと提供してくれているのだから、環境が整っていないという言い訳はしたくない。幸いなことに少女の病状はそれほど進行していないようだし、なんとかして抗生物質の精製を間に合わせたかった。


 午後からは新たな菌株の探索に、庭に出て土を採取した。

 ここで少し、微生物と彼らが生産する抗生物質について簡単に紹介しよう。

 土の中に様々な微生物が生息しているというのはよく知られていると思う。まず、簡単に微生物について整理しよう。微生物は単に微小な生物を指す言葉で、プランクトンなどの微小な多細胞生物からカビなどの真菌類を含む真核生物、バクテリアや古細菌などの原核生物が全て含まれる。細胞のサイズも代謝系、すなわち何をエネルギー源にどのように体を作りどのように増殖するかといったことも全てバラバラだ。というよりかは、目に見える動植物は多様な生命たちの中の本当に小さな一枝にすぎない(系統的には真核生物は古細菌に含まれる)。

 生命の多様性という言葉で多くの人は動物園や水族館、植物園で見かける様々な動植物を思い浮かべるだろう。それら多細胞生物は進化の過程で様々な器官を発達または退化させ、様々な姿形を手に入れ、そして様々な環境に適応してきた。その形態の多様性をして生命の多様性というのは別に間違ってはいない。

 少しだけ話を脇道に寄ろう。なんとも嘆かわしいことに、未だに魚類から両生類が、両生類から爬虫類が、爬虫類から哺乳類が進化し、サルからヒトが進化したのだと思っている人たちがいる。そうではなくて、〇〇と□□の共通祖先からそれぞれが進化したのだ。ヒトとチンパンジーの共通祖先は現生のヒトとチンパンジーに同じくらい似ていて同じくらい違っていただろう。哺乳類と爬虫類の共通祖先は、両生類との共通祖先は、魚類との共通祖先は、無脊椎動物との共通祖先は、現生生物それぞれと同じくらい似ていて同じくらい違っていたろう。現生生物は同じくらい進化しているというのに。

 同じく、原核生物から真核生物が、単細胞性の真核生物から多細胞生物が進化したのだと思っている人たちがいる。様々な現生生物が遠い昔に生きていた共通祖先から進化したのはその通りだし、その共通祖先は単細胞だったり細胞内に核やその他の細胞内小器官を持っていなかったのもその通りだろう。しかし、現生の原核生物はヒトと同じくらい進化していて、様々な機能を獲得したりしている。動植物が進化の過程で体の形を様々に変化させた一方で、微生物たちは細胞内の分子的な仕組みを進化させた。

 動物の細胞は筋細胞や上皮細胞、神経細胞など様々なものがあるように見えて、細胞内小器官や細胞骨格系、脂質二重膜の成分はほとんど共通で、ミトコンドリアでクエン酸回路により好気呼吸を行って、糖や脂質、タンパク質に貯蓄されたエネルギーを消費してATPを生産するのも共通だ。それらは種間でもよく保存されていて、ヒトの遺伝子がショウジョウバエの相同遺伝子の変異型をレスキュー(変異型で失活している遺伝子の機能を外から導入した別の遺伝子が補うこと)できる場合だってある。

 一方、微生物は細胞壁や細胞膜、細胞内の分子機構も様々だ。地上地表浅海の生物はおよそ光合成由来の有機物をエネルギー源としているが、岩の中や深い地下では地球内部の無機化学物質のエネルギー、例えば水素ガスを利用しメタン生成を行う独立栄養生物が一次生産を行うような生態系も見つかっている。また地上でも、硫黄や硫化水素などを電子供与体に用い酸素を発生させない光合成を行う緑色硫黄細菌、紅色硫黄細菌や、さらには、硫黄などを嫌気的または好気的に酸化してエネルギー源とする硫黄細菌も存在する。自然界ではマメ科やマツ科の植物と共生関係にある窒素固定菌が空気中の窒素をアンモニアや硝酸塩などの窒素化合物に変換している。ハーバー過程により人為的にアンモニアを合成し化学肥料が利用できるようになるまでは、この窒素栄養源が農作物の生産量のボトルネックになっていた。

 何を栄養源とするか以外にも、例えば生育環境も様々だ。好熱菌は生育環境が高温の微生物の総称で、中には100℃以上の至適生育温度を持つものもいる。そんな高温条件においても好熱菌のタンパク質は熱変性しにくく、外側のイオン結合と内側の疎水性結合の増強がその安定性に寄与していると考えられている。また、DNA二重鎖が解けないように巻き数を増やしてスーパーコイルを形成していたり、より安定で分解されにくい膜脂質を持っていたりする。高温の他にも、高pH、低pH、高圧力、高浸透圧、放射線下など、様々な条件の極限環境で生息する微生物が発見されている。微生物の世界は恐ろしく広大だ。

 さて、様々な環境で生息する微生物たちはその小さく広大な世界で熾烈な生存競争を繰り広げている。捕食者と被食者として、あるいは同じ資源を争う競争相手として。彼らの武器は爪や牙ではなく、主に分泌分子だ。酢酸菌が作る酢酸は周囲の環境のpHを下げる。酵母の作るエタノールがどのように一般の微生物の増殖を抑えるのかについては、実はよくわかっていない。

 真核生物のアオカビが生産するペニシリンはβ-ラクタム系抗生物質に含まれ、バクテリアの細胞壁のペプチドグリカン層の合成を阻害する。ペプチドグリカンは一直線の長い糖鎖と短いアミノ酸鎖からなるメッシュ形のポリマーで、バクテリアの細胞壁の主な構造体だ。糖鎖はN-アセチルグルコサミンとN-アセチルムラミン酸という単糖が交互に連なったもので、隣り合う糖鎖のN-アセチルムラミン酸をアミノ酸鎖が架橋している。アミノ酸鎖の配列は種によって異なる。

 β-ラクタム系抗生物質はペプチドグリカン合成の複数の過程を触媒する酵素(ペニシリン結合タンパク質: PBPs)に結合し、その活性を阻害する。さらに、抗生物質によって蓄積したペプチドグリカンの前駆体は既に形成されているペプチドグリカンの再構築の過程も誘発するので、細胞壁はどんどん分解されていく。細胞壁が脆くなると、内側の細胞の陽圧に耐えきれなくなり、細胞が破裂してしまう。

 β-ラクタム系抗生物質はこの様に主にバクテリアの細胞壁の合成に対して効くので、真核生物に対しては影響せず、そのため抗生物質として治療に使うことができる。

 しかし、このβ-ラクタム系抗生物質も万能ではない。バクテリアの中には、この抗生物質のコアであるβ-ラクタム(四員環の環状アミド)を加水分解するβ-ラクタメイスを持つものや、β-ラクタム系抗生物質とあまり結合しないPBPsを持つものもいて、それらはβ-ラクタム系抗生物質に対して耐性がある。生存競争だから、互いに対抗手段を進化させているのだ。そして、結核菌もβ-ラクタム系抗生物質に耐性がある。

 少女の肺炎を治療するためには、少女に感染している病原菌に対して有効な抗生物質を用意しなければならない。といっても、そもそもまだ抗生物質の単離にまだ一度も成功していないが。そこで、彼は土壌中の微生物、特に放線菌の中から抗生物質生産菌を探し出せないかと考えた。

 放線菌は土壌中や水中に生息する放線菌門に属するバクテリアの総称で、生態系における分解者として重要な役割を担っている。土壌中ではカビみたいな菌糸を形成し、これが放射状に伸びる様から放線菌と名付けられた。放線菌門はとても大きくて、様々なタイプのものが含まれる。農業的、工業的、薬学的に重要なもの、病原性のもの。結核菌やハンセン病の原因であるらい菌は放線菌門マイコバクテリウム属に含まれる。そして、抗生物質を生産する菌を多く含むストレプトマイセス属。

 ストレプトマイセスは放線菌の中でも特に大きな属で、500種以上が報告されている。彼らはもっぱら土壌中に見出される。いわゆる土の臭いは彼らの生産するジオスミンによるものだ。現在医療に利用されている天然由来の抗生物質の実に3分の2以上がこのストレプトマイセスに属するバクテリアによって生産されており、ストレプトマイシン、カナマイシン、テトラサイクリンなどがこれに含まれる。

 ストレプトマイシンは1943年にラトガース大学のセルマン・アブラム・ワクスマンのチームによって単離された、バクテリアのタンパク質合成を阻害する抗生物質だ。バクテリアはタンパク質の翻訳においてN-フォルミルメチオニン (fMet) を最初のアミノ酸残機に用いる。fMetはメチオニンのアミノ基にフォルミル基が付加したものだ。fMet-tRNAのコドンはメチオニンと同じAUGだが、fMetは翻訳の最初にのみ用いられ、以降のmRNA配列中に再びAUGが現れた時にはメチオニンが用いられる。ミトコンドリアやクロロプラストでもfMetからタンパク質翻訳が始まるが、古細菌や真核生物の細胞質中の翻訳ではただのメチオニンが用いられる。

 ストレプトマイシンはバクテリアのrRNAに結合し、fMet-tRNAとリボソームの結合に干渉する。これは、詳しい仕組みは未だよくわかっていないが、リボソームとmRNAの複合体を不安定化させ、フレームシフトなどの翻訳ミスを引き起こし、ついにはその細胞を殺してしまうらしい。

 ヒトを含む真核生物はバクテリアとは異なる構造のリボソームを持つため、タンパク質翻訳は影響を受けず、よってストレプトマイシンは抗生物質として利用できる。それでも、ヒトに対して腎臓や聴覚への毒性などの副作用があるが。

 ストレプトマイシンの名はその生産菌のStreptomyces griseusに因んでつけられた。ストレプトマイシンはその作用メカニズムから多くのバクテリアに対して有効であり、結核を治療できた初めての抗生物質だった。現在結核の治療には他に、放線菌の一種Amycolatopsis rifamycinica由来のリファンピシンや、化学合成されたイソニアジドなど複数の抗生物質を併用する(一応断っておくと、少女はおそらく肺炎を患っているが、それが結核かどうかまではわかっていない)。

 タクミは別にこれらの詳細を全て記憶していたわけではないが、しかし放線菌がどういう生き物で、その生産物が抗生物質として、あるいは他の医薬品、食品、工業製品など様々な用途に利用されているということだけは知っていた。実は、研究で少しだけ触ったこともある。


 放線菌の探索も、基本的にはペニシリンを生産するアオカビを探索したときと同じ方法だ。土を水に溶いてアガープレートに塗布する、あるいはアガープレートの蓋を開けてしばらく放置し、空気中から落ちてきた胞子を培養した。そうやってモノクローンのコロニーをランダムに生やし、それぞれをdisk diffusionテストによって抗生物質を生産していそうかどうか判別した。半透明なアガーの上に菌のコロニーがポツポツと生えているだけなのに、そこから土と同じ臭いがするというのは少し不思議だ。

 構造色によるものか色素によるものか、放線菌も様々な色を呈する。また、菌糸の伸ばし方も少しづつ異なるので、それらの見た目からある程度は種を判別できる。鍛冶工房用に作成した高精度の旋盤をガラス工房にも導入し、光学を指導しながらレンズを、そして実体顕微鏡を作成した。研究を始めてからかなり早くに開発をしていたのだが、完成したのは最近だった。倍率はせいぜい数十倍なので細胞スケールの微細構造までは観察できないが、それでも情報量は格段に上がる。光学顕微鏡も開発中で、できれば位相差顕微鏡ぐらいは欲しいのだが、それらはいつ完成するともしれない。

 たった1cm^3の土の中にものすごい数の菌がいて、ものすごい数の種類が混在しているので、一箇所から採取した土の懸濁液を何枚ものアガープレートに塗り広げて、そこから取れる限りの菌を取った。

 培地の成分も少しづつ変えてみた。それ以上栄養素を抜いたら菌が生育できなくなるという必要最小限のみの成分を含む培地を最小培地というが、その組成は種によって異なる。豆乳粉末の他に、再び蕎麦粉を使ってみたり、料理の何かを茹でた残りの汁を使ってみたり、再現性はとりあえず置いといて色々なものを適当に試してみた。培地を変えれば同じ土から作った懸濁液を塗布した場合でも全然違う菌が生えてくることもある。

 実体顕微鏡を覗きながらその菌糸の形態をスケッチし、色やその他気がついた事柄とdisk diffusionテストの結果を記録してアーカイブに加えていく。Disk diffusionテストを行う際はコロニーの半分だけを用い、残りの半分は小瓶に入れて冷暗所で保管した。初めの十数種までは素直にそのまま作業をこなしたが、アーカイブが数十になり、百を超えると、新たに得られた菌のコロニーが既に試した種のものなのか、それとも新規の種のものなのか、その判別も難しくなってくる。

「ったくもー、誰このスケッチ描いたのー。全然わかってないじゃーん。ほんとちゃんと見ろよなー」

と、そのスケッチを描いた過去の自分に文句を言った。回数をこなすうちに目も慣れてきて、初めのうちは気がつかなかった微細構造や特徴、例えばコロニーの厚さが中心から辺縁にかけてどのように変化するかや辺縁の形などもわかるようになった。

 新しく得られたコロニーを観察してアーカイブ内に似たような記録があるかどうか探し、記録のないものを優先的に、余裕がある場合にはあるものも、disk diffusionテストで殺菌活性の有無を調べた。Disk diffusionテストでポジティブな菌はなかなかいないし、そのような菌が珍しく取れたと思っても、その菌の培養液を遠沈してろ過して中和すると活性が失われてしまったりして、いずれ抗生物質として望めるものではなかった。もう一度繰り返すが、微生物の世界は恐ろしく広大で多様だ。その中から求める特性を持つものを探し出すのはたとえ正しい方法を知っていたとしても並大抵のことではなかったのだ。

「そうだ。抗生物質の作る遺伝子のプライマー作ってPCRすれば土壌中にその抗生物質作る菌がいるかどうかわかるんじゃない?てんさーい。無理でーす。プライマー作れませーん。できませーん」

日本語でぶーたれる彼に遠心機をこいでいた使用人のフォスやインキュベータのランプを交換していたスチューダがどうしたのかと尋ねてきたので、正直に実験でいい結果が出なくて悪態をついていたのだと答え、再び作業に戻った。

 最近彼がやっている実験を簡単にまとめてみよう。

1. 土の懸濁液などをアガープレートに塗布して菌を単離培養する。

2. 実験1で得られたコロニーの形態を観察し、記録する。

3. 実験1で得られたコロニーをdisk diffusionテストにかけ、殺菌作用の有無を調べる。

4. 実験3でポジティブだったコロニーを液体培地で培養する。

5. 実験4の液体培地を遠沈、ろ過し、滅菌された上澄みを用意する。

6. 実験5で得られた上澄みを中和し、紙片に染み込ませてdisk diffusionテストによって、またはテスト菌の培養液に添加して殺菌作用の有無を調べる。

これで殺菌作用を持つ液を得られれば、さらに次にその液から殺菌作用を持つ物質の単離精製を行う。

7. 実験4で得られた殺菌作用を持つ物質について、煮沸やpHの変化などで殺菌活性が失われるかどうか、その条件を調べる。

8. 溶媒抽出法を行い、各pHおよび塩の有無などの条件下で水に溶けるか有機溶媒に溶けるかなどの化学的性質を調べる。

9. カラムクロマトグラフィーにより液に溶けている諸物質の分離を行う。

10. 実験8および9で得られた殺菌物質溶液をマウスに注射して毒性の有無を調べる。

基本的にはこの地味な作業の繰り返しだ。培養条件や分離精製の条件は一様でないから各実験もいろいろ細かく分かれたりする。Sci-fiではカガクシャが何か一つ大規模で派手な実験をやって、スパークがバチバチいったりして、それで「実験は成功だ!」とか叫んだりするが、残念ながら現実の生物学実験ではそういうシーンはまずないのだ。

 作業がある程度ルーチン化してきたので、マニュアルを書いて少しづつ手伝ってもらえる範囲を広げつつある。

「タクミ様、これってどういう種類の菌でしょうか?」

そう聞いてきたのは最近ラボに顔を出すようになった使用人のバクスだ。彼はもともとエタノール工場の運営を担っていたが、工場の操業が安定してきたのと、タクミからお酒の発酵が微生物によるものだということを聞いてからラボで実験の仕方を学びつつ手伝ってくれている。タクミも抗生物質生産菌の探索のついでに、お酒用の酵母の純培養を指導したりもした。

「ん?これー、アガーが乾いちゃってるね。で、この模様はね、塩が析出してるのね。コロニーじゃないよ」

シャーレの中でアガーが乾いてぺったり薄くなっていた。

「蓋して、乾かないように気をつけてね」

培地が乾いてしまうと菌が増殖できないだとか、塩が析出とはどういうことかなどを解説すると、バクスは実験の失敗に気がついて照れ笑いを浮かべ謝った。


 実験と実験用の機器の開発に並行して行なっていたもう一つのプロジェクト、発電にとうとう成功した。こんなに時間がかかったのは、発電機を作るためにモーターを作るために磁石を作るために電池を作るところから始めなければいけなかったからだ。

 電池を作るのはわりかし簡単だった。作ったのは、正極に二酸化鉛、負極に鉛、電解液に硫酸を用いた鉛蓄電池だ。硫酸の生産を頑張っていたのはこのためでもあった(鮮やかな伏線回収)。樹脂が酸に耐性のあるものかどうか不安だったので、容器には主にガラスを、シール部分のみに樹脂を用いた。鉛蓄電池は1859年にガストン・プランテによって発明された最初の再充電可能な電池であるが、放電も充電も安定して行うことができ、材料も安価なので現在でも広く使われている。欠点は大型であることだが、ラボや工房で使う分には問題ない。製作に携わった職人たちには口を酸っぱくして硫酸の危険性を説き、事故が起きないように努めた。

 磁石については、天然のマグネタイト(酸化鉄の鉱石)があるにはあったが、発電機を作るには大きさも強さも足りなかったので、フェライト磁石を作った。磁石とは大まかに言って磁性を持った粒子がその磁気モーメントを同じ方向に揃えて配列し、全体として大きな磁気モーメントを持った物質のことだ。フェライトは結晶中に逆方向の磁気モーメントを持つ原子を含むが、両者の強さが違うために全体では一方向の磁気モーメントを持つ。成分は酸化鉄(III)を主とし微量のバリウムまたはマンガン、ニッケル、鉛などを含むので、安価で簡単に手に入れられる。

 酸化鉄はわかりやすく言えば錆びた鉄だ。もちろん錆鉄の粉をこねて固めても磁石にはならない。内部で鉄イオンの磁性モーメントがバラバラの方向を向いているので、反対向き同士のものが打ち消しあって全体では0になってしまうからだ。磁石にするためには酸化鉄の粉末を整形し固めるとき、または後で強い磁場に置いて磁性モーメントの向きを揃えてやる必要がある。そのためにコイルと鉛蓄電池による電磁石が必要だったのだ。

 まず酸化鉄と酸化鉛の混合物を窯で加熱してフェライトを用意した。このフェライトと水を大きな円筒の缶の中に入れて、その缶を回転させた。缶の中で攪拌されたフェライト同士はお互いにぶつかり合い少しづつ削れ小さくなっていく。得られた粉末を素焼きの型に詰めて、電磁石で磁場をかけつつプレス機で押し固めた。得られたブロックを再び窯で焼き固め、ようやく磁石の完成だ。

 磁石とコイルでモーターが作れた。さらにそのモーターを蒸気タービンで回転させれば発電機だ。

 発電機を稼働させ、発電機に接続した別のモーターが回転し出せば、そのデモンストレーションを見守っていた工房の職人一同から拍手喝采が沸き起こった。この前近代的な社会では、もしかしたら磁石や電気の性質を研究している者もいるのかもしれないが、技術として用いられるには程遠く、人工的に磁石を作っただけでも大いに驚かれたのだ。電磁力などの目に見えない力は魔法のようにも映ったのだろう。発電機とモーターがあれば工作の幅がさらに広がる。電球や電熱ヒーターだって作れるかもしれない。

 彼はさらに、交流モーターと可変抵抗を作った。交流モーターを蒸気タービンで回せば交流電源になる。それら一式を屋敷に持って帰って、交流電源から可変抵抗を介して電源アダプターに繋いだ。長らく閉じられていたMacBook Proを開き、可変抵抗をゆっくり操作して慎重に電圧を上げていく。電圧が高すぎてパソコンが壊れてしまったら取り返しがつかない。充電が開始されたところで電圧を固定し、十分にバッテリーが貯まったところで起動すると懐かしい画面が現れた。半年以上前、この世界に突然迷い込む前の、職場で作業していた時のままだった。

 背後から覗き込んでいた少女から感嘆のため息が漏れた。

「すごいじゃん。やったじゃん。発電機、作っちゃったんだ」

「うん、やったよ。どうしよう。めちゃくちゃ嬉しい。頑張った甲斐あったよ。やったー」

 パソコンが起動できたからって、結局ネットには繋がっていないのだし、ノートを取るのと計算ができるくらいで、今やっている実験が劇的に変わるわけではないのだが、そんなことは関係なしに彼も少女も単純に感動していた。元の世界では当たり前のように身の回りにあった電子機器。この隔絶された地では、どこをどう探してもありうるはずもないそれが、ずっと部屋の棚にしまわれ半ば忘れられていたそれが、再び動き出したのだ。

 感極まってか、少女は後ろから彼の肩に腕を回し、首筋に頭を預けてきた。かすかに震えているのは、泣いているからか。彼は黙って少女の手に自分の手を重ねた。

 さらに後方から見守っていたバートルも興味を堪えきれず、それは何なのかと尋ねてきた。

「板一面が光って、描かれている絵が変わったように見えましたが、今書かれているのは何かの文章ですか?」

「これはね、液晶ディスプレイ。こいつの中に記録されてる絵や模様だったら好きなように映し出すことができるんだ。動く絵とかもね」

「ははぁ、まるで御伽話に出てくる魔法の水鏡のようですな。未来の出来事や、遠い地にいる家族の姿を映すと言われても信じてしまいそうです」

「ふふ。未来を映すことはできないけど。でも、こいつだけじゃ離れた場所の映像を映すことはできないけど、僕らの世界にはインターネットっていう通信技術があって、それを使えばこいつで別の街、別の国にいる相手とでも、お互いの顔を見ながら話すことだってできるんだよ」

「そんなことまでできるのですか!?」

パソコンという未来技術ガジェットの想像だにしなかった動作を目の当たりにして、屋敷の使用人たちは工房の職人たちにモーターの回転を見せた時よりもはるかに興奮していた。

「この液晶ディスプレイは部品の一つでね、本体は計算機。ちょっと抽象的な言い方になっちゃうけどね、論理演算ていう簡単な操作を自動でやってくれて、それからメモリを保持することと、そのメモリの好きな部分を読み出したり書き込んだりできるんだけど、それであらゆるパズルを解くことができるんだ。まぁ、パズルっちゅっても、こいつがやってるのはものすごく抽象化されたやつなんだけどね」

当然そんな説明では通じない。そもコンピューターがどういう仕組みで動いている機械かをちゃんと説明しようとすれば、大学以上の数学の話からしなければならない。

「仕組みを詳しく解説することはできないけど、こいつはいろんな目的に使える機械なんだよ。計算したり、情報を処理したり、別の機械を制御したり」

あいにく他の入力機器も出力機器もないから、今できることはMacBook Proにもともとついているインターフェースを介した操作と処理だけだが。

 Musicを起動して音楽を流せば、再びどよめきが広がった。

「これは、本当に魔法ではないのですか?」

「ちゃうよ。全部人が設計して作った機械だよ。安くはないけど、大勢が持ってるようなものだし。そうだね、僕らの故郷では、普通の人、貴族とか大商人とかじゃなくて、普通に働いてる人の一月分の稼ぎでお釣りが来るぐらいだね。これ、仕事の道具なんだよ」

「なんとも信じがたい話です。本当に、あなた方の世界は素晴らしい技術を持っているのですね。初め、スズ様の病を治すことのできる薬があるのだと聞いたときは想像もつきませんでしたが、これは信じずにはいられませんな」

しきりに感心するバートルに、タクミも笑顔を浮かべて頷き返した。科学が発展して様々な技術が実現した現代社会においても、治療の困難な疾患はまだまだ多いが、しかしわざわざそんなことを伝える意味もない。莫大な予算をつぎ込んで、半年以上の時間をかけて、それでもまだ抗生物質を生産する目処も立っていない彼をバートルやセンセアが変わらずに支援してくれているのは、彼がとても進んだ技術を知識を持っているのだと信頼してくれているからだ。

 ひとしきりの興奮が落ち着いたところで、バートルもスズがタクミにしがみついたままずっと静かにしていることに気がついた。

「スズ様、大丈夫ですか?お疲れでしたら、部屋に戻られますか?車椅子をすぐに用意します。温かいお茶もお持ちしましょう」

対して、少女の代わりにタクミが答えた。

「ううん、大丈夫だよ。懐かしくなっちゃったんどよねぇ。スズは僕と一緒に戻るから、お茶はこの前ニルリギ領主さんから貰ったやつにミルク入れて持ってきてちょうだい」

「かしこまりました」

 蒸気タービンを止めてパソコンを閉じると、後ろで見物していた使用人たちもそれぞれの仕事に戻っていった。タクミも片付けを簡単に済ませ、少女と連れ立って自室に戻った。

 部屋の中で、二人はくっついたままソファーに座って、けれどどちらも口を開こうとはしなかった。こちらの世界に迷い込んでから電子機器の類を一切見なかった。当たり前だ。この世界では電磁気学も数学も化学も工学も未発達で、そんなもの作る技術力があるわけがない。当たり前のそのことが、この世界と元いた世界が断絶しているのだと、改めてそう意識させたのだ。ある日突然この異世界に迷い込んだ。来たのだから帰れるだろうと思っていた。けれども、彼らの帰還のためには魔法の道具(忘れられているかもしれないが、ここは魔法の存在する世界だ)を取り返す必要があると言って旅立った屋敷の主人、メグ・イシアンからは未だになんの音沙汰もない。


 日々は淡々と流れ、季節も少しづつ移ろって行く。一週間が五日間で、そのうちの四日が平日で、平日はラボで実験をしたり工房で開発を監督したり、朝は早くて、夕方空が暗くなったら仕事は終わりという生活にも随分慣れた。屋敷の使用人、工房の職人をはじめ、街の名士たちとも交流をもてた。短い期間ながら、既に街の住人として認められつつある。

 研究も順調だ。抗生物質を生産する放線菌を見つけ出すために庭の花壇や植木の下、池の底など様々なところから土を採取してきて、土壌中の菌の単離培養を行っている。分子生物学的手法も使えずに原核生物を同定することは無理だが、せめてコロニーの形態だけでも識別しようと実体顕微鏡を完成させた。浄水槽に蒸留機、各種化学物質の合成窯、スターリングエンジンに蒸気タービン、モーター、変速機、鉛蓄電池と色々開発もしてきた。動力系が揃ってきたので、今後は実験機器もどんどん改良していけるだろう。

 ゲームのように便利な魔法や謎技術はないが、幸いにも平和な街で、それなりに発展もしていて物資も手に入り、運の良いことに研究資金も十分に確保できたので、ある意味ではリアルクラフトゲームだ。科学の基礎的な知識があったのは助かった。おまけに工房の職人たちは本当に器用で、彼の注文を熱心にこなしてくれた。どこにも文句のつけようもない、全く都合の良い条件だった。

 けれど、それでも、たとえ正しい方法を知っていてさえも、適当な菌を見つけ出してきて抗生物質を単離精製しようというのは土台無茶な話だった。だって、実のところそれは新規の抗生物質の探索、つまり、現代において研究室、あるいは研究所で何人ものプロの研究者がチームを組んで、年間数千万あるいは数億円の研究費を使って、様々な実験機器を使って、インターネットを通じて世界中の研究者と情報交換し、先行研究をデータベースを参照しながら、数年、あるいはもっと長い時間をかけて行っているような仕事なのだ。

 抗生物質生産菌が希少でなかなか見つからないというのは、考えようによっては悪いことではない。もし逆にどこにもかしこにも抗生物質生産菌がいたら、きっと他の菌もそれらの抗生物質に対する耐性を進化させていて、少女の肺炎の病原菌も同様にいずれかの抗生物質に対する耐性を持っていたかもしれなくて、そうしたら有効な抗生物質を探し出すというのは余計に難しくなっていたかもしれないのだ。抗生物質生産菌が簡単に見つからないというのは当然のことだし、現状で他にもっと良い手があるということもない。それが現実だ。

 天気が良かったので、庭の芝生にシートを広げてピクニックをした。タクミとスズと、それに探し物の占いが得意なのだという魔法使いのサッチャーが同席していた。試しにその占いで目的の菌を見つけ出すことはできないかと聞いてみたが、答えはネガティブだった。

「私の占いは、もともとその人の所有物だったものが、失くしてしまった時にどこにあるのかを探し当てるというもので、他人のものだったり、領地や権利といった曖昧なものほど難しくなっていきます。生き物を探しているのであれば、探し人の占いで行方不明のペットを探し出せると聞きましたが、野生の、それも目に見えないほど小さい生き物の群集を探すというのはやはり難しいでしょう。むしろ、そんなものをあなたが探しているのだということの方が驚きです。一体どんな術を使っているのですか?」

 術という表現にちょっとだけ笑いそうになってしまった。科学には、例えばスポーツや音楽、絵画、料理などと違い、習得に長時間の練習を必要とする技術はあまり使われない(全くないわけではないが)。

「術っていうのとはちょっと違うかな。科学っていうんだけどね」

「そのカガクというのは、あなたたちの世界の魔法みたいなものではないのですか?」

「うーん、似てるっちゃ似てるんだけど。魔法を使う人を魔法使いっていうみたいに、科学を扱う人のこと科学者っていうの。で、科学者以外から見たらね、科学技術って仕組みはよくわからないけど何かすごいことができるっていう、魔法みたいなものなんだよ。有名な言葉があってね、十分に発達した科学技術は魔法と区別がつかないっていう」

「ははぁ、あなたたちの世界ではそのカガクも魔法も随分と発展しているのですね」

 サッチャーはタクミたちの世界には進んだ科学と、それに加えて、その科学に同等な魔法があるのだと勘違いしたのだろう。サッチャーからしたら、タクミの作った諸々の装置は彼らの魔法では実現不可能な超技術に見えたのかもしれない。タクミからしたら、メグやサッチャーの使う魔法は科学では到底実現不可能な超技術なのだが。

「ん?あ、アッハッハ。いや、僕らの世界には魔法使いはいないよ。お伽話や創作小説とかの中にしか出てこない、空想上の存在なんだ。それにね、科学者にとっては、科学と魔法には決定的な違いがあるんだ」

 科学と魔法、というよりは非科学の違い。

「科学は根本的には物事を説明する方法論なんだ。水面に水滴を落とすと波紋が広がるのはなぜか、鳥はどうやって空を飛んでいるのか、生命の仕組み、星の成り立ち、物質とは何か。そういう自然現象、世界に普遍的にあるものの、その正体、振る舞い、法則を明らかにしようっていうのが科学なんだ。そして、科学は何かを説明するとき、その根拠により尤もらしい、より明らかなもの、確かなものを求めるんだよ」

 もっとも、その科学的な根拠というのは尤もらしさ、明確さを求めるあまり、逆に科学者以外には理解しがたいものになってしまうということが往々にしてあるのだが。

「再現性っていってね、ある決まった操作をしたら、誰がやっても、いつも同じことが起こるっていうのが科学では求められて、その操作と現象を根拠に別の現象を説明しようとするんだ。だから、科学は魔法と違って、原理的には誰でもできるんだよ」

 科学者は魔法使いではないから、”特別な力”は必要ない。

「それで、その科学で得られた知識を応用したのが科学技術で、このスマホもそういう科学技術の結晶なんだ」

 スズのスマホのスピーカーからはミュージックライブラリに入っていたボカロ曲が流れている。ボカロはsci-fiっぽくてタクミも大好きなのだが、意外なことに公開から10年経っても日本以外ではそれほど流行らなかった。2020年になってやっと海外の大きな音楽イベントで初音ミクが舞台に立ったが、この時点ではまだ日本産のボカロ曲が輸出されているような状況だ。機械人形が歌って踊るライブイベントがあるのだと言ったら、外国人は現実ではなくファンタジーだと思うかもしれない。確かに科学と魔法は似ている。けれど違う。

 科学と魔法が違うように、科学技術と科学知識、科学的方法論と科学研究は全て別のものだ。現代社会では科学技術により、重篤な疾患を引き起こす病原菌に対抗する抗生物質の生産に成功した。タクミもその科学知識をもとに、科学的方法論を実践して抗生物質を単離精製しようと試みた。その結果がこの有様だ。実際の科学研究なんてものは、教科書やドキュメンタリー番組で紹介されているほどスマートなものじゃない。科学は現実を変えるものではないのだから、どうしようもない。

 流れる音楽に乗せて口ずさむ少女の小さな歌声が高い空に吸い込まれていった。

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