11. 動物実験

 研究者にとって生物学はただ面白い、めちゃくちゃ難しい、それゆえチャレンジしがいのあるパズルなのかもしれないが、しかしヒトという生物を理解するのに役立ち、中には病理の解明や新薬、新治療法の開発、あるいは農業、工業、商業に応用しようという殊勝な研究者もいるので、生物学の研究は結果として社会の役に立っている。その新しい薬の開発において、生物に対してなんらかの作用をする物質の発見から、それを新しい治療法へとつなげるのが動物実験だ。前回、地球に生きる生物全体から見たら真核生物はその極一部で、さらに哺乳類はその極々一部で、ほとんど見分けがつかないほどお互いに似通った生物集団だという話をした。それを一般の読者が受け入れるかどうかはさておき、その似ているという科学的事実が、ヒト用の薬剤の活性を調べる上で動物実験を有効なものにしている。ネズミやブタやチンパンジーに薬剤を投与して、その動物たちが死んでしまったら、その薬剤はヒトに対しても同じように毒性を発揮するのではないかと予想される。もちろん動物種によってどんな化学物質がどのように作用するかは少しづつ異なり、ヒトと系統的に離れていくほど違う反応をするようにもなるが。だからタクミも実験で得られた殺菌作用を示す物質が抗生物質として治療に利用できるか確かめるため、まずは健康なマウスに投与して毒性の有無を確かめた。だけどそれだけでは不十分だ。現代でも治療に用いられている薬剤の多くはなんらかの副作用を持っている。必要なのは、治療に有効な投与量で無視できない影響があるかどうかを判断することだ。その投与量を決めるのにも、やはり動物実験を行う。そこで用いるのが、ヒトの病態を再現した動物の疾患モデルだ。麻酔したマウスの肺にバクテリアを注入して肺炎モデルマウスを作成し、実験で得られた薬剤を投与した。治療に成功したマウスもいたが、死んだマウスの方が多かった。抗生物質生産までの道のりは果てしない。その間にも肺炎はゆっくりと、しかし確実に進行し、少女を蝕んでいった。


 鍛冶工房のバックヤードに愛機流星号で乗りつけ駐輪した。流星号は最近やっと完成した自転車で、ランドナーのような見た目、スチールのフレーム、ホイールに樹脂製のタイヤを持ち、若干重いが、それでも平とは言い難い土や石畳の道路を快適に走行できる。街中では馬車より早いくらいだ。

 親方に出迎えられて工場に入ると、注文しておいたものが全て完成して棚に並べられていた。スターリングエンジン、ギア、シャフト、電磁モーター、フレーム、電源、その他諸々。早速職人たちの手を借りながらそれらのパーツを組み上げていく。三つのスターリングエンジンの低温シリンダーと高温シリンダーを数珠つなぎにくっつけて、回転軸からギアを継いで一本のメインシャフトへ、そしてそのメインシャフトにモーターを接続した。立方体のフレームの内側に鉄板を、外側に木板を張って大きな箱を作る。その箱は片面に観音開きの扉が付き、その反対側からは箱の中に設置された鉄製の吸熱板の一端が突き出している。そこに三連スターリングエンジンの端の高温シリンダーを接続した。

 ここで簡単にスターリングエンジンについて紹介しよう。スターリングエンジンは1816年に英スコットランド人のエンジニア、ロバート・スターリングにより開発された、気体の閉鎖サイクルにより駆動される熱機関だ。普通、高温シリンダーと低温シリンダーの二本とシリンダーの間を繋ぐリジェネレター、または高温部と低温部のある一本のシリンダー、およびシリンダーに接続したピストン、クランク、フライホイールからなる。

 シリンダー内で気体が温められると膨張してピストンを押し出す。逆に、シリンダー内の気体が冷却されると圧縮されてピストンが引っ込む。スターリングエンジンでは両ピストンがクランクを介して一つのフライホイールに接続しているため連動し、その動きが二本のシリンダー、または高温部と低温部の間で気体を行ったり来たりさせる。高温シリンダー(高温部)で加熱された気体がピストンを押し出しつつ低温シリンダー(低温部)に移動して冷却されピストンを引き込み、また高温シリンダー(高温部)に戻るというサイクルを繰り返す。

 熱は高温側から低温側へ移動するから、シリンダー内の気体を加熱するというのはシリンダーに接続したより高温の熱源から熱を与えるということで、冷却するというのは逆にシリンダーに接続したより低温のヒートシンクに熱を渡すということだ。加えられた熱エネルギーの何割が運動エネルギーに変換されたかがその機関の熱効率で、その最大値が熱源とヒートシンクの温度比で決まるというのが熱力学だ。

 高いところから低いところに水が流れるのを利用して水車を回すことができるように、高温側から低温側へ熱が移動するのを利用してエンジンを回すことができる。また、逆に水車を回すことで低いところから高いところへ水を汲み上げることができるように、エンジンを外から回すことで熱を低温側から高温側へ移すこともできる。これがスターリング冷却機だ。日常的な感覚からはあまりピンとこないかもしれないが、気体を圧縮すると温度が上がり、逆に膨張させると温度が下がる。もともと加熱して膨張させていたところを、加熱せずにエンジンを回すことで、膨張した気体は温度が下がり、相対的に高温な熱源から熱を奪う。奪われた熱は、今度はもう一つのシリンダーで圧縮されて高温になった気体から相対的に低温な外気へと渡される。全体では低温側(高温シリンダー側)から高温側(低温シリンダー側)へ熱が移動する。

 つまり、彼はスターリング冷却機を用いた冷凍庫を作ろうとしているのだ。一日中ギコギコトンテンカンテンゴリゴリネジネジペタペタやって試製冷凍庫一号を完成させた。大きさは内容量30×40×50cmのやや小ぶりなものだ。モーターがスムーズに回転することを確認し、電源に繋いで試運転を開始した。冷凍庫の中にはスチール缶に入れた水を置いて扉を閉めた。バッテリーは一晩は保つ。充分に運転した後、水が凍っていればとりあえず成功だ。

 工具端材の片付けを指示して、出されたお茶を飲んでいると親方が話しかけてきた。

「これで本当に、氷ができるのでしょうか」

「うん、うまく行けばね。エンジン回してシリンダーが冷えるのやってみたでしょう?」

 スターリング冷却機は手で回しても実感できるくらいにシリンダーを冷やすことができる。実際にやらせてみたときは随分驚かれ、しかも魔法を使ったのではないかと言われたから思わず笑ってしまった。

「ちゃんと説明するんだったら、熱力学の説明しないとだけど、それはめっちゃ時間かかるし、今は僕に暇がないから。ごめんねぇ」

「いえそんな。こうして色々な機械の製作を指導してくださるだけでも我々にとっては大変ありがたいことです。しかし、タクミ様の住んでいた国は本当に羨ましいところですね。私たちは鍛冶にしろ大工にしろ他の何にしろ、専門的なことを学ぶにはその工房に入るしかない。ところがタクミ様はもともと機械職人ではないのに、こうして専門的なことを知ってらっしゃる」

「まあ、そうね。ただ僕が知ってるのは原理だけだし、それに僕らの世界じゃ機械工作だってもっと色々な技術開発されてて、本当に専門的なところは僕も全然知らないよ。そういう意味じゃここと変わらないね」

 お茶を飲み干して、工作で酷使した体を思いっきり伸ばす。

「じゃあ、僕は一旦屋敷に戻って夕ご飯食べて来るから。また後でね」

 冷凍庫の初運転を見守るために、その日タクミは工房に泊まり込むことになっていた。すでに夕刻だったので屋敷からの迎えの馬車に乗って夕食とシャワーのために一旦帰った。街灯は少なく陽が落ちると街中でも暗くなってしまうので、その闇の中を自転車で走りたくはない。モーターで発電できるから、電球とそれに前照灯を開発中だ。

 少女やバートル、バクスからその日の屋敷とラボの様子を簡単に聞いてから、馬車で再び工房に戻った。工房には一応職人が宿泊できる部屋があるが、簡素なものだし、普段それほど利用されてもいない。タクミには応接室のソファーがベッドとしてあてがわれ、親方以下職人たちが宿直室に泊まることになった。

 冷凍庫の外殻は木製で、それほど断熱効果があるわけでもないので、頻繁に扉を開けて室内の温度を調べるわけにもいかない。時々スターリングエンジンの排熱部の温度を測って、外気よりも高温になっていることを確かめた。

「熱くなってますな」

「うん、予想通りだね。ここから外に熱が逃げる分、中からは熱が奪われて温度が下がってるはずなんだ。予想通りならね」

「熱が、奪われるですか」

「そう。ただ、ピストンの運動そのものにも熱を発生させてる可能性があるから、摩擦熱ね、だから本当に上手く行ってるかはまだわからんけど」

 冷却の効率が悪ければ冷凍庫内を0℃以下まで下げることができないかもしれない。できれば-25℃(実験室の一般的な冷凍庫の温度)まで、もっとできれば-80℃(試料や試薬の長期保存用の温度)まで下げたい。スターリングエンジンによる冷却器では熱と運動を交換する流体(冷媒)が常に気体であるため、冷媒の融点に依存せず、極度の冷却によく用いられるのだが。

 職人たちは期待に目を輝かせて、特に用もなく冷凍庫の周りをうろうろしていた。ずっとスターリングエンジンの開発を頑張ってきたのだ。どうにか成功して欲しい。

 冷蔵庫や冷凍庫が完成すれば菌株の維持がずっと楽になる。そして、真空ポンプと組み合わせればフリーズドライもできるようになる。もちろん保存食を作るためではなく、精製した溶液から抗生物質の乾燥粉末を得るためだ。

 運転を開始してからしばらくして、排熱板は50℃前後で大体一定になった。冷凍庫内外の温度差と冷凍庫外殻の断熱効率、それにスターリング冷却機の効率によって決まる熱の移動が平衡に達したということか。夕方の6時から運転を開始して、すでに10時だ。冷凍庫を開けてみると伝えると、宿直室でくつろいでいた職人たちもわらわらと出てきた。

 恐る恐る冷凍庫の扉を開けると、果たして製氷皿の水は凍っており、一緒に入れておいたアルコール温度計は-11℃を示していた。わっと歓声が上がった。


 スズが血を吐いた。

 ラボで実験をしていたら、普段はラボの方には顔を出さない使用人が顔を青くして駆け込んできて、スズが血を吐いて倒れたのだと伝えてくれた。

 思い返せば、最近少し咳がひどくなっていた。長い時間をかけて少しづつ少しづつ変化していたから意識していなかったが、肺炎を患った最初の頃は日に数回咳をしていただけだったのが、いつの間にか何度もするようになり、時々咳が止まらなくなることもあった。身体も一回り細くなり、折れてしまいそうなほどに華奢になってしまった。

 慌てて屋敷の居間(最近少女は日中を居間で過ごしている)に戻ると、少女の姿はなく、敷物に付いた血を洗い落とそうとしていた使用人がスズとメーイは自室に行ったと教えてくれた。階段を一段飛ばしに駆け上り、自室に駆け込むと、少女は着替えているところだった。ノックもせずに突然扉を開けたので、メーイはギョッとしてまだ着替え中だと告げたが(といっても、上着を替えているだけだったし、少女も恥ずかしがって慌てるようなそぶりを見せていなかった)、タクミは構わず部屋に入って少女の容体を確認した。

 幸い少女は意識もしっかりあって、自力で立って服を着るだけの体力もあるらしかった。顔色は蒼白で唇も若干紫がかっているが、最近はずっとそうだった気もする。メーイに話を聞くと、血を吐いたのは咳の最中に三回、初めに血混じりの痰を、続いて二回、口から血があふれたという。口元を押さえた掌の上に血溜まりを作ったらしいが、床や服に付いていた血痕からして、おそらくは数十ml程度だろう。

 咳がひどくなった他、最近は緑白色のネバネバの痰が出るようになっていた。冷凍庫が完成して氷を安定供給できるようになり、また水銀柱によって気圧が地球の標準大気圧とほぼ同じだということが確かめられたので、より正確な温度計を作ることができたのだが、12日前にそれで少女の体温を計ったら37℃前後だった。体重は40kgを下回っていた。身長が150cmとやや小柄なのを勘案しても痩せすぎだ。元の体重が51kgだったというから、10kg以上落ちてしまっている。

 症状が悪化している。わかっていたことだ。むしろ、栄養状態も良く、ストレスも少ないので同じ病気を患っている他の人たちよりかは随分と進行が遅いらしい。けれど、あとどれくらい保つのだろうか。

 怖くて不安で、意識しないで来た少女の余命がもうわずかなのかもしれないという現実を突きつけられて、どうしようもなく気持ちが沈んでいくのがわかった。

「そんな顔しないでよ。そりゃ私も血ぃ吐いちゃったときには驚いたけどさ、そんな大した量じゃなかったし、すぐ止まったし、大丈夫だよ。まだ今日明日にも死ぬってわけじゃないんだから」

 着替えを終えて、少女はソファーに座り、背もたれに体を預けながらそう言った。本来なら彼が少女を励まさなければならないのに、逆に慰められてしまった。

「うん、うん。喉の調子はどう?胸は?痛まない?」

「まあ、普段通りかな。少し痛むけど、特にひどくなったって気はしないよ」

「熱は?」

「ん」

 スズが腰を少しだけ浮かして横にずれ、ソファーに場所を開けてくれたので、隣に座り、おでこに手を当てて簡単に体温を測ってみたが、やはり微熱がある。しかし、指先はいつもよりか冷たい気がした。

「さっき手を洗ったばかりだもん」

「そっか」

 なかなか落ち着かない彼に、少女は呆れたように笑った。身体は辛いはずなのに、安心させようと笑顔を作ってくれるのだ。

「メーイもありがとうね。なるべくスズの血には直接触らないように。それからその服洗濯したら、後でエタノールで手を消毒しといてね」

「はい、了解しましたよ。では、私は一旦洗濯室に行ってきますね」

「うん。それからゴーシュ(居間で血の痕を片付けていた使用人)と、他にもスズの血に触ったかもしれない人は同じように伝えて」

「はい、了解しましたよ。ゴーシュがエタノールを水で割って飲んだりしないか、しっかり見張っておきます」

「はは。頼んだよ」

 メーイが退室したのを見送って、タクミはため息を吐きながらソファーの背もたれに体重を預けた。どっと疲れた気がする。隣に目を向けると、少女も彼を見返してきた。

「タクミさんも、仕事中なのに来てくれてありがとね。戻らなくて大丈夫?」

「ああ、うん。今日はどことも約束ないし、ラボで実験してただけだから。スズは、ベッドで休んだ方がいいんじゃない?」

「うーん。今は、横になるよりかは、座ってたいかな。なんとなくね、喉を横にしたくなっていうか、心臓より高い位置にしときたい感じ」

「そっか、じゃあ膝掛け持ってくんね」

そう言って立ち上がり、花の刺繍の膝掛けを持ってきて少女の足にかけようとしたら、少女は自分の隣のソファーをペシペシ叩いたので、もう一度隣に座って二人の足の上に膝掛けを広げた。

「メーイが戻ってきたら、一旦ラボ行って片付けして、今日はもう上がりかな」

 タクミがいたとしても、たとえ少女が再び血を吐いたとしても、何ができるわけでもない。それでも今日ぐらいは一緒に過ごそうと思った。このままラボに戻って実験を続けても色々と気になって集中できないだろうし。少女は嬉しそうに笑い、目を閉じて頭を彼の肩に預けてきた。普段よりも少し甘えたなのは、やはり少女も不安になっているからなのだろうか。

 服越しに熱がじんわりと伝わってくる。ファッションモデル並みに痩せたせいで軽くなって、体温が少し高くて、まるで幼い子供のようだった。


 世の中にはなんでそんなもの食べようなんて気になったのかわからない食材が多々ある。見た目が変だったり、腐ったような匂いがしていたり、実際に腐敗(発酵)していたり、あるいはそのままでは毒があって、複雑な処理をして初めて食べれるようになるものだったり。けれども、他に食料がなくて、いずれ餓死するしかないとなれば、手に入るものならなんでも口にして、そうした積み重ねの中で食べれるものを同定して行ったのかもしれない。ヒトはわりかしなんでも食べてしまえる動物だ。

 それよりももっとわからないのが現代医科学以前の薬だ。病に伏せって、いずれそのまま病死するしかないとなれば適当になんでも投与してみたということか。それにしたってなぜ毒かもしれないものを試してみる気になったのか。

 良薬口に苦しという言葉がある。韓非子や史記にも出てくる(たぶん古事記にもそう書かれている)から、相当歴史のある知見だ。実際、薬は苦い。ヒトの味覚は栄養のあるものを美味しいと感じるようにできているが、薬には栄養はない。

 栄養素と呼ばれるもの、炭水化物タンパク質脂肪ビタミンミネラル、だけ。前三者三大栄養素はそれぞれ単糖やアミノ酸、脂肪酸に分解されてから吸収される。美容のためにコラーゲン食べるなどという迷信がいまだに広く流布しているが、いくらコラーゲンを食べたって消化管の中でアミノ酸に分解されので、そのまま体内に取り込まれ皮下に蓄積することなどない。よしんばヒト以外のコラーゲンを皮下注射しようものなら免疫系が反応して炎症を起こして悲惨なことになる。免疫系というのは、生物学的には自己と非自己を見分けるシステムだ。同じコラーゲンでも、ヒトとブタとトリのものはそれぞれ少しづつアミノ酸配列が異なり、免疫系はその僅かな違いを検出することができる(でなければ体外から侵入した異物や病原菌、毒素を排除できない)。ヒトは基本的に食べたものを一旦全て分解して、体内で再び、自身の遺伝子にコードされている通りに合成していて、外来のタンパク質やその他の有機分子をそのまま再利用することはない。そうやって身体を守っている。

 栄養のあるものとは逆に、ヒトの味覚は身体に有害なものを一般的に不味いと感じるようにできている。大体の薬も原理的にこの不味いと知覚されるような物質と共通の化学的性質を持っている。まず、消化されてしまっては薬として働けないので、よって栄養はない。そして、生体に対して作用する、例えば水溶性でタンパク質や脂質、核酸などと結合しやすい物質というのは、普通その生体に対して有害である(そしてそのような化学的性質を持っていなければ薬としても作用しえない)。

 昔の人はどういうわけか、ただでさえ弱っている病人にその毒と思われる物質を投与して、そして経験的にそれが薬効を持っていることを発見してきたので。もちろんそれと同時に、害でしかないような治療法、血を抜くだとか重金属粉末を投与するだとかも長らく実行されてきたのだが。また現代社会でも、先進国ということになっている日本においてさえも先に挙げたコラーゲン摂取のような迷信が数多く残っている。酵素ダイエットイズ何。

 科学が未発達な時代においてはオカルトやファンタジーな発想で薬(と信じられていた何か)を処方していた。統計学医学生理学生物学の発達により、科学的な根拠による薬の開発と処方が可能になった。

 もちろん、薬が人体の中でどのように振る舞うかを完全に解明できるわけではない。ペニシリンや他のβ-ラクタム系抗生物質はPBPs以外のものとも相互作用するかもしれないし、ストレプトマイシンはバクテリアrRNA以外とも相互作用するかもしれないし、実際しているから副作用があるのだろう。

 新しい薬を開発したとき、実際に投与してみなければそれが予想された通りの効果を持つのか、またどのような副作用を持っているのかはわからない。患者に投与したら症状が改善しました病気が治りました、でもまだ足りない。その患者がたまたま薬とは関係のない理由で回復したのかもしれないし、薬を飲んだのだから病気が治るだろうという思い込みが回復につながったのかもしれない。これはプラシーボ効果というのだが、痛みが軽減された、吐き気が止まったなどの気分だけのものの場合もあれば、安心して眠れるようになった、食欲が出てきたなどの精神状態や生活習慣の改善が原因で実際に身体的にも症状が回復する場合だってある。

 新薬の効果を確かめるためには、薬を投与した群と何の効果も持たない偽薬を投与した群、何の処置もしなかった群を比較し、症状の改善に関して統計的に優位な差が出るか、副作用は無視できる程度のものなのかを確かめなければならない。一見は百聞に如かず。

 また、例えばdisk diffusionテストでポジティブな抗生物質の候補分子が単離精製できたとしても、それをすぐにヒトで試したりはしない。繰り返し言うが、薬と毒はよく似た化学的性質を持っているのだ。どころか大抵の薬は過剰投与で副作用が無視できなくなり、実際に毒になる。だから、まずは重篤な副作用がないかを動物実験で調べる。前回の話で紹介したように、真核生物は多様な生命の中ではほんの一枝でしかないし、哺乳類なんて代謝系に関してはほとんど見分けがつかないくらいに似た生き物の集団だ。よって、マウスやピッグ、チンパンジーなどに投与して毒性を示すものはヒトにとっても毒だろうし、逆に大した作用をしなければヒトにとっても安全だと期待できる。

 前前前世、ではなかった、~回の話で、タクミはマウスを用いて毒性の有無を確かめようとした。ここではさらに一歩進めて、ヒトの病態を再現した疾患モデルマウスを作成し、薬としての効果や、有効な投与量を調べた。人の病態を再現するというのは実は簡単ではない。まず、病原菌やウイルスと宿主の関係は厳密で、例えばペットが風邪をひいてもそれは飼い主には感染しない。もっと言えばそれらが宿主の中のどの臓器、どの種類の細胞に感染するのかも決まっている。だから、ヒトの病原菌をそのまま動物にぶち込んだって病態を再現できるわけじゃない。また、複数種の生物を宿主にする病原菌やウイルスもいるが、宿主毎に症状が異なっていたりするのだ。先に代謝系に関しては哺乳類は見分けがつかないくらいに似通っていると述べたが、その似通ったもの同士の中の僅かな違いがまた免疫だの寄生だの感染だのといった生物学的な相互作用においては決定的な要因になる。たまたまか、それとも共進化によるものか。生命の多様性のスケールは想像以上に大きい。

 今の彼の目的は少女の肺炎の治療なので、肺炎モデルマウスを作成する必要がある。ちなみに、肺炎は病原菌が肺内に感染、増殖し、炎症反応を起こした疾患だ。バクテリアによるものやウイルスによるもの、肺胞(肺内の空気の通り道の末端で血液と空気の間でガス交換が行われる場所)や間質(肺の形を支える結合組織)に感染するものなど様々なものがある。少女は緑白色の痰を吐いているから、バクテリアによるものだと思われる。

 肺炎モデルマウスの作成方法は、麻酔したマウスの気管に菌の培養液を樹脂製の細管を通して摂取するというものだ。麻酔には溶媒抽出法のために用意したジエチルエーテルが使える。密閉できる10lの容器にマウス数匹と0.8mlのジエチルエーテルを染み込ませた布切れを入れると、最初マウスはバタバタ暴れ回るが、10分もすれば麻酔が効いてぐったり動かなくなる。麻酔されたマウスの口をこじ開けて、樹脂製の柔らかく細長い管を気管に差し込み、接続したシリンジから菌の懸濁液を0.1ml注入し接種した。

 接種したバクテリアが肺内に固着し増殖したかどうか確かめるため、接種から3、6、24時間後にマウスを屠殺して肺を摘出し、氷冷しながら等倍量の水の中でホモジナイザー(スリットの開いた管の内側に小さな回転する刃が入った機械)で破砕した。その懸濁液の希釈系列を作ってアガープレートに塗布し、生えてきたコロニーの数から肺内のバクテリアの増減を推定した。ちなみに、腸内同様に肺の中にもマイクロバイオーム、すなわち微生物の群衆が存在するので、何の操作もしていない、あるいは麻酔後生理食塩水を注入した対照群のマウスの肺からも菌は生えてくる。リアルタイムPCR(PCR: DNA上で二つのプライマー(短いDNA一本鎖)に対応する配列に挟まれた適当な長さの領域を複製増幅する手法。リアルタイムPCR: PCRによる増幅をリアルタイムで計測、その増幅速度の変化から元のサンプルに含まれていた対応するDNAの量を推測する手法)が使えれば接種した菌株がどれくらい増えたか、もっと正確にわかるかもしれないが。

 色々な菌株を接種してみて、マウス肺内で有意に増殖するもの、かつ接種後のマウスの生存率を著しく下げるものを探した。Disk diffusionテスト用のテスト菌や少女の痰から単離培養した数種の菌株はどれもマウス肺内ではそれほど増殖しないようだった。少女の肺に巣食っている病原菌はマウスには感染しにくいのか、それとも病原菌を単離できなかったか。庭の土から単離された滑らかな表面のオレンジ色のコロニーを作る菌株を接種すると、そのバクテリアはマウスの肺内で継続的に増殖し、また接種されたマウスは三日で半分が、十日で九割が死亡した。一方で、落下法により空気中から単離した白色のやや凸凹したコロニーを作る菌株はマウス肺内で10日間ほどは継続的に増殖したが、それ以降はあまり増殖せず、30日後には減少し始めた。接種されたマウスで10日目までに死亡したのは二割程度、30日目までに死亡したのは三割程度だった。便宜上この二つの菌株をそれぞれ菌Aと菌Bと呼ぶことにし、これを実験に使うことにした。

 Disk diffusionテストでポジティブだった物質を精製し、この菌AまたはBを接種された肺炎モデルマウスに毎日一回適当な容量で注射して、マウスの生存率が回復するだとか肺内の菌の量が元に戻るというのを観察できれば、その物質は抗生物質として治療に使えると期待できる。


 フリーズドライができるようになって、精製した物質を一旦粉末にし、濃度を正確に決められるようになった。また、そのために電磁式天秤を開発した。体重(kg)に対して1000, 100, 10mgの希釈系列で投与するとして、マウスの体重はおよそ20gだから一匹につきその50分の1量が必要。各群10匹づつ用いるとして、シリンジ内に残される液量等の余裕も見て全体でおよそ250mgの粉末が必要になるのだが、シーソー構造の天秤でその精度で重さを測るのは難しい。菌の培養にも抗生物質の候補分子の精製やフリーズドライにもそれなりに労力がかかるので、単純に用意する量を増やすという手も使えない。

 彼が作った天秤は簡単なもので、一端に可動軸、もう一端に電磁石を持つ棹と、その棹に固定された計量皿および気泡管水準器、台座にも棹の電磁石と向かい合う電磁石そして両電磁石に接続した電源と可変抵抗、電流計からなる。電磁石に通電して磁化するとお互いに反発して棹を持ち上げるが、その力は電流量に依るため、可変抵抗で調節できる。棹がどれくらい持ち上がっているかは水準器でわかる。電流計は永久磁石と回転する電磁石および電磁石に接続したスプリングからなり、電流が流れて電磁石が磁化されると永久磁石と引き合って回転しようとするが、その時の電磁石の磁力とスプリングの力のバランスによってどれくらい回転するかが決まり、その回転角から電流量がわかる。棹と計量皿、そこに乗せられたサンプルの重さと電磁石同士の反発が釣り合ったとき、すなわち、棹が水平になったときの電流量からサンプルの重さを求めることができる。可変抵抗を手で調節しながら水準器の気泡が移動するのを観察するので操作に慣れが必要だが、十分な精度で秤量できるようになった。


 一番最初に得られた候補分子、マウスに皮下注射した際に炎症反応を引き起こしてしまったため一旦ペンディングされていたやつを改めて試してみたが、やはり毒性が強かった。

 希釈系列の実験結果の上に引いた検量線から、体重比の投与量約20mg/kgを毎日一回注射すると10%のマウスが皮膚に炎症反応を示し、また約600mg/kgで半数のマウスが死亡することがわかった。B菌を接種したマウスに400mg/kg投与したら九日以内に10匹中4匹が死亡したが、十日目に生き残った6匹のマウスの肺内の菌の量を調べたら、3匹のマウスにおいて半分以下に減少していた。100mg/kg投与した場合には、10匹中3匹が死亡し、肺内の菌量に有意な変化は認められなかった。A菌を接種したマウスに同じ濃度で投与したら十日後まで10匹中3匹が生き残り、その3匹とも肺内の菌の量は大きく減少していた。100mg/kg投与したら、10匹中10匹とも死んでしまった。

 とてもじゃないがヒトに試すことはできない。

 薬剤の効果、安全性の指標として、治療指数、あるいは安全係数と呼ばれるものがある。薬を投与された動物の半数が死亡する用量である半数致死量(LD_50)と、投与された動物の半数が最小限以上の効果を示す用量である半数効果用量(ED_50)の比だ。あるいは、ヒトに投与した場合の、望まない効果が半数で認められる用量(TD_50)と期待された効果が半数で認められる用量(前述のものと同じくED_50と書かれる)の比を用いることもある。いずれ恣意的なもので、その値によって何かが決まるわけでもなく、その薬がどれだけ安全か、あるいは注意して扱わなければならないかを示す指標でしかないが、今回試した物質はその治療指数を計算するのすら難しいほど毒性が強いということだ。

 次に、庭の土から単離された、なんか黒くて細かい蜘蛛の巣みたいなコロニー作る菌から精製した候補物質を試した。これは弱酸性条件では高い殺菌作用を示すのだが、中性条件ではその効率がガックっと落ちてしまうものだった。ただし中性条件下で不可逆的に失活するわけではなかったので、もし肺内の病原菌が繁殖している箇所で局所的に酸性になっていたりしたらと期待して、同じように希釈系列作って注射してその効果を調べた。しかしやはりマウスの体内では失活しているのか、LD_50はおよそ2600mg/kgで、またいくら投与しても肺内の菌の量に有意な減少は認められなかった。

 候補物質の化学構造がわかれば、例えば既知の分子と比較して毒性を持っている部分の検討をつけて修飾し、その毒性の失活を試みるだとか、または化学的により安定になるように修飾してその殺菌作用がpHに依存しないようにできたかもしれない。あるいは作用機序を調べて、その物質がバクテリアだけに効くものなのか、真核生物にも作用してしまうのかを明らかにすることもできたかもしれない。現代科学が成したあれやこれやの手法が使えれば。

 しかし、現代科学の各種分析器が使えなければ化学構造の解析すらできない。高校までの化学の教科書には分子に含まれる各元素の構成比を調べる手法が載っていたかもしれない。よしんば元素の構成比が判明したとして、しかし有機分子というのは同じ元素、大抵は炭素酸素水素窒素それに硫黄だのリンだの、を様々に組み合わせるから、その化学構造を決定するのは難しい。X線回折のためにX線発生装置を作る?何年かかることか。

 動物実験をしてわかったのは、抗生物質とその生産菌の探索はやはりなかなか難しいということだった。抗生物質、化学的に安定で生体内でも簡単に変性したりせず、一般のバクテリアにあって真核生物の特に哺乳類にはないプロセスに特異的に作用し、その結果バクテリアの増殖が強く阻害されるもの、そんなものを大量に生産するバクテリアを探し出そうというのだ。運ゲーだ。

 同時に走らせる実験の数にだって限りがある。肺炎モデルマウスと対照群を用意する、希釈系列を作って数十匹のマウスを拘束し注射するのだって、だんだん慣れて手際が良くなってきたとはいえ、それでも何時間もかかる操作だ。手伝ってもらおうにも、ジエチルエーテルや微生物を安全に取り扱うには専門的な科学知識がいるし、そうでなくてももうすでにマウスの飼育、各種試薬の調整、冷凍庫やオートクレーブ、遠心機の運転などに屋敷の使用人や工房の職人たちが多数手伝ってくれている。マウスの数も、勝手に増えるとはいえ、スペースと飼育係の手数的に同時に飼育できる限界数がある。希釈系列の3つの濃度を10匹づつ、A菌とB菌を接種したマウスと対照群のマウス、合計90匹を毎日注射して体重測って、死んだら解剖して肺や肝臓摘出して重さ測って、肺内の菌量を測るためにホモジナイズして希釈系列作ってアガープレートに塗布して。一つの候補分子を試すのにも最低でも十日以上かかる。時間がいくらあっても足りない。

 前回の話でも述べたように、新規の抗生物質の探索というのはラボ全体、研究所全体で多額の研究費と長い時間をかけてやるような仕事なのだ。


 腕時計を担保に融資してもらって、不治の病に対する特効薬が完成すれば資金を回収できると研究を始めた。抗生物質の生産は全然目処も立たないが、しかし返済に関しては解決した。研究のために開発した各種装置が売れて研究費分まで回収できた、わけではない。

 緩速ろ過水槽をはじめ、低温度差スターリングエンジン、揚水ポンプ、蒸留装置、鉛蓄電池とモーター、自転車、製氷機とそれで作られた氷など、どれも商売としては順調で、どこから噂を聞きつけたのか、遠方から買い付けに来る客もいるそうだ。

 順調に売れているのはいいが、元々の技術レベルを超過している装置なので、生産コストも運用コストも高くついてしまう。ものによっては商品を売っておしまいではなく、技術者が通いで面倒を見る必要がある。どれも高額商品だが、黒字がでかいわけではない。数が売れるわけでもない。

 それでも数年間商売を続けていけば、開発コストも十分に回収できるだろう。高精度の工作が必要で工作機械の開発から始め、浄水槽や共通の測量器を導入したりもした。各工房で使用するエタノールを供給するための醸造所も作った。試作をして、不具合を探して、改めて作り直して。そんなわけで設備投資も開発にかかったコストも結構な額で、だから各装置の商売で最終的にそれぞれの元が取れるというのは十分に成功していると言える。

 しかし彼の研究費までは賄えない。実験機器の分がなんとかなったとはいえ、そのラニングコスト、さらに試薬の材料費だのマウスの飼育代だの、相当の額が必要だった。現代社会ではわりかし簡単に手に入るようなものでも、高級品だったりそもそもどこにも売っていなくて、産出地探しから始めて適当な業者に採掘を頼まなければならないこともあった。おまけに輸送手段も未発達で。

 発電できるようになって様々な化学物質の生産手段も選択肢が増えた、が、電力を用いる過程を実装するためにはそれ相応の発電所を作るところから始めなければならない。まだ青写真の段階だ。

 そんなちょっとシャレにならない額の彼の研究費分を稼いだのはスズだった。

 少女が屋敷の使用人たちに教えたカードゲームが人伝に伝わって評判になり、そこでカードデッキ(フランス式の52枚+ジョーカーカードのやつ)といくつかのルールを収録した本を出版したところ大ヒットになったのだ。トランプがいつの間にかなまってタランピと呼ばれていた。カードゲームの諸々のルールは長い時間をかけて世界中で様々なバリエーションが生まれ淘汰され洗練されてきたものたちだ。単純に見えてなかなか奥が深く、この世界では比類なきものだった。

 また、タクミが作った機械群と違い、本もカードもこの世界にもともとある技術で生産可能だったから、開発コストなんてものはかからなかった。識字率もそれなりに高く、都市部には貸本屋なども存在したので広くに浸透した。近隣の街ではどこでも好評で、遠方にも少しづつ伝わっていっているらしい。

「本当に良かったの?」

 バルコニーのデッキチェアの上で毛布に包まって星空を眺めながら、タクミはスズに尋ねた。今日の夕方ラボから戻ったら、少女とセンセアから出版で得られた利益を彼の研究費と今までの融資の返済に充てることにしたと聞かされたのだ。

「もっと、自分のために使っていいんだよ?」

「いっても、タクミさんがやってるのだって、私の病気治すためなんだから、結局私のためだよ。それに、他に使い道もないし」

 街明かりが少ないので頭上には満天の星空が広がっている。天の川も見える。けれど、元の世界にあった星座はひとつも見つけられなかった。この星は太陽系とは離れた場所にあるのだろう。

「それに、私だって結構心配してたんだよ?センセアさんもバートルさんも本当によくやりくりしてくれてるみたいだけど、メグさんいないのに、できることも限られてるし。結構色々切り崩してたみたいだから」

 屋敷から融資してもらっているが、屋敷の資産は現金や預金よりも領地や建物、美術品などの固定資産や領地の産物などの棚卸資産が主だったから、タクミが何かを買いたいと言っても(それは結構な値段のものだ)そのままお金がぽんと出てくるわけではない。主人に無断で固定資産を売っ払うこともできない。

「もしこのまま薬が完成しなかったらさ、そん時はタクミさんの腕時計を売るっていっても、そういうの、色々面倒なことがあるでしょ」

 少女が心配しているのは自身のことよりも彼のことだったらしい。病気のこと、余命のことを意識していないのだったらまだいい。しかし、少女は最近たまに何かを諦めているかのような物言いをすることがあった。そのたびに彼は胸を締め付けられるような感覚に襲われた。

「まぁなんとかなるでしょ。装置は全部揃ったから、あとはただひたすら実験やるだけだもん。今まで開発に取られた時間もこれからはもっと実験に回せるんだし」

努めて明るく、なんでもないことのように言ったが、彼自身はなんとかなるだろうと楽観できるわけがない。運が良ければ少女の肺炎を治す薬を生産できる。そのための枠組みも整えた。運が良ければ、だ。期待値がどれほどのものか、誰も知らない。

 少女が小さく咳をした。明かりがないのでよく見えないが、呼吸音は落ち着いているようだ。

「ねぇ、薬が完成してスズの病気が治ったらさ、僕らもちょっと旅行に行かない?」

「旅行?」

「うん。うちの工房の製品とか、スズの本が他の街でどんなふうに売られてるのかも見てみたいし、もしできるんならメグさんたちが今どうしてるのかも知りたいじゃない?」

「それは、楽しみだね」

 きっと楽しいに違いない。凸凹の道を馬車で行くことになるから、サスペンションを開発するのもいい。内燃機関を開発するのはちょっと時間がかかりそうだ。産業革命以前の長閑な農村を通り抜けて、旅人たちが歌う見知らぬ歌を聴きながら、まだ見ぬ世界のざわめき香りを抱きしめに。


 冷却機が完成し、試薬や試料を簡単に保存できるようになった。真空ポンプと組み合わせてフリーズドライもできるようになり、精製した菌の分泌分子を乾燥粉末にできるようになった。肺炎モデルマウスを作り、抗生物質の候補分子の評価を動物実験でできるようになった。ラボにおいても工房においても大きな事故もなく、おおよそ計画通り、順調に進んでいる。

 望んだものはまだ手に入らない、手がかりもない。

 言ってしまえば、彼がやっているのは宝探しみたいなもんだ。地図はない。微生物は、単細胞性の真核生物は古細菌はバクテリアは数え切れないほどの種類がいて、その中から望む特性を持つものを見つけ出そうというのだ。適当に地面掘って温泉掘り当てるよりかは期待値は高いだろうが。

 タイムリミットは少女の体力が保たれている間。

 別に、少女の治療に間に合わなくても、研究を続けることはできるだろう。彼だっていつ何かの病気に感染するかもわからないし、そのときのために備えて抗生物質を用意しておくのは実際悪くない。この世界に来てからそろそろ300日だ。しかし元の世界に帰れる目処は立っていない。あとどれだけここに留まるのかも知れない。融資を返済するという意味でも、最後までやり切るのが望ましい。心が折れなければ。

 少女がいなくなったとき、果たして彼はこの宝探しのような、何の結果も約束されていない仕事を続けることができるだろうか。

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