9. 分離精製

 抗生物質生産菌の探索を開始し、disk diffusionテストでポジティブな菌株が見つかり、さらにその培地をろ過した溶液は殺菌作用を示したが、しかし同時に毒性もあった。一種類のカビが生産する二次代謝産物が一種類だけというわけはないし、その中にバクテリアに効くものと哺乳類に効くものが混ざっていたのかもしれない。そこでタクミはその殺菌作用を持つ物質を生化学的に単離することにした。有機化合物は多種多様で、見た目が似ていても全く異なる生物学的な活性を持ち、また化学的な性質もわずかに異なる。強熱で失活してしまうから分留などできないし、簡単に結晶化できるとも限らないから、溶媒抽出法やカラムクロマトグラフィーなどを使った。水溶液と疎水性溶媒を攪拌したら疎水性溶媒側に移行するだとか、それが水溶液のpHに依存するだとか、シリカジェルに吸着するだとか、そういうのだ。いろいろな条件による精製を試せるだけ試して、最終的に毒性がなくて殺菌作用があるものが得られれば良い。試薬は徐々に揃いつつあるし、エタノールを硫酸で脱水縮合してジエチルエーテルも用意できた。石英を溶かしてシリカジェルも用意できた。遠心分離機も足こぎ式に改良して、それに使用人や工房から見習いに来た職人が手伝ってくれるようになった。分光光度計も質量分析器もNMRもないから、各操作の前後で何がどう変わったのかもわからず、全てが手探りだったが、元来サイエンスは手探りの方法論なのだ。それに、目的は分子構造の決定でも生化学的な性質の解析でも作用機序の研究でもなく、ただ抗生物質として使えるかどうか、殺菌作用を持ち哺乳類の生体には強い毒作用を持たないということだけが判別できればいいのだから、ただひたすらに手を動かすだけだった。条件を少しづつ変えてあれこれ試して、毎日その繰り返しで、とうとうそのカビの培養液から殺菌作用を持つ物質と毒素とを分離することはできなかった。


 二つのバルブをうまいバランスで開けて、温かなシャワーを浴びた。揚水ポンプから送られた水が太陽光パネルを通る間に温められて、保温槽に貯められており、それを別の貯水槽の常温の水と混ぜながら出す仕組みだ。もちろんどちらも浄水である。緩速ろ過水槽はラニングコストが低いといっても、この世界ではやはり贅沢なことだった。

 石鹸でバサバサになってしまった髪に、丁寧に自作コンディショナーを揉み込んだ。日本にいた頃にも一度コンディショナーを自作したことがあり、その時はクエン酸やグリセロールなど市販のものを使ったが、その材料の用意からすることになった。クエン酸は英語でシトリックアシッドで、その名の通りシトラス、特にレモンやライムに豊富に含まれる。酸味の強い柑橘の絞り汁に水酸化カルシウムを混合し、クエン酸カルシウムの沈殿を得た。その沈殿を希硫酸に溶かすと、硫酸カルシウムが沈殿しクエン酸が再び溶け出す。グリセロールに関しては、パーム(のような果実の)オイルを水酸化ナトリウムで加水分解して得た。グリセロールは水溶性なので水層に溶け出し、疎水性の層には石鹸ができる。水にクエン酸にグリセロールに少量のパームオイルに柑橘の皮から抽出した油分と香料を混ぜて、石鹸のせいで塩基性に寄った髪を中和するように調整して、コンディショナーの完成だ。

 頭から体全体を流して、シャワーから上がり、白いタオルで体を拭いた。

 ちなみにこのコンディショナーはまだ商品化していない。水酸化ナトリウムも硫酸も工業生産化できていないので材料を大量生産できないのだ。すなわち、そのコンディショナーは本来は研究のために集めた素材を流用して作った、屋敷でも彼と少女だけが使う贅沢品だった。居候の身で、研究のために借金までしていて、それなのに贅沢をするのはと言われるかもしれないが、少女の症状を進行させないためには、そしてほぼ一人で研究を続けるためには精神的なストレスもできる限り排除したかったのだから、仕方ない。

 研究は、行き詰まっているというわけではないが、しかしこのところ目覚ましい進展もない。

 最近彼はカビの培養液から抗生物質を単離しようと色々試しているところだ。まずは溶媒抽出法で抗生物質の精製を試みた。溶媒抽出法とは、水と油のように互いに混じり合わない二つの溶媒を攪拌し、溶質をそれぞれの溶媒への溶解度の差によって移動させる手法で、もともと一つの溶媒に溶けていた複数種の溶質をそれぞれの溶媒に溶けやすいものに分離することができる。さらに、温度やpHなどの条件によって溶質のそれぞれの溶媒への溶解度が変化する場合には、様々な条件で溶媒抽出を繰り返すことによってその条件の数だけ細かく分けることができる。

 有機化合物は炭素水素酸素窒素硫黄リンその他でできていて、ぱっと見には互いに似たようなものも多いが、たった一つの官能基の違いが大きくその機能に影響する場合だってあるし(例えばDNAとRNAとか)、もちろん化学的な性質にも影響している。未知の化合物の未知の化学的な性質にちょうど合うような条件を手探りで探していかなければならないのだ。当然簡単に終わる話ではなく、もう何日も似たような操作を条件を少しづつ変えて繰り返している。シャワーと美味しい食事と暖かい寝床がなかったらきっとその仕事を続けることはできなかったろう。

 夕食の後、部屋でお茶を飲みながら少女と静かに互いの近況などを話した。

「それでね、トランプ作って、いくつかルール教えて一緒にやったんだけど、みんなどハマりしたの。まずは簡単なのからと思って、七並べとババ抜きやったんだけど、大人の人でもあんなに真剣になるんだねぇ」

「へぇ」

「最初はソリティアのなんかやろうってくらいのつもりだったんだけど、メーイさんとフロイさんと七並べやってるところにバートルさんがフロイさん呼びに来て、それでそのあとはフロイさんとバートルさんが入れ替わって」

少女は厚紙を切って54枚組プレイングカードを自作し、世話に訪れたメーイやその他の使用人達と遊んだらしい。この世界にも似たようなカードゲームは存在したが、そのカードは朝昼夜の三つと花や山、川、鹿などの12のモチーフを組み合わせた36枚組のもので、ゲームの種類はそれほどないらしかった。多分、カードの間に明確な順序関係がないせいだろう。プレイングカードは絵札以外は数をシンボルの数で表すから、初見の人たちにもとっつきやすかったのかもしれない。

 周りに同年代がいないというのもあるのかもしれないが、少女はあまり大人に甘えるという態度は見せず、どちらかというと対等の関係でいることが多かった。また使用人達も、彼らが屋敷に来た当初こそ少女を子供として扱っていたが、最近ではその気配もないようだ。

「トランプ、どんなゲーム知ってる?」

「神経衰弱でしょ、大貧民でしょ、ポーカーでしょ、ダウトでしょ、フリーセルでしょ、ピラミッドでしょ」

「ブラックジャック、ジンラミー、セブンブリッジ、ナポレオン、マジックザギャザリング」

あいにく彼のジョークは通じなかった。

「タクミさんの方はどう?」

「うん、今爆薬作ってっとこ」

「え?」

「爆薬。急激な燃焼反応で熱とか高い膨圧とか爆炎を巻き起こす物質。ドッカーンて」

「え、なんで?爆薬、何に使うの?」

少女には時々、夕食後のお茶のときやその他の暇があるとき、少女が理解できる範囲で彼が何をやっているのかを教えていたから、少なくとも製薬そのものの過程には爆薬などは必要とされないことは知っている。

「ジエチルエーテル、作ろうかなって。有機溶媒としてね。植物油で抽出できるかやってみたけど、やっぱうまくいかなくって」

ジエチルエーテルは二つのエチル基がエーテル結合した有機化合物で、無色透明の水よりも軽い液体だ。有機溶媒としての他に、麻酔薬や燃料の用途でも使われる。非常に燃えやすく、また、大気中の酸素や直射日光によって酸化されジエチルエーテルペルオキシド(やはり爆発性)を生成しやすいから、扱いには細心の注意が必要だ。エタノールを硫酸と混ぜ、湯煎で温めると、エタノールが脱水縮合してジエチルエーテルになる。揮発したジエチルエーテルを冷却して留出した。

 最初は食用の植物性油で溶媒抽出できないかどうか試してみたが、どうもうまくいかなかった。条件がまだちゃんと詰められていないのか、それともやはり植物性油では難しいのか、どちらかはわからなかったが、いずれジエチルエーテルで作業した方が効率もいいだろうし、合成もそれほど大変ではない。しかし、そういう説明よりも、少女にとっては最初に言われた爆薬という単語の方が印象が強かったようだ。それもジョークだったのに。

「その、それ、危険じゃないの?」

「ん?まあ、危険ちゃ危険だけど、大丈夫だよ。実験室で普通に使われてるものだし、うちでも使ってたし」

 実際に危険なのは危険物の正しい取り扱い方法を知らない場合だ。例えば液体窒素(超冷たい液体、-196℃くらい)を扱うときに軍手をはめるとか、ホルムアルデヒドの容器を開けたまま放置するとか、ピクリン酸の乾いた粉末が入った瓶を放り投げるとか。ダメ、絶対。


 試薬はそれなり揃った。水酸化ナトリウム、水酸化カルシウム、酢酸、クエン酸、リン酸、硫酸、塩酸、アセトン、グリセロール、エタノール、エーテル(ジエチルエーテル)。塩酸は、塩化ナトリウムと硫酸の反応により発生した塩化水素ガスを水に溶かして回収した。アセトンは、酢酸と炭酸カルシウムから酢酸カルシウムを、さらに酢酸カルシウムを加熱してアセトンを得た。ここまでは教科書的にこうすればできるとわかっている範疇だった。

 そしてここからは手探りだ。

 まず、硫酸や塩酸で溶液をおもいっきり酸性にした後再び水酸化ナトリウムとリン酸で中和し、殺菌活性が保たれているか確かめたところ、失活していた。以降、このカビによって生産される殺菌作用を持つ物質をXと呼ぶことにしよう。強酸によってX自身が変性してしまったのか、それとも他の変性したタンパク質などに巻き込まれて失活したのかはわからない。どこまでのpHなら活性が保たれるのかを調べるため、様々なpHまで一旦下げてから中和して活性の有無を液体培地への添加とdisk diffusionテストで確かめるという操作を繰り返し、pH指示薬が赤寄りのシアンを示すあたりで30分間静置すると活性が半分になることがわかった(二倍希釈しても十分な活性を示す濃度であれば、そのpHまで下げてから再び中和したときにも十分な活性を示したが、それ以下の濃度にすると有意に活性が下がった)。

 次に、溶液を一旦そのpHまで下げてからから水酸化ナトリウムと酢酸、クエン酸、リン酸を使って様々なpHに振ったものをそれぞれエーテルと攪拌し、軽く遠心して水層とエーテル層を分離した。水層をマイクロピペットで吸い出して、中和し、殺菌活性の有無を調べた。Xが水層に残っていれば活性があり、エーテル層に移っていれば活性はなくなっているはずだ。結果、pH指示薬が紫色の時は水層に残るが、それよりも低いpHではエーテル層に移っているらしかった。

 Xが水層に残るギリギリのpHで溶媒抽出を行い、その水層を吸い出して中和し、マウスに注射してみた。もしマイコトキシンがエーテル層に移っていて水層には残っていなかったとしたら、その水層には毒性がなくなるかもしれない、という期待を持ってやってみたのだが、注射されたマウスの皮膚に炎症反応が認められてしまった。つまりダメだった。

 それならばと今度はXがエーテル層に移るギリギリのpHで溶媒抽出を行い、そのエーテル層を吸い出して、およそpH7.2のリン酸緩衝液と攪拌し、軽く遠心して、水層を吸い出した。もしマイコトキシンが最初の抽出でXがエーテル層に移るとき水層に残されていたとしたら、最後に得られた水層にはXは含まれるがマイコトキシンは除かれているかもしれない。しかしまた毒性が認められてしまった。マイコトキシンがXと同様にエーテル層と水層の間を行き来したか、マイコトキシンは複数種含まれていて、弱塩基性条件で水層に残るものと、一旦エーテル層に溶けるが中性条件では水層に戻るものがあったのかもしれない。それか、X自身に毒性があるか。

 今度はXをエーテル槽から水層に戻すときに水層のpHを7.2付近ではなく、Xが水層に残るギリギリの値にしてみた。しかしダメだった。自作のpH指示薬ではそれほど正確にpHをコントロールすることもできないし、条件が甘かったのかもしれない。溶液のpHを振る際に塩酸酢酸クエン酸リン酸の比率を変えてみたり、溶液に塩化ナトリウムを加えてみたりもした。温度を変えてみたりもした。しかしやはりダメだった。

「っかしーなー、なんで分離できないんだろ」

 そうぼやきつつ、彼自身本当におかしいなどとは思っていない。実験がうまくいかないなんてとても普通のことで、うまくいかない理由にだっていくつか心当たりがあるし、しかも今ある器具設備試薬だけではどうしようもないことだってわかっている。

 難しい顔をして飼育カゴのマウスを見下ろす彼に、後ろから見習いのスチューダがどうかしたかと声をかけてきた。彼女は樹脂の加工を行っている工房の職人で、タクミがラボで行っている様々な化学合成や工作を学ぶためにお手伝いに来ている。見習いと言ってももう30代前半で、工房ではチーフディレクターみたいな立場だったのが、強い好奇心から是非見習いをやらせてくれと自ら来たのだ。手先が器用で、注意力もある。有毒ガスや爆発物が関わるものは触らせてあげられないが、いくつかの比較的安全なプロセスを少しづつ教えながら試薬の生産などを手伝ってもらっている。

「うん、ほらここ。赤く腫れちゃってるでしょ。まだ薬と毒を分離できてないんだ」

 溶液を注射したマウスの皮膚を見せると、スチューダは不思議そうな表情をした。

「これは、どれくらい強い毒なんですか?もし肌が腫れるだけだったら、それで病が治るのだったら、病で死んでしまうよりかは良いのではないですか?」

「それは危険かな。この肌が腫れてるのはあくまでこの毒の症状の一つで、他にどんな影響が出てるかもわからないんだ。それに、この薬で本当にスズの病が治せるのかも、例え治せるとして、どれくらいの量が必要なのかもわからないし、たくさん必要だってなったら弱い毒でも無視できない。このマウスは健康な状態でこれだけ影響が出てて、けど病人は体も弱ってるし」

 例えば肺炎で余命一年の患者を治して、その二年後に薬の副作用で亡くなってしまったでは治療とは言えない。スチューダには分子だの原子だのというミクロの世界の知見はないし、そこへミルクティーをミルクとお茶に分けるみたいな話をしてもあまりよく想像できないのだろう。

「では、その毒を解毒することはできないのですか?私の郷にはトトリカブという野菜があるのですが、それは生のままでは毒があって、すり下ろしてから水にさらして一晩置いて毒抜きするのです」

「毒がどんなやつなのかわかってたらいいんだけどね。解毒できる方法があるかもわからないし、当てずっぽうで試すよりかは分離する方法探す方が確実かな」

毒素を分解しようにも、少なくとも加熱や強酸ではXが失活してしまうから、試せる手段もそんなに思いつかない。

 そしてそれ以上に、彼の感覚では精製されていない有機化合物をそのまま薬として扱うことそのものに抵抗がある。もともとが菌の培養液なのだから、どんな酸化剤や酵素が混じっているかもわからず、ろ過滅菌してからも時間経過でXが変性してしまうかもしれないし、変なものが新しくできてしまうかもしれない。


 溶媒抽出法がうまくいかなかったので、今度はペーパークロマトグラフィーを試してみた。ろ紙の一端を液体(展開溶媒)に浸すと、展開溶媒はろ紙に染み込み、毛細管現象により上方へゆっくりと広がっていく。ろ紙にあらかじめ試料の溶液を滴下し染み込ませておくと、展開溶媒の流れに乗って溶液中に含まれていた物質もろ紙の中を移動する。その物質がどれくらい移動するかはその物質とろ紙を構成するセルロースおよび展開溶媒それぞれとの親和性によって決まるため、滴下された位置からの移動距離は物質毎に異なる。大まかに言って、物質がセルロース(またはセルロース周囲の水)にくっつきやすく展開溶媒に溶けにくければあまり移動せず、逆にセルロースから離れやすく展開溶媒に溶けやすければ大きく移動する。この移動距離の差を利用して物質を分離するのがペーパークロマトグラフィーだ。

 この方法もまた、展開溶媒の組成によって結果が大きく変わるから、いろいろな条件を手当たり次第試してみる必要がある。水に塩を加えたり、リン酸や酢酸やクエン酸を加えたり、グリセロールを加えたり。エタノールとエーテルやアセトンを混ぜたものを使ったり。酢酸とエタノールの混合液に硫酸を加えて加熱し、脱水縮合し揮発した酢酸エチルを留出して、それを他の溶媒と混ぜて使ったり。石鹸を混ぜたり。

 展開溶媒にろ紙を垂らして、pH指示薬の色が適当なところまで上昇するまで待つ。引き揚げたろ紙を細切れにし、順番にアガープレートの上に並べてdisk diffusionテストを行った。ペーパークロマトグラフィーがうまく行っていれば、Xのバンドを含む紙片だけがそのテストでポジティブな結果を示すはずだ。

 いろいろ試した結果、酢酸エチルと酢酸とエタノールを8:1:1で混合した展開溶媒を用いて、pH指示薬の少し上、滴下した位置からpH指示薬が移動した位置までの距離の8分の9あたりの紙片が最も強い殺菌作用を示した。そこで、同条件でともかく大量にクロマトグラフィーを行い、Xのバンドがあるであろう箇所を切り出して、0.9% w/vの食塩を含むリン酸緩衝液にXを溶出した。回収率はそこまでよくなく、原液と同程度の活性を得るためには、およそ8ml滴下して1mlの溶液に溶出しなければならなかった。

 それでもまだ毒性があった。

 理由は二通り想像がつく。一つ目の、嬉しくはないがまだマシな理由は切り出した紙片にXとマイコトキシンのバンドが両方とも含まれていたということだ。ただの直感だが、Xやマイコトキシンはそれほど大きな分子ではなく、きっと1kDa以下なのだろう。例えばペニシリンの分子量は243.26g/molで、同じアオカビ属の生産するシトリニンというマイコトキシンは250.25g/molだ(もちろん彼はそんな細かなことまでは知らないが、だいたいそんなもんだと想像できる)。Xとマイコトキシンが似たようなサイズで、そしてもしも持っている官能基も似たようなものだったとしたら、両者のバンドが近い位置に来るのも十分あり得る。そして、バンドを可視化していないから、紙片を切り出すときにどうしても広い範囲を含めてしまっている。もしかしたら使用している展開駅ではバンドが広がってしまっているかもしれない。しかし、可視化しようにも、ヨウ素(昇華性があり、その蒸気にさらされると一般の有機化合物のバンドは茶色に発色する)は入手できなかったし、あるいはUVランプとカメラを作るのもまず無理だ。また、回収率の低さゆえ、切り出すサイズを小さくして殺菌活性のある箇所だけを選ぶというのも難しかった。

 二つ目の、全く嬉しくない理由はX自身がマイコトキシンでもあるということだ。そうだったら本当にどうしようもない。


 溶媒抽出法でもペーパークロマトグラフィーでもダメだった、が、諦めるにはまだ早い。ペーパークロマトグラフィーで各バンドの空間的な分離と回収率が問題だったのなら、今度はより大きく分離し、かつ濃縮できるカラムクロマトグラフィーを試してみることにした。

 クロマトグラフィーとは様々な物質が溶けた液体または気体(移動相と呼ばれる)を適当な構造体(固体または液体)(固定相または担体と呼ばれる)の中を通し、物質ごとの移動速度の差を利用してそれらを分離する手法だ。ペーパークロマトグラフィーの場合は担体がろ紙で、移動相が展開溶媒として用意した酢酸エチルと酢酸とエタノールの混合液だった。簡便だが、移動相の移動距離はろ紙中を毛細管現象で吸い上げられる分だけだ。一方で、カラムクロマトグラフィーはカラム(細長い筒)に担体を充填し、展開溶媒を重力またはポンプによって送流する手法で、流した展開溶媒の全量がその移動距離になるからペーパークロマトグラフィーよりもずっと長いし、一度に分離できる試料溶液の量もずっと多い。

 カラムクロマトグラフィーで使われる最も一般的な担体はシリカジェルだ。石英の粉を水酸化ナトリウム水溶液に溶かしてケイ酸ナトリウムの水溶液を得た。これに塩酸を加えて酸性に振り、シリンジに詰めて細いニードルの先から温油中に少しづつ押し出した。ケイ酸溶液は油相の中で小さなビーズ形のシリカジェルになり、二日間熟成させたのち五日間かけてエタノールで洗浄し、最後に加熱乾燥した。

 カラムクロマトグラフィーに使うシリカジェルのビーズは日常で乾燥剤として使われるものよりもずっと細かい。まず最初はシリカジェル作成の条件を決めるために直径数ミリメートルの大きなビーズを作ってみた。無色透明なビーズは見た目も綺麗だからスチューダの興味をよく引いた。

「これは薬の材料なのですか?」

「違うよ。これはね、薬の溶けてる液を濾すのに使うんだ。もっと粒の小さいやつを作って、それをカラムに詰めて、その上から液を流すの」

「液を漉すって、あの液をですか?」

 スチューダは培養液の上澄みを見返しながら尋ねた。もとの培養液は菌が液中に浮遊していて不透明だが、遠心されろ過されているので上澄みは黄褐色の透明の液体だ。先日、チェーンと自転車の外装式の変速機が完成し、遠心機が足こぎ式になったのでだいぶ楽になった。ついでに、今その工房でホイールとフレームとハンドルとペダルと、つまり自転車を開発中だ。

 現代人の感覚からしても透明な液体を濾すというのはいまいちピンとこないかもしれない。実際濾すという表現はあまり正しくない。液体が不透明な場合、それは液中で分散相と呼ばれる微小な気泡、液滴、または粒子が光を散乱しているためであり、分散相は溶媒(連続相)に混ざっているだけで溶けてはいない。このような状態をコロイドという。例えば牛乳は水溶液に脂肪の液滴が分散したコロイドだ。コロイドをフィルターに通したとき、分散相の粒がフィルターの細孔よりも大きければ連続相と分離することができる。

 一方で液体が透明な場合、溶けている物質は可視光が散乱しない程に小さくて、つまり分子サイズで、つまり溶媒に溶けている。だからフィルターを通しても普通分離できない。スチューダも、そういったミクロな現象の知識はなくても、経験的に透明な液体をろ過することはできないと知っていたのだろう。

「なんて言えばいいのかな。薬もね、塩みたいに、水に溶けてるんだけど、水に溶けるってのはね、すごい細かい粒になってるんだ。でね、水に溶けてる状態でも、その小さな粒が容器の壁とかお互い同士とくっついたり離れたりを繰り返してるんだけど、どれだけくっつきやすいか、離れやすいかがその物質の性質によって違うんだ」

「くっつくって、でもこのシリカジェル?ガラスの玉は表面が滑らかですけど?」

「うん、でもその、溶けてる状態の粒のサイズからしたら、シリカジェルも実は細孔が空いてて滑らかではないんだけどね。例えば、ガラス瓶の壁面でも水と油でくっつき方違うでしょ」

「なるほど」

「それでね、シリカジェルにくっついてる間は動けなくて、溶媒に溶けてる間はその流れに乗って移動するから、シリカジェルとのくっつきやすさと溶媒への溶けやすさでどのくらい早く流れるかが決まるのね」

タクミが絵を描きながら説明するのをスチューダは熱心に聞いていた。

「では、その薬がいつカラムから出てくるかはどうやってわかるのですか?」

「それは普通わからないけど、だから、出てきた展開溶媒を順番に小さな容器詰めて行って、その中から目的のものを含むやつを探すんだ。今回はdisk diffusionテストすれば薬が含まれてるかどうかわかるからね」

「なるほど」

 彼女は学習に熱心で理解する力も高かった。彼がそのことを褒めると、彼女は素直に喜んだ。

「でも、もう少し早くに教わりたかったですよ。私も工房では見習いたちに教える立場なのですが、やはり歳が若い方がよく新しい知識を吸収しますよね」

「まあ、一般的にはそうかもしれないけど、結構できるもんだよ。僕にこのカラムクロマトグラフィー教えてくれた人はあなたと同じくらいの歳だったけど、どんどん新しいこと学習してたもの」

 院生時代、タクミに実験を教えてくれたポスドクの先輩はもともと物理学科の出身で、研究室では有機化学の研究をしつつ発生生物学も勉強していた。そしてそれは勉強が趣味なのだとかいう高尚でつまらない理由ではなく、その人の研究に必要だったからだ。研究職と開発職、それにシステムエンジニアはずっと勉強を続けるものだ。

 カラムクロマトグラフィーに使うシリカジェルのサイズは試料や目的によっても変わるが、だいたい0.5から0.01mmだから細かい砂の粒と同じかそれ以下だ。そのサイズの内径のニードルの作成は可能かとドワーフに聞いたら、躍起になって十日間かけて作ってくれた。

 ケイ酸溶液を15mlのシリンジにとって、ピストンを一定速度で押し込んで温油中に捻り出した。温油の容器はろくろの上に置かれていて、一定速度で回転させているので油相は渦巻いており、ニードルの先端にできたケイ酸溶液の液滴はある大きさになったところで流されて離れ、油相中でシリカジェルのビーズになる。顕微鏡もマイクロチャンネルの印刷機もないから出来上がったビーズのサイズが実際どれくらいなのかもわからないが、だいたい砂粒大にはできた。

 そのビーズをともかく大量に作り、内径3cm、高さ25cmのカラムに充填した。カラムの中に気泡があると流れが均一でなくなるとか色々な理由でクロマトグラフィーがうまく行かなくなるので、まずビーズをリン酸緩衝液に沈め、液ごとピペットで吸い出して静かにカラムに移した。

 展開溶媒には溶媒抽出法やペーパークロマトグラフィーで用意したものの他に、豆乳を塩酸で加水分解したアミノ酸の混合液も用意した。

 さて準備はだいたい整った。上にも述べたが、カラムの中を各物質が移動する速度はその物質と固定相、移動相それぞれとの親和性によって決まる、ということは、展開溶媒を変えればその速度も変わる。さらに、ペーパークロマトグラフィーと違い、途中で展開溶媒を変えることもできる。そうすれば、溶媒抽出法のように、まずXと親和性の低い展開溶媒を流すことでXは担体にくっついたまま、もとの試料溶液に含まれていた他の物質でその展開溶媒と親和性の高いものが流れる。その次にXと親和性の高い展開溶媒を流すと、Xを含む担体にくっついていた物質が順次カラムから流れ出てくる。そして、溶媒抽出法と違い、よく似た性質を持つ物質同士でも、担体、展開溶媒との親和性の僅かな違いが移動速度の違いになり溶出順の違いになるのだ。つまり、カラムクロマトグラフィーは溶媒抽出法とペーパークロマトグラフィーの良いところを合わせたような手法なのだ。カラムさんはすごいのだ。

 カラムは底面に展開溶媒が抜ける出口とバルブ、その上に担体のビーズが落ちないようにフィルターが付いている。カラムは30cmの高さで、担体は25cmの高さまで充填されている。使用していない状態ではバルブは閉められていて、カラム内は液で満たされ、上面も蓋がされている。

 実験を行うときは、バルブを開けて担体がいつも水面下になるように気をつけながらサンプルと展開溶媒を順次カラムの上から注ぎ、下から出て来た液を小瓶に小分けにとっていく。実験がうまく行っていれば、もとのサンプルに含まれていた物質がそれぞれ異なる小瓶に振り分けられるはずだ。

 まずはXと親和性が高い展開溶媒(溶媒抽出法での経験からわかる)を用いて実験を行い、Xがちゃんとカラムから流出することを確かめた。次に、展開溶媒を様々に変えて、Xが出てくるタイミングが変わることを確かめた。もしいつも同じタイミングで出て来たら、Xはシリカゲルに一切結合せずそのまま流れ出ているということだから、逆に展開溶媒によって溶出のタイミングが変われば、実験がうまく行っていると期待できるだろう。

 溶媒抽出法やペーパークロマトグラフィーのときは溶液の組成やpHを色々変えて試してみたが、カラムクロマトグラフィーではさらにそれぞれの溶液をどれくらいの量流すかというオプションが加わるから、試すべき条件はさらにさらに多い。カラムを何本も用意して、使用後の洗浄などはスチューダや手伝ってくれる使用人に任せ、ひたすら実験を繰り返して最も効果的にXとその他の物質を分離できる条件を探した。

 小瓶に分けられた液をろ紙の小片に染み込ませて、元の小瓶と対応がつけられるようにアガープレートの上に順番に並べてdisk diffusionテストを行った。そこでポジティブだった小瓶の液から希釈系列を作って液体培地中で有効な殺菌作用を持つ濃度を求め、さらにそれをマウスに注射して毒性の有無を調べた。

 それでもやっぱりダメだった。適当に当たりをつけて色々な条件を試して、それでもXとマイコトキシンを分離することはできず、殺菌作用を持つ溶液をマウスに注射すると炎症反応がでてしまった。

「えー?なんでぇ?なんでうまく行かんのぉ?うんち!うんち!Shit! Merde! Scheisse! 牛のうんちっち!」

彼は元の世界の言葉で悪態をついていたから、スチューダには何と言っているのか理解できなかっただろう、マウスの様子をノートに記録する彼の後ろから覗き込んで尋ねてきた。

「何かあったのですか?」

「ううん、実験がね、全然うまく行かないの。ほらここ、炎症反応起こしてるし、こいつら下痢してるし、むしろ前のよりも毒性強くなってるようにも見えるんだよね」

もともとカラムクロマトグラフィーの原理の簡単な説明と期待していた結果を聞かされていたからか、彼女はいまいち了解しない表情で彼の手にぶら下げられたマウスの皮膚をあらためた。

「ええと、これは失敗なのですか?」

「まぁ、うん、そうね。何か気になる?」

正確には、実験は失敗してはいない。ただネガティブな結果だったというだけだ。怪訝そうに首をかしげる彼女に逆に聞き返すと、彼女は顔を上げて答えた。

「いえ、あの、タクミ様が全く残念そうにしていないので私の聞き間違いかと」

そう指摘され、彼は思わず自分の頬に触れてみた。彼はもともと感情を表に出す方ではないが、しかし抑えていたわけではなく、実際指摘された通り全く残念とも思っていなかった。別に人の心がないわけじゃない。普通に嬉しがったり悲しがったりするし、どころか好きなもの、例えば推しカプのてぇてぇ絡みの前ではいとも容易く感情になったりする。実験が思った通りの結果を出さなかったことに無感動だったのは、それが当たり前のことだったからだ。良い結果を期待していて悪い結果が出れば落ち込んだりしたかもしれないが、もともと彼は期待なんかしていなかったということだろう。

「いやそんなことはないよ。そりゃ残念だけど、でも、落ち込んでても良いことないし」

 彼が適当にそれっぽいことを言えば、彼女も納得したように頷いた。落ち込んでも良いことがないというのはその通りだし、逆に気合を入れてもやっぱり良いことはない。根性論は全く意味がない。科学するというの感情のないマシーンになるということかもしれない。


 暗赤色の豆を鍋で煮て、沸騰したら差し水をして火を止め、10分ほど蒸らす。一旦お湯を切り、再び豆が浸るくらいまで水を張ってから弱火でコトコト煮る。芯がなくなったら火を止めて鍋に蓋をし、今度は20分ほど蒸らす。お湯を切って、豆の煮る前と同じ質量の砂糖を鍋に放り込むと、後ろで見ていた料理人が息を飲んだ。再び火にかけて、適宜水を加えながら木べらでかき混ぜて豆を適当に潰し、粒餡ができた。

 今度は鍋に寒天を溶かし、粒餡を加えて中火で軽く煮詰め、木枠に流し込む。冷めて固まったら枠を外して、適当な大きさに切り、米粉を水に溶いた生地を角面につけて、フライパンで弱火で焼いた。きんつばの完成だ。

「スズ、誕生日おめでとう。小豆とちょっと風味が違うけど、これはこれで美味しくできたよ」

 お昼の後に出したら、少女は目を輝かせて大喜びした。

「すごい!ありがとう!あ、ほんとに美味しい!わー、嬉しいな。和菓子がまた食べられるとは」

 今日は少女の誕生日だったので、週の中日だったがタクミも一日休日にして、一緒に過ごすことにしたのだ。屋敷の料理人たちも特別に豪華なご馳走を用意してくれた。庭師も大きなアレンジメントを作ってくれた。

 この世界に来てから半年が経過した。少女が肺炎を患って、抗生物質の精製を試みたが未だに成功していない。殺菌作用を持つ物質を生産する菌株の培養には成功したが、その培養液は同時に毒性も持っていた。そこで、両者を分離しようと、まずは溶媒抽出法を試したがうまく行かなかった。次にペーパークロマトグラフィーを試し、カラムクロマトグラフィーを試しやっぱりうまく行かなかった。

 吸光度の測定も質量分析もX線結晶構造解析もNMRもその他の色々な方法もできないから、目的の物質が単離できているのかも、どんな分子構造をしているのかも何もわからない。もしかしたら、殺菌作用を持つ物質X自身が同時に哺乳類に対する毒性も持っているのかもしれない。

 そろそろ、このまま分離精製の条件を詰める作業を続けるか、それとも新しい抗生物質生産菌株の探索に舵を切るかを考えなければならない。実験は全て手動だし、その他にもまだ様々な実験器具の開発を続けているので、そんなに多くのことを同時並行で進められない。屋敷の使用人や工房の職人が手伝ってくれているが、それも例えばオートクレーブの火を焚くだとか遠心機のペダルを漕ぐだとか簡単な試薬の合成を手伝ってくれるとかで、実験のコアの部分はまだ任せられない。

 お茶を飲んだ後、二人して庭を散歩した。少女はまだそこまで体力も落ちていないはずだが、甘えているのか彼の腕をとって体重を預けてきた。彼も少女の好きなようにさせた。気恥ずかしさよりも、少女の身体が軽いことに驚いた。以前はこのように甘えられたことはないから比べることはできないが、頬は首は腕は痩せたように見える。

 東屋のベンチに並んで腰掛け、久しぶりに元の世界のことを話した。たった半年前のことが、もう遠い昔のことのようだった。

「去年はね、友達とカラオケでパーティーしたな。みんなでそれぞれケーキ買ってきてさ、一口づつ食べて誰のが一番美味しいか競ったりしてさ。それで、カナちゃんて子が、私のショートケーキの苺食べやがったの、私の誕生日だったのに。なんでショートケーキって苺一個しか乗っけないんだろうね」

「なんでだろね。タルトみたいにいっぱい乗っけてくれるとこもあるけど、コムサだったかな?」

 空は晴れていて、空気は暖かく、そよ風が心地よく、静かで、世界は全く平和だった。

「みんな元気にしてるかな」

 青空を仰いで呟く少女に、彼は曖昧に頷くことしかできなかった。

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