第8話 それぞれの決意

 朝、ムクドリが鳴く声でディーンは目覚めた。彼はクローゼットにあった仰々しいセンブリが来ていた軍服を見てため息をつき、裾を折ってそれを着た。彼にはその軍服は窮屈だった。顔を洗い、やることもないので戸棚にある本を読んだ。さすがだ。カントがある。ヘーゲルがある。ソクラテスがある。ディーンはすっかりその世界に没入した。


 一時間後に扉を叩く音がした。扉を開けるとセンブリが昨日とまったく同じように面白くもなんともないといったような顔で立っていた。


「眠れたか?」

「まあまあ」

「朝食を用意したので食べなさい。好き嫌いはないな」

「ないですね」

「ならいい」


 朝食は豪華だった。数種類のパンにほかほかのオムレツ、ハム、サラダにアサリのクリームシチュー、パイナップルとキウイとイチゴがついていた。


「ネズ公が来てもやらなくてもいいからな」そういってセンブリは扉を閉めた。

「あと一時間後には仕事だ」

「はい」ディーンには何かしら不思議な使命感が芽生えていた。


 きっかりその一時間後、彼は書類と本の束を前にしていた。

「暗号は得意か?」とセンブリが言った。彼が荷台を使ってここまで書類を運んできたのだ。

「わかりません、まあまあですかね」

「まあよい」彼は仏頂面を続けたまま言った。

「実はこれらは一般には単なる物理論文や言語解説本だが、暗号が隠されている。それを解読して欲しい」

「いつまでに?」

「特に期限はない。そんなものあっても仕方ないだろう、ただしあまりに遅いと君は首だ」

「どれくらいで?」

「それはティム様が決めることだ」

「わかりました」

 彼は書類の束を開き、文字の海へと入っていった。




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 同時刻、ムクドリの鳴く場所でシドは目覚めた。目を開けると一面に青空が広がっていた。


「なんだここは?」


 急いで彼は起き上がった。布団はあるが、よく感じるととても寒い。しかもなぜか隣に義弟の婚約者であるレベーカがすうすうと眠っている。彼女の寝顔は安らかで、大事そうに本を抱えて眼鏡をかけたまま眠っていた。彼には訳が分からなかった。とりあえず深呼吸をし、布団から出た。地面に足を延ばし、大きく伸びをした。いい天気だった。こんな状況でなければ彼はとても気分が良かっただろう、彼にはここが何処かさえわからなかった。


 そこは林の中の動物も人もいない崖に近い外れで、キッシンジャーが力尽きて到着した場所だった。シドはレベーカを起こすかどうか迷ったが、とりあえずこの場所を散策することにした。レベーカを見失わないように円状にぐるぐると散歩してみたが、クスノキが生い茂るばかりで特に何もなかった。動物はおろか道中に一匹の虫にも出会わなかった。外は寒かった。もう一度布団に入りたかったが、いかんせんレベーカのことを考えるとはばかられた。義弟の恋人に手を出すほど後味の悪いものはない。やはり迷ったが、彼女を起こすことにした。シドはレベーカの頬を何度か叩いた。


「レベーカさん、レベーカさん」


ん、と声がして相手は瞼をぎゅっとしぼめ、半分目を見開いた。


「レベーカさん、起きてください、俺ですよ」

「シドさん」彼女はゆっくりと起き上がった。瞼はまだ半分開いていない。

「俺です、わかりますよね。ここはどこなんです?」

「貴方は命を狙われたの」

「左様」キッシンジャーが口を開いた。シドは心臓が飛び出るほど驚いた。

「何者だ?」

「落ち着いて。彼、キッシンジャー様よ」

「キッシンジャー?」シドは怪訝な顔をした。

「キッシンジャーって、あの、親父の親父、元首相ですかい?」

「左様」重々しくキッシンジャーは言った。

「長い間説明をしていなくて申し訳なかった」と彼は語り始めた。

「お前は儂の息子、お前の父の兄だな、ティムに命を狙われておる」

「ティムって……あのティム様ですか?」

「左様。あの現首相のティムだ。おおかた次の王座に就かせるのをティムの息子、お前のいとこにしたいのじゃろう、お前は邪魔だから暗殺されかけたのだ、昨日の夜にな」

「なんで……」

「なんで気づかなかったかと? それはお前が呪文により気絶させられたからじゃ。お前に罪はない。幸い、ディーンと儂で敵は倒した」

「ディーンが?」

「左様、あやつは呪文の心得がある。それに儂がついておった。力は以前ほどないが、デイーンとならば負けるはずはない」

「あいつ、そんなに強いのか……」

「呪文は覚えたばかりで儂に言わせればまだまだじゃがの」

「それで、奴はどこに?」

「……」沈黙が訪れた。レベーカも深刻な顔をするだけで何も言わなかった。

「申し訳ない」沈黙を破ったのはキッシンジャーの重々しい発言だった。

「ディーンは攫われた」


 彼の声は一段と低かった。レベーカもうつむいて唇を震わせていた。


「儂の責任じゃ。このおいぼれを責めよ」

「いいえ、キッシンジャー様」レベーカがいつになく大きな声で言った。

「そうなの、貴方を呪文で助けた後、あの人はティム様の遣いによってさらわれたらしいの。私もその場にいなかったからわからないけれど……」

「実は使いは二人おったのじゃ」

「このおいぼれ、衰えたものじゃ。気配に気づかなかった。奴は足音もなく忍び寄ってきた」

「キッシンジャー様が不意を突かれるなんて、そんなに強いやつだったんですか?」

「いや、これは完全に儂のミスじゃ。相手はドブネズミじゃった」

シドには訳が分からなかった。しかし目の前で本が喋っていることに比べれば、別に何も驚くことではない。

「油断しておった。奴が部屋に入ってきたことさえわからなかった。ドブネズミは一瞬にして儂の不意を突き、呪文でディーンをさらった。相当強力な呪文じゃったから、おそらくティムかその下っ端か誰かが一枚噛んでいるじゃろう。一人では兄弟すぎるほどの呪文じゃった。儂の保護呪文や攻撃呪文も跳ね返すほどじゃったからの。まあ、全ては奴に気付かなかった時点で手遅れじゃった」

「そんな……」

「キッシンジャー様、ご自身を責めないでください」レベーカが甘い声で言う。

「それで、」レベーカは目を見開く。

「私は彼を追うことにしたの。キッシンジャー様とともに。貴方は悪いけど、巻き込まれただけ」

「お前は失神呪文をかけられておったからな。悪いが、ここにはお前が万が一植物状態にでもなりでもしたら、助けてやることができるのは儂しかおらんからの。お前はどのみち目覚めるまで儂と共にいなければならなかったのじゃ。お前が目覚めるまで、ティムの屋敷を目指した。しかし儂も相当体力を削られておった。ティムの屋敷は強力な保護呪文がかけられておる。おそらく儂にしか突破できんじゃろうが、このままでは無理だ。第一、わしは一人で移動するにも一苦労な体になってしまったからの。じゃから、このお嬢さんとお前を連れてきた。いわば儂が勝手にお前らを利用したのじゃな」

「そんな

「そんな風に思わないでください」レベーカの声を遮ってシドが言った。

「あなたは何も悪く無い、むしろ俺を助けてくれた」シドは生まれてこの方、初めて心から他人に感謝していた。

「貴方は俺の誇りです」

「そうですよ」レベーカも応戦する。

「恥じないでください。貴方がいなければディーンもシドさんも殺されていたかもしれないんですから」

「左様……」キッシンジャーは自分の本のページを閉じた。

「しかし、ディーンはさらわれた」

レベーカは口を震わせた。シドは基地ビルをぎゅっと結んだ。

「おじいちゃん、ティム様の城に入る策はあるのかい?」

「無論じゃ」

「なら行こう」シドはこぶしに力を込めた。

「その前に」と彼は口を開いた。

「呪文ってものを教えてもらっていいか?」

「そんなにすぐにはできんぞ?」キッシンジャーが言い終わった後、クックと笑った。

「しかし、お前の心意気は買った」


 ディーンは相変わらず暗号と格闘していたが、何もわからなかった。論文の内容自体に頭が反応してしまい、なかなかその言葉の裏に隠された意味を見出すことはできなかった。

 そもそもなぜこれが暗号だとわかるのだろう? 彼にはそんな疑念がわいていた。一つ考えられるとしたら、これを作ったのはキッシンジャー様かもしれないということだった。それか、代々オータス家に伝わる何かだろう。キッシンジャー様の現在の身体は暗号でできていた。彼が暗号を作るのが得意なことは間違いない。しかしその秘密主義な面から、ティムに何も教えず姿をくらましたのだと考えると都合がつく。ティムはおそらくキッシンジャーの暗号を解けなかったのだろう。となると……


 彼はため息をついた。真実はわからないが、結局のところ彼は自分自身が利用されているこの状況に腹が立ってきた。


「裏をかいてやろう」彼は決心した。

「暗合は解く。でも『暗号を解け』としか言われていない。暗号を解いてその結果を伝えろとは言われていない。それは僕の自由だ。暗号を解いたら、その内容次第で嘘をつくことも可能だ」




 そのまま彼は六時間はぶっ続けで机に向かった。論文が面白いから集中できていたが、さすがに非効率である。


 彼は諦めてドアの側に行きクッキーをかじった。いろいろな種類と味のクッキーがあった。そのどれもが洗練された美味しさを保っていた。特に彼のお気に入りはダージリン味だった。彼はドアの外に出た。


「なあ、散歩に行きたいんだけど」廊下を去る女中の後ろ姿に声をかけた。




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