霧のように白い者
彼女は、その声に導かれるように目を開けた。目の前の光景に肩を震わせる。獣が、手を伸ばせば届くほどの距離で止まっていた。
獣は少女をじっと見てから、彼女の後ろにちらりと目をやり、いきなり背を向けたかと思うと駆け出した。霧の向こうに、その姿は消えていく。
少女は茫然と見送った。何が起きているのかよくわからない。
森の空気は相変わらず刺すように冷たく、湿っぽいにおいが鼻をつき、それらは彼女が生きていることを示している。
少女は近づいてくる音があることに気づいた。それは布のすれる音に似ている。
後ろから聞こえていて、彼女は立とうとしたが上手く力が入らず、座り込んだまま体の向きだけを変えた。
霧からその姿が見えた時、彼女は両手を握りしめた。
少女は、精霊というのはどんな姿かは聞いたことがないが、それこそが精霊ではないかと思った。
見えたのは人。だがあまりにも白い。
着ている白いローブに、そこから見える肌も頭をおおう髪までも白。まるで霧がそのまま人になったかのようで、霧と区別がつきにくいほど儚く見える。
少女の前まで歩いてくると、彼女と目線を合わせるように姿勢を低めた。唯一、明確な色を持つ紫色の瞳が彼女を捉える。
体つきは背が高く、男性のように思えるが、その顔は女性のように見えるほど細い。その唇が小さく動く。
「……君はどうして、ここにいるの?」
見た目に釣り合わない、少年のように無邪気な声。先ほど聞いた声と同じだが、ますます人離れしたものを感じさせた。
「怪我をしてるの?」
青年は手を差し出してきたが、彼女は逃げるように後ずさりした。
彼が精霊だとしたら、見た目で騙して少女を食うつもりかもしれない。危機は去ったように思っていたが、やはりここで死ぬしかないのかもしれない。
(でも、だとしても!)
「あ、あの!」
勇気を出して、少女は声を絞り出した。
「私に時間を下さいっ!」
必死な声に、彼は手を下ろした。無表情のまま、彼女の言葉に耳を傾ける。
「探しているものがあるだけなんです! 友達が病気で、この森にしかない紅青草でないと治らないから。だからっ、私はまだ死ねない」
少女の目から、止まったはずの涙がこぼれた。
「私以外の人は怖がって、取りに行こうとしない……。私が、私が頑張らないとっ。だから!」
「……」
「紅青草の代わりに何か必要だというのなら、森に入ってしまった罰がいるというのなら。薬草を届けた後、必ず戻ってきます! 私は死んでもいいからっ。自分の命が惜しくは」
そこまで言った時、不意に青年が動いた。手を動かすと、少女の口の前で人差し指を立てる。反射的に、彼女は口を閉じた。
「そう。君は病気で苦しんでる誰かのために、ここまで来たんだね。怪我をしてまで。でもね――君」
彼は音もなく、すらりと立ち上がった。
「自分の病が治った時、そこに友達がいないのはとても寂しいことだよ。そう思わないかい? 君が命を賭けても、その友達は喜ばないと思うけれど」
「な、ならどうすれば……?」
少女はすがるように青年を見上げた。彼の肩にあるものに気づく。
最初からそこにいたのかはわからないが、彼の肩には小鳥がいる。雀ほどの大きさだが、尾が長く体は淡い黄色。薄暗い中で光っているように見える。
「君の願いは紅青草なんだね。それ以外の目的はない」
小鳥から目を離すと、少女は大きく頷いてみせた。
「そう、か」
青年は考えるように首を傾けた。
すると、小鳥がいきなりさえずった。高く柔らかな声で、森の空気が浄化されたかのように一瞬思えた。
あまりの声の美しさに少女の思考が停止し、小鳥から目をそらせなくなる。小鳥は少女の視線に気づくと、羽をばたつかせて隠れてしまった。
青年はそれを見てくすりと笑うと、「ごめん、この子は怖がりなんだ」と口にした。
「けど、紅青草の場所ならわかるみたいだ。案内できるよ」
「えっ……?」
驚きで、少女には状況が飲み込めない。精霊は人を食うのではないのか。殺すのではないのか。
彼女は改めて彼を見た。人離れした見た目だが、今の彼は柔らかな笑みを浮かべている。それは人の心を感じさせた。
彼は改めて、少女に手を差し出した。
「さぁ、行こうか」
彼女は迷った末、その手を恐々掴んだ。予想に反して彼の手は温かい。
立ち上がった少女に大きな怪我がないことを見てとると、彼は優しくこう付け足した。
「その代わり、僕に会ったことは内緒だよ」
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