霧深い森に響く声

 そもそも、昔はこんな森ではなかったそうだ。

 少女は視界がきかない中で花を探しつつ、祖父の話を思い返していた。そうしないと、怖さと寒さに押し潰されそうだ。サンダルから出た足は、感覚を失いつつある。


 祖父の父、つまり曾祖父の時代。

 森は精霊に守られ、恵みの森と呼ばれていた。近くにある村の人々は、森から木の実や肥えた動物を得て、時には薬草も取り病気や傷を癒した。その恵みに感謝して、森の精霊を敬っていた。

 祖父が薬草師であるように、曾祖父もそうで、森にはよく薬草を取りに行っていたという。


 少女はそこまで思い返してから足を止めた。視界の端に赤いものが入ったからだ。

 見るとそこには赤い花。だが、花びらの数も茎と葉の色も違う。息を吐くと、また歩き出す。相変わらず、森は霧で覆われている。


 では、いつからこんな森になったのか。

 それは村の人が、森の豊かな木々に目を向けた時だったという。

 村人は、元々木を切り出して使ってはいた。それをもっとたくさん切り出して、都に売ろうとした。生活をより良くするために、森のことを考えもせずに。

 それが始まりだ。森は、人々を拒絶するように霧を出し始めた。日も差さなくなり、奥に入ったら二度と出れないほどに暗い森になってしまった。

 それでも諦めない若者たちが森に足を踏み入れ、それから命からがら逃げ出してきた。

 彼らが言うには、森に見たこともない恐ろしい獣がいて食われそうになったという。

 それ以来、村人は霧と恐れから森に入れなくなった。精霊が、人を食うようになったのだと信じるようになった。

 そうして森から恵みが取れなくなり、今の寂れた村の暮らしが続いている。


 少女は話を聞いて思った。どう考えても村人が悪いと。度を越した恵みを森から取ろうとしたから、精霊が怒ったに違いない。

 そんなことを昔の人がしなかったら、薬草が簡単に手に入っただろうに……。

 少女のため息が白く吐き出され、漂う霧に溶け込んでいく。どれだけ歩いたのか、そろそろわからなくなってきた。

 その時、森に風が吹いて少し先が見えた。視界に赤い色が入った気がした。見間違えにも思えたが、行かないわけにはいかない。足を踏み出す。


『ウウゥアアッ!!』


 不意に、獣の唸り声が聞こえた。先ほどよりも近いように思える。

 少女は足を止めて周りを見渡し、振り返る。


「ひっ……!」


 少女の喉から、か細い声が出た。

 少女の後ろには、見たこともないほど大きな獣がいた。狼に似ているが黒々とした毛が全身をおおい、猪のような牙が口から出、足には細く鋭い爪がある。

 張りつめた空気の中、獣は近づいてきた。黄色の目が少女を品定めするように細まる。

 大人二人分よりも大きいのに、獣は音もなく歩いてくる。いつから後ろにいたのか。

 少女は動けなかった。心では叫んではいた。


(逃げなきゃ、逃げなきゃ……!)


 でも動けない。魔物の鋭い目を見た途端、動けなくなった。


『ウウゥゥアアァァッ!!』


 魔物は足を止めると、姿勢を低くした。飛びかかってくる気だ。そうしたらもう逃げれない。逃げれなくて、死ぬ。


「嫌っ!」


 死にたくないという気持ちが、少女を動かした。足に力を入れて逃げようとする。だが、寒さでかじかんだ足に力が上手く入らず、彼女は体勢を崩してその場に尻餅をついた。

 振り返って獣を見る。獣が地面を蹴った。元々大きな獣の見た目が、更に大きくなって見え、鋭い牙が眼前に迫ってくる。

 死ぬのか、と少女は思った。


(ごめんなさい)


 彼女は自分の死の怖さよりも、自らの友達のことを思って涙を流した。

 魔物が迫る。飛んできた勢いのまま、少女に食らいつくつもりなのか上体をそらす――少女は目を閉じた。閉じた目から涙が一筋流れ落ちて、



「待ちなよ」



 彼女の耳に、人の声が響いた。それは少年のような声だった。

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