第五章:深きところの大迷宮

5:深きところの大迷宮(1)

 『深きところ』というその名前を。魔神戦争の前後まで、大陸のほとんどの者は知らなかった。もちろんクレフも。

 だが今や、巨大な迷宮を抱える場所として知らぬ者はない。


「ここが魔神王の造った迷宮なのか?」

「そうだよ。初めて目にする者は、似たようなことをもう一度言うのだけれどね」


 そびえ立つ絶壁の袂に、ぽっかりと空いた穴。たしかにあの魔神たちも、悠々と通れそうな大きさではある。

 しかし吟遊詩人の唄に聞くような、果てしれぬ空間とはとても思えない。熊が棲むには大きすぎるな、という風にしか見えないのだ。

 クレフはその感想を、うっかりシャルに言うつもりで口にした。昨日のやりとりを忘れたわけでないが、この旅路は元からそのようなものだった。


「似たようなこと?」


 総大司教。この国を裏で牛耳る宗教の頂点にある人間が、同行すると聞いて驚いた。聖職者に貴族も加えて、偉い奴は後ろで口を出すだけだと考えていたから。

 しかもそれだけでなく。砦からここまで、進んで先頭近くを歩いてきた。実際の先頭はさすがに武闘神官だが、そのすぐ後ろをベアルは進む。

 あの派手な肩掛けは着けていない。シャルや武闘神官たちほどに身軽ではないが、赤い法衣と手にはメイス。戦闘に備えた格好と言えた。


「中に入れば分かる」


 メイスは大きな紅玉の嵌められた、儀礼用の物だ。殴打には向かないが、奇跡の業を使う補助に使うという話は聞いたことがある。

 それよりも気になるのは、クレフへの態度だ。

 出発時には「やあ昨日は挨拶もせずに、すまなかった。よく来てくれたね」などと言いながら、抱擁を求めてきた。

 それからもあれこれと、聞きもしない付近の案内をしてくれるのだ。

 だから感想をうっかりというのも、またこいつが嬉々として話し出す――と、忌避の意味が半分あった。


「へえ――」


 と気のない返事にも、何やら悪戯を仕掛けた子どものようにほくそ笑む。

 正面からケンカをしてもクレフには到底勝ち目のなさそうな体格で、妙に似合った感じなのが気持ち悪い。

 要は、馴れ馴れしいのだ。

 酒場でこのような男と出会えば、話が弾んで楽しいのかもしれない。

 だがどのようにしてか、自分を殺そうとしている相手をそれと同じに思うのは不可能だ。ましてや憎むべき聖職者の、棟梁ともなれば。

 武闘神官たちに続いて、ベアルも洞窟の暗闇に沈んでいく。その一線から先へは、光の侵入が拒まれているように。急激に彼らの輪郭は失われた。

 直射日光こそないものの、辺りは十分に明るい。気味の悪さを覚えて、その一歩を竦んだ。

 ――どう考えても逃げられねえよな……。

 脚の速さなら、クレフが勝るだろう。けれども砦からここまでは、ほぼ一本道だった。飛び道具を使われれば躱すのは難しいし、笛などで逃走を知られれば、先回りもされるだろう。

 そうやって視線を巡らせていると、後ろから咳払いが聞こえた。シャルだ。


「物珍しいんだ。見物の暇くらいあったって、いいだろうよ」


 振り向くと、肯定も否定も感じさせない目でシャルが見つめていた。その後ろの武闘神官の、にこやかにしているつもりらしい気色悪い笑みとは対象的だ。

 ――何か居やがるな。

 それらのさらに向こう。岩陰に気配を感じた、ような気がする。

 ここに居る全員の小さな身体の動きや、それによる衣擦れ。峡谷を通る風や、それに動かされた砂の音。

 それ以外の何かが鳴ったと思った。


「なあ――」

「早く行きましょう」


 有無を言わせぬ、シャルの声。

 武闘神官も、クレフを嘲笑ってばかりはいない。常に周囲への警戒は行っている。だから「あれはなんだ」などと謀って、よそ見をさせることは出来ない。

 だから意味のない時間稼ぎをするなと、威圧を感じる。あのあとまた、ベアルから何か言われたのだろうか。


「ああ。行くとしよう」


 そうしている間に、何かの気配も完全に消えた。諦めてクレフは、息を大きく吸って闇に踏み込む。溜めた息を、ゆっくり吐き出しながら。

 松明などは必要ない。そう聞いていたのだが、中は暗かった。だがベアルたちは、まだ先に居るようだ。

 大勢居る中で、自分だけが慣れていない場所。ならば他の者の様子に倣えばいいのだろうが、信用できる相手でもない。

 気持ちや警戒心をどこにどの程度置けばいいのか、見えないまま進める足は重い。


「う――」


 蜘蛛の巣を引っ掛けたような、抵抗とも呼べない違和感に突っ込んだ。しかしそれなら顔や腕だけで済む筈だが、どうも全身に。

 何ごとか窺うクレフの目に、一瞬遅れて光が射し始める。

 靄が晴れるように、手前から順に浮かび上がっていく不思議な景色。青みがかったそれは、どうして見えるのか。

 ここは岩山の中、あるいは地下の筈。

 だのに行く手には、そこらの城や砦などすっぽりと入るだけの空間が広がる。あちらこちらに、地面から空へ。いや空はないのだ、淡く光る洞窟の天井へ。滑らかな道が伸びた。

 それがまた地面へ、そして洞窟の奥へ。風の流れが、岩として固まったようにも見える。


「ここが、魔神王の造った迷宮なのか……」


 間違いなくこれまでに見たことのない、異様かつ美しい光景。クレフは自然、感嘆の言葉を漏らした。

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