最終話 ハイジ、犬と暮らす
わたしが成人した日に婚姻届を出し、タロは拝路太郎になった。同時に、わたしはタロと両親に妊娠を伝えた。大学を一年休学し、その間に出産と育児をする。里帰り出産にはしないで、本井浜で産む。そう宣言して。
両親は仰天してたけど、わたしの就職予定を聞いて渋々認めてくれた。わたしは、卒業後に漁協職員として働きたいというお願いを、小野さんに認めてもらってたんだ。すでに子供がいれば産休や育休で仕事に穴を開けることもないし、その次の子作りまで時間を空けられる。落ち着いて生活を考えられる。
いい大学に入ったのに、就職先が漁協か。相変わらず偉そうなお父さんは、わたしの就職先を聞いて露骨に嫌味を言った。速攻でお母さんに殴られてたけどね。あんたなんかただの図面描きだろって言われたら嫌じゃないのかって。お母さん渾身の一喝で、すっきり溜飲が下がった。
やりがいのある仕事っていうのは、職種で決まるわけじゃない。タロと本井浜で楽しく暮らすための仕事だったら、なんだってやりがいがあるんだ。それに、高校の時小野さんにお世話になったから漁協の雰囲気はよく知ってる。気のいい漁師さんたちと一緒に仕事できるのは最高でしょ!
と、そこまではばっちり計画通りだったんだけどなあ。まさか双子が生まれるとは思わなかった。いやあ……冗談抜きにしんどかったわ。タロとお母さんがこれでもかとサポートしてくれたことと、拝路家待望の男の子誕生で舞い上がったお父さんの全面支援もあって、ぎりぎりで復学。そのあとも二重生活あるあるの各種トラブルに見舞われたり、子供が入院しちゃったり、まさかの単位足りないかも騒動があったりとか、ちっとも笑えないどたばたを乗り越えて、わたしはどうにか卒業証書をもらうことができた。
高校の三年間が心を大きくする期間だったとすれば、大学の五年間は心を強くする訓練期間だったかもしれない。タロがいつも「なんとかなる」って言ってくれたこと。そして、わたしから片時も心を離さず寄り添ってくれたこと。タロの献身があったから、わたしは最後までへこたれずに済んだ。
離れ離れになるっていう大波を乗り切って、これからはずっと家族一緒に暮らせる。待っててね、タロ。今度は、わたしがタロを支えるから。
◇ ◇ ◇
「タロ、やっとこさ帰ってきたよー」
息子の手を引き、娘を抱いて、おばあちゃんの家の前に立つ。タロが神家から出たばかりの時には、ここに三つの名前が並んでいた。柴崎初穂、拝路紀子、そして犬神家太郎。
今は、そこから二つの苗字が消え、一人増えた。拝路太郎、紀子、
家からひょこっと出てきたタロが、目を八の字にしてわたしの隣に立った。夫婦揃って、真新しい表札を見上げる。
ここはタロの神家。犬神家だ。戸籍の名前が変わっても、わたしの中でタロはずっと犬神家太郎なの。うちはその続きになるから、犬神家の拝路なんちゃらってことになるんだろう。どうせなら犬神家の少女ハイジって呼んでもらいたいけど、すっかりおっかさんになっちゃったからなあ。とか、にまにましながら表札を見ていたら。タロがひょいと首を傾げた。その癖は変わらないね。
「どしたの?」
「いや、ノリが高校の時に、よく少女ハイジと呼ばれてただろ」
「ああ、それね。アルプスの少女ハイジっていう、有名なお話があるの」
「そうだったのか」
「まあ……今のわたしはもう少女って呼んでもらえないけどね」
「そうか? 俺より小さいから少女だと思うが」
「あははっ」
相変わらず、天空が歪むほどの大ぼけをかますタロ。それに、感情表現欠乏症は相変わらずだ。わたしから視線を外すことはなくても、その口から好きだ愛してるは生涯出てこないと思う。
想いが言葉にされないこと。それを不安だ、つまらないと感じる人はいっぱいいる。でもわたしは違うよ。中身のない愛の言葉を百個並べられるより、無言でいつも寄り添ってくれる方がはるかにいい。タロは、プロポーズの宣言を律儀に守って、どこまでもわたしに付き添ってくれるだろう。わたしも、その想いに生涯全身全霊で応えたい。ただ……。
タロにはまだ厄介なモンダイがあるんだよね。
「ねえ、タロ」
「なんだ?」
「えっちの時に肩を噛むの、やめてね。まじで痛いの」
「う……済まん」
「それと」
「ああ」
「この子たちの弟や妹をこさえる時には、たぶんまた双子になる。覚悟しといて」
苦笑したタロが、望夢をひょいと抱き上げて家に入った。イヌザメのオスは交尾の時にメスの胸ビレを噛む。その調子でわたしの乳房を噛まれたらしゃれにならない。噛まれるのが肩ならまだ御の字なんだろうけど、勘弁してほしいわ。わたしは干し魚じゃないんだからさ。
それに、イヌザメのメスは一回に二個ずつ産卵する。そんな性質までここに引っ張ってこなくてもいいのに。
ああ、今さらそんなことをぶつくさ言ってもしょうがないね。だって、わたしはもう選んだのだから。賑やかな神家の中で暮らす、犬神家の少女ハイジになることを。
「さあて。晩ご飯の支度しなきゃ!」
「石鯛のいいのを突いてきた。サクにしてある」
「じゃあ、アラ炊くね」
「おう」
振り返ったわたしは、残照で輝く茜色の海を見つめた。わたしの大好きなタロと海は、これからいつも側にある。ずっと待ち望んでいた賑やかな暮らしが今から始まる。
潮風に押されて家に入ったわたしは、エプロンをつけながら台所に走った。
「エビもどっさり茹でよっと!」
【fin】
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