第四十六話 ハイジ、犬と婚約する

 おばあちゃんの急死っていう、どうしようもなく悲しい出来事をなんとか乗り切って。下宿から寮暮らしへの変化に戸惑いながらも。わたしはよろよろと前へ進み始めた。

 寮にいる間は、家を掃除したり、空気の入れ替えをしたりがそうそうできない。土日だけだね。そして、タロを家に呼べないから、あの居心地のよかった空間は時を追うごとにくすんでいった。ああ、おばあちゃんは、こういう空気の中で何年も暮らしてきたんだなと思うと、ぎゅうっと胸が締め付けられる。


 でも。わたしがどんな事情や感情を抱えていても、時間は無情に過ぎていく。受験は少しずつ近づいてくるし、年は一つ重なる。六月のわたしの誕生日には、はまや食堂でクララやマリとささやかにバースデーパーティーをやった。ケーキの代わりに鯛の浜盛りっていうあたりが笑えたけどね。そこに、こっそりタロも呼んだ。この頃から、わたしとタロとの関係は誰にとっても既成事実になったと思う。もしかしたらというレベルは、完全に抜けたんだ。


 もっとも、タロの感情表現欠乏症は相変わらずだったし、寮暮らしになったわたしはタロと重ねられる時間がすごく限られていた。前と違って下世話な想像をされる状況がなくなってしまったから、わたしの周辺のざわつきは逆に収まっていった。

 状況が落ち着いたら、タロと今後のことを話し合いたい。でも、その時間がなかなか取れない。じりじりしたけど。部の自分の仕事を早め早めに片付けながら、一学期の期末試験をこなしたところで待望の夏休みが……やってきた。


◇ ◇ ◇


 学生寮は、休み期間はほとんど閉鎖になる。県外から来ている子は、親元に帰ることになる。本来ならわたしもすぐ帰らなければならないんだけど、おばあちゃんの四十九日の法要があるから、逆にお母さんがおばあちゃん家に来るんだ。お父さんも来るのかと思ったけど、じもてぃでがっちり固められた法要に参加するのはきついと思ったのか、パスだった。

 なんかお父さんて、この家を嫌ってる感じがするんだよね。単にアウェイだからってわけじゃないような……。


 お母さんが仕切った四十九日の法要は、親族がほとんどいなくて地元の人ばかり。老センで一緒だった人とか、おじいちゃんの元同僚の漁師さんとか。しんみりというより賑やかに、おばあちゃんのことを偲んだ。


 法要が終わってわたしとお母さんと二人になったら、和服から普通の服に着替えたお母さんに、すぐ声をかけられたんだ。


「ああ、のりちゃん。あとで太郎さんを呼んでくれない?」


 うん。たぶん、そう来ると思った。わたしとタロのことは、地元の人はもうみんな知ってる。知らないのは、普段一緒にいない親だけなんだよね。ちょうどいいや。このタイミングでオープンにしておこう。


「そうだね。でもタロを呼ぶ前に、わたしから話をしておきたいことがあるの」

「そう……」


 おばあちゃんの仏壇の前で、お母さんと向かい合って正座する。切り出そう。胸を張って、はっきりと宣言した。


「あのね、お母さん」

「うん?」

「わたし、タロのプロポーズを承けたの」


 ああ……。おばあちゃんに言っておきたかったなあ。わたしは目を涙で埋めて、初めてタロとの約束を公開した。恋人になるという段階をすっ飛ばしていること。お母さんはびっくりしたみたいだけど。納得もしてた。


「卒業と同時?」

「ううん」

「えっ?」


 びっくりしたのは、むしろそっちの方だったみたい。


「お母さんが言ったじゃない。一緒になることより、一人になることの方を考えなさいって」

「ふふっ。ちゃんと覚えてくれてたか」

「もちろん。わたしにとっては、ものすごく大事なことだから」


 主人あるじが誰もいなくなってしまった部屋の中を、ゆっくり見渡す。


「わたしはタロとずっと一緒に暮らしたい。好き。大好き。でもね」

「うん」

「好きっていう気持ちだけじゃ生きていけないもん」

「……」

「もし。もし、おばあちゃんみたいなことがタロに起きたら。わたしも一緒に死んじゃうの? ただ後悔だけを抱えて、抜け殻みたいな残り人生を送るの? それは……違うと思う」


 にっ! 目を細めて笑ったお母さんが、わたしの隣に座った。ばしっ! 背中を叩かれる。


「子供っていうのは、勝手に大きくなるね。親の心配なんか、くその役にも立たないわ」

「ええー? そんなことはないよう」

「あははっ! まあ、歴史は繰り返す、ね」

「は?」


 お母さんが、穏やかな闇に塞がれた海の向こうを見通す。


「おじいちゃんがね、わたしの結婚に大反対だったのよ」

「えええっ!?」

「地元の漁師さんとの結婚を望んでいたからね」

「そうだったんだ!」

「知らなかったでしょ」

「うん」


 それで、お父さんがここを苦手にしてたのか。


「頑固なおじいちゃんを説き伏せたのは、わたしやお父さんじゃないわ。母なの」

「わ……」

「一人一人違う、幸せの形があるでしょってね」


 お母さんが、遺影を見上げる。


「母には母の。わたしにはわたしの。そしてのりちゃんにはのりちゃんの。望む幸せがあって、それにぴったりの形があるのよ。それは自分で探し、自分で決めなさい」


◇ ◇ ◇


 夜遅くになって、いつもの作業服ではなく、ぴしっと背広を着こなしたタロがうちに来た。お母さんは、立ったままではなく、玄関先に正座して出迎え、タロに深く頭を下げた。


「どうぞ。お上がりください」

「失礼いたします」


 居間ではなく、仏間にタロを案内したお母さんは、改めてタロの前に正座し、もう一度深く頭を下げた。


「ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 タロは。お母さんと同じように深く頭を下げ、低いけれどはっきり通る声で答えた。


「どうか娘さんを……紀子さんを娶らせてください。お願いいたします。生涯付き従い、お護りいたします」


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