第四十七話 ハイジ、犬を守る

 タロが言った、わたしとの結婚許可を求めるセリフ。あまりに時代がかった不思議な言い回しは、お母さんの脳裏に深く刻まれたらしい。でもタロが犬神家だという前提を置けば、何も不思議ではないんだ。神様がきさきに庇護を約束する……そういう意味だから。もちろん神家でのことは、お母さんだけでなく誰にも言うつもりはない。話したところで、なに妄想爆発させてんのって笑われるのがオチだし。タロのフィアンセだということさえ認知してもらえれば、それでよかったんだ。


 でも、タロとの関係に『婚』の字がついたインパクトはものすごく大きかった。わたしが楽観していたほど、世の中は甘くなかったんだ。


◇ ◇ ◇


「はあああっ……」


 何度もでっかい溜息をついてしまう。夏の間は寮が閉鎖されちゃうから、わたしは実家に帰らないとならない。タロと離れちゃうから帰りたくなんかないけど、高校生としての制限を守らなければならないから他の選択肢はない。まあ、夏期講習がびっしり入ってるし、タロとはラインでやり取りできる。それでしのげると思ってたんだけど。お父さんがなあ……。


 そもそもお父さんは、わたしが乙野高校に行くこと自体認めたくなかったんだ。自分の目の届くところで大事に育てたい。そう思っていたんだろう。気持ちはわかるよ。わたしだって、もし子供ができたら同じ心配をするだろうから。

 でも、わたしはずっと子供のままではいられないの。わたしはお父さんの囲い込み癖がいやで、他の子より少しだけ早く羽ばたきの準備をしてた。だからこそ、乙野高校に進む道を選んだの。でもお父さんは、その原因が自分にあることに気づかない。いや、気づいてはいるんだろうけど、認めない。一体いつまでわたしを三歳児だと思っているんだろう? 呆れちゃう。


 夏休みに帰ってきたその日から、俺は結婚なんざ絶対に許さんが始まった。だあかあらあ、結婚じゃなくてまだ婚約なんだってっ! それも、履行義務も期限もなく、指輪やら贈り物やらのやり取りもない、単なる口約束。婚約はわたしたちの意思の象徴であって、それ以外に何もないんだってば!

 大事な夏期講習に集中できなくなるくらい、朝から晩までがあがあがあがあ。たまったもんじゃない。それでなくても灰色の受験生の夏が、お父さんのせいで真っ黒けだ。わたしがそれでぶち切れなかったのは、お母さんが徹底して中立を貫いてくれたからだ。


「のりちゃんは、今それどころじゃないでしょ? お父さんは、娘が受験生だっていう現実をしっかり見てくれないかなあ」


 普段はお父さんを立てることが多いお母さんが、ぴしっと突き放した。お父さんはむっとしたんだろう。負けずに言い返した。


「受験生だっていうことがわかってるなら、なんで今頃婚約やらなんやらバカなことを言い出すんだっ!」

「わかってないわねえ」


 お母さんが、ふふんと鼻で笑った。


「余計な邪推をシャットアウトするためよ。婚約宣言にそれ以外の意味なんかないでしょ。違う? のりちゃん」


 本当は違う。わたしはタロとの未来を選択した。その決断をきちんと誰の目にも見えるように示したかったんだ。でも、お母さんが出してくれた助け舟はきちんと活かしたい。


「うん、そう。田舎はいろいろと面倒だから……」

「おまえのしでかしてることの方がよほど面倒だっ! だいたい、あんな得体の知れない馬の骨とっ!」


 ぷっつーん! わたし自身のことは何を言われても我慢するつもりだったけど、タロへの侮蔑だけは絶対に我慢できなかった。


「お父さんに、タロの何がわかるっていうのよっ!」


 わたしは、その日から本井浜に帰るまで、お父さんと一切口を利かなかった。


◇ ◇ ◇


 夏休みが終わる前々日。本井浜に向かうバスの中で、お母さんから渡された手紙を読んでる。


『のりちゃんへ


 あと半年ね。がんばんなさい。お父さんのことは気にしなくていいよ。でも、父親の寂しさは父親にしかわからないの。のりちゃんは、それだけ覚えておいて。

 お父さんの愚痴は私が聞く。理解者が一人いればなんとかなるの。それが夫婦っていうものだからね。


 ただ、お父さんが太郎さんを蔑んだのは論外。記憶喪失というハンデを乗り越えて公務員としてまじめに働いている誠実な青年を、どういう人柄なのかろくに知ろうともせず一方的に侮辱することは、いかにのりちゃんを心配していたからと言っても絶対に許されません。お父さんが反省するまで、私はお父さんの理解者っていう立場を降りるよと言ってあります』


 一度手紙から目を離して、島々を埋める海の青を見渡す。それから、ゆっくり目をつぶる。福ちゃんが最初の学園祭の時に言ったこと。わたしは、なぜかそれをしっかり覚えていたんだ。


「お母さんがタロのことをスルーするのは当然。そりゃそうだろ……かあ。確かにそうだったな」


 最初からタロに対して不快感をむき出しにしていたお父さん。でもお母さんは、あの時も、それからおばあちゃんちで何度か会った時も、タロを粗末に扱ったことが一度もないんだ。両親が揃ってタロをバカにしたら、タロだけじゃなくわたしも否定することになる。だから、まともな母親なら自然に中立の立ち位置を取るでしょ。そういうことだったんだね。


『太郎さんがのりちゃんを守るって言ってたけど、のりちゃんも立派に太郎さんを守ってたよ。私は安心しました。おばあちゃんが、のりちゃんをいつもほめてたの。あの子は一途で優しいって。そういうところはこれからも無くさないでほしいな。お父さんも、そのうち太郎さんの良さがわかるでしょ。心配しなくていいよ。時が解決します。


母より』


「……」


 手紙をたたんで、海に目を向ける。海が……ぼやけて、揺れて、落ちた。


◇ ◇ ◇


 寮に戻ってすぐ、タロと散歩に出かけた。タロが、しきりに周りを気にしてる。


「どしたの? タロ」

「いや……妙に視線を感じるなと思って」


 そっか。付き合うことのずっと先にあるコトバが広がっちゃったら、こういう弊害もあるってことなんだね。おまえら、自分の立場がわかってんのかっていう目で見られるんだ。


「タロ」

「うん?」

「大丈夫だよ。タロのことは、わたしが守るから」


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