第三十二話 ハイジ、犬より小さくなる
九月下旬。残暑が少しずつましになって。海水温も下がってきた。くらげに悩まされていた調査もだんだんはかどるようになってきた。わたしの調査はもうとっくに終わってるのにな……そう思いながら、一年生の調査を手伝っている。
「そっちの潮溜まりは調べ終わった?」
「はーい」
「じゃあ、
「先輩は手伝ってくれないんですかー?」
ああ、そういうことか。わたしは、前部長の水谷先輩の苦労をこれでもかと思い知る。この子たち、先生や部長の話を全然聞いてない。
共同研究と言っても、分担制。それぞれの分担部分はちゃんと自分で計画を立ててこなすように。それは全体会議の時もグループでの話し合いでも、杉田先生から念を押されていたはずだ。それなのに、自主性が全然ない。群れの誰かに寄りかかることばかり考えてて、大事なものを自分から取りに行こうとしない。このペースだったら、来月の学園祭で生物部が掲示する研究発表のポスター制作に間に合わないよ。
水谷先輩ならぶち切れてただろなあ。でも、わたしも一年の時は別の意味でガキだった。周囲が全然見えてなくて、一人で突っ走って。水谷先輩から見たら、小生意気でいけ好かないやつだったんじゃないかと思う。
わたしは、水谷先輩と違うやり方で後輩を諭したかったけど、結局同じような文句を言っちゃった。
「ねえ、今やってるのは誰の仕事?」
「わたしたちのですー」
「じゃあ、それをしないとならないのは誰?」
「……」
「部活はいい成績を取らないとならない授業じゃないんだから、自分たちがちゃんと楽しめないと意味ないよ」
二人がぷうっと膨れた。やらされてる感が強いんだろなー。
「いい。今日はもう上がりにしよ」
「え?」
「二人で、杉田先生にきちんと話をして。これでいいですかって」
「先輩が見てくれないんですかー?」
「見てもいいけど、わたしの研究になっちゃうよ?」
「ええー?」
去年、共同研究で一緒にやってた子たちは、彼女たちとたいして変わらない。水谷部長は、わたしも含めてぴよぴよひよこを全員まとめて指導するつもりだったんだろう。そこから外れたわたしだけ制御できなかった。だから負担感が強かったんだろな。そういうことが、今の立場になってよくわかった。
わかるってことは、少しだけ前進。でも、わかってどうするの部分はまだまだだ。ふう。
「もう日が落ちて来ちゃったし。また別の日に」
「はあい……」
二人が萎れる。間に合わないかもしれないっていう危機感だけはあるわけね。なんだかなあ。
◇ ◇ ◇
「ノリ。どうした?」
夕飯のあとでじっと考え込んでいたら、タロが心配そうに近寄ってきた。
「んー。いや、なかなか自分を大きくできないなあと思ってさ」
「十分大きいと思うが」
いや。体つきの話じゃないんだけど。タロにそれを言ってもしょうがない。
「まあ、なんとかこなす」
「それならいいが……」
じっとわたしを見下ろしていたタロが、不意に別の話を切り出した。
「ノリ。一つ、報告しておきたいことがある」
一瞬血の気が引いた。神家に帰るとか、そこまで行かなくてもここを離れるとか、そういう話じゃないかって。思って。わたしの不安を打ち消すように、タロがふわっと笑った。
「水試での一年契約が満了したんだ。それで」
ほっ。そっちの話だったか。
「うん」
「所長から、非常勤ではなくて技術職員で働かないかと言われた」
「それって、違うの?」
「違う。非常勤職員は長くても三年しか雇わない方針らしい」
「あ、そうなんだ」
「技術職員は、正式に県の職員ということになるんだ。給料は安いけど、福利厚生とかは他の職員さんと同じになる」
「わ! じゃあ、公務員になるってことかー」
「そう。ただ」
「うん」
「技術職員には転勤がない。ここの水試の仕事を専門にやる形になる」
「へえー。すごいじゃん!」
「ああ。俺は嬉しい」
魚を食べる時以外にタロが目を八の字にしたのを、初めて見た。ほんとにすごいと思う。タロは……とうとう職を勝ち取ったんだな。
甲斐性なしは論外。自分の生活を固めるのが先でしょ? 神家で、わたしはタロにそう言い放った。タロは、わたしが突きつけた高いハードルを一つ一つ乗り越えてきてるんだ。
わたしは逆。最初にタロとの間に立てたつもりのハードルを勝手に全部取り下げちゃった。その間には、今は何もないのに。タロだけが律儀にハードルを飛び続けてる。
知らないうちに俯いていた。顔を上げて、タロの顔を見られなかった。わたしは、相変わらず自分に甘くて人に厳しい。勝手にぐにゃぐにゃと形を変えていってしまうユメや理想に振り回されて、自分に都合のいい結末ばかり思い浮かべてる。
タロがここでずっと働くってことは、わたしたちの離別を決定付ける。わたしがこの先どこに進学しても、タロはついてこれないんだ。わたしはタロから離れないとならなくなる。それは……前から分かりきっていたこと。分かっていたのに、どうしても考えたくなかったこと。
ああ、弱いね。わたしはだらしなくて、弱い。後輩たちのことなんか、偉そうに言えない。
「ふう……」
「どうした?」
タロに顔を覗き込まれて、泣きそうになる。でも、泣いたって何の解決にもならない。
「ううん。まだまだだ小さいなあって」
「俺が?」
「いや、わたしが」
タロがひょいと首を傾げた。
「ノリはそれ以上大きくなるのか?」
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