第三十三話 ハイジ、犬と悩みの話をする

 学園祭が近くなって、わたしのいびつな恋心はしばらく封印せざるを得なくなった。去年は同じ時期に全部のポスター制作がもう終わっていたのに、一年生の共同研究がベタ遅れになってたんだ。まだデータすら揃ってないなんていう班まであって、怒るとか呆れるとかそういうレベルじゃなく、二、三年生部員は青くなってた。


 どやすのは展示のあとでいい。今は展示を成功させることを優先しないとならない。二、三年部員総出で手分けしてデータ取りを肩代わりし、取りまとめやプレゼンの用意も手伝った。去年はわたしのレベルが水準に届いていないって水谷先輩にどやされたけど、水谷先輩が今の惨状を見たら卒倒したかもしれない。

 わたしは卒倒する暇もなかった。自分を殺して、課題をこなす道具に化けて、へとへとになるまで毎日走り回った。


 そんな状態だったから、エバ先生の異変に気付けなかったんだ。


「あれ? エバ先生、今日休み?」

「聞いてないよね」

「どしたんだろ?」


 ホームルームに先生が来なくてざわついてた教室に、学年主任の富樫先生が走りこんできた。なんか、すっごい慌ててる。


「すまん。ガーランド先生が急に体調を崩してね。しばらく副担任の江口先生が担任を代行します」


 それだけ言って、教室を飛び出して言った。クララが、先生たちの様子をじっと観察してる。


「体調を崩したなんていう、生易しいもんじゃなさそやね」

「え?」

「体調なんちゃらは、きっとその場しのぎの言い訳やな」

「でも、エバ先生、昨日までぴんぴんしてたよ?」

「ああ、ハイジは部活が忙しかったから気付かんかったかー」


 どきっとした。


「なんか……あったん?」

「ここんとこ、ずーっとおかしかった。あの口も中身もケバいエロ先生が、すっごい口数少ななってて」 

「夏休み明けからずっと?」

「いや、十日くらい前からやな」


 じゃあ……。神家でのできごととかタロとは関係なさそうだな。どうしたんだろ? じっと考え込んでたクララが、ふうっと息をついた。


「閉じこもったんちゃうか」

「どしてわかるの?」

「どうしようもなく浮いてたから」


◇ ◇ ◇


 部活が上がって家に帰る途中、こっそり教員住宅を見に行った。エバ先生んとこは一階の端っこ。隣の部屋に副校長の野村先生が家族で住んでるから、男子が覗きに行くことは不可能だ。ガードマン付きみたいなものだと思う。


 部屋の明かりはついてる。先生は中にいるんだろう。でも……。人の動きを感じない。もうそろそろ晩ご飯の支度が始まる頃だと思うんだけど……。


 ちらちらと様子をうかがってたら、背後から急に声がかかって腰が抜けるかと思った。


「こら! 覗きは犯罪だぞ!」

「す、すすすすすすみませんっ!」


 って、福ちゃんじゃん。


「あの、福西先生もあの宿舎でしたっけ」

「私は違うよ。はまやの裏の民宿に下宿してる」

「あ、そうだったんだー」

「メシ作るのがかったるくてね」


 さもありなん。


「じゃあ、どうしてこっちに?」

「あのエロ女の様子を見に行ってくれとさ。ったく、余計な仕事を増やしやがって」


 福ちゃんがぶつくさ言ってる。


「私の仕事は生徒のケアだよ。オトナは自分でやれよ、自分で!」


 無遠慮にずかずかエバ先生の部屋の前に近寄った福ちゃんは、いきなりドアに回し蹴りをぶちかました。どかん!


「とっとと開けろよ! バカヤロウ!」


 ぐわ……。す、すげー。


「帰ってええっ! ほっといてよーっ!」


 泣き叫ぶような声が中で響き渡った。ああ、そうか。他の先生は、これで怖気ついちゃったんだろなあ。でも、福ちゃんはひるまなかった。


「開けないと窓破るぞ! わりゃあ!」


 エバ先生の必死の抵抗もここまで。渋々っていう感じで、ドアを開けた隙間にすかさずアーミーブーツの先をこじ入れた福ちゃんは、泣き疲れて顔面崩壊していたエバ先生を容赦無く罵倒した。


「少しは空気読めよ! 田舎で派手に動きゃあ、絶対に干されるんだよ! このバカが!」


 そんなひどいことを言いっ放しで帰ったら、エバ先生が首吊るんじゃないかなって怖かったんだけど。さすがは女傑福ちゃんだった。


「さあ、とことん飲むぞ!」


 そう言って、エバ先生の鼻先に持っていた布袋をぐいっと突き出した。じゃあ福ちゃんの持ってるのって、お酒? エバ先生の返事を待たずにずかずか上がり込んだ福ちゃんは、振り返るなりわたしを追い返した。


「ハイジは帰れ。こっから先はオトナの世界だ」

「は、はい」


◇ ◇ ◇


「見えてる部分なんて、ほんの一部なんだね」

「なんの話だ?」


 チダイのお刺身に舌鼓を打ってたタロが、わたしを見下ろして首を傾げた。


「ううん、こっちの話。なんかわたし、オトナっていうのを誤解してたような気がする」

「誤解、か」

「うん。オトナになったら、なんでも解決するんだと思ってたけど」

「そがいなことはないのう」


 おばあちゃんが、ふっと箸を止めた。


「子供の頃が一番ええ。悩みぃあっても小さいもんじゃ。次の日にゃあ忘れる。年ぃ取ると、忘れるんが下手になるのう」

「そっか……」


 見えるのは、ほんの一部。わたしから見たタロも、タロから見たわたしも、全体のうちのほんのわずかなんだろう。見えないところがいくらかわかっても、わからないままでも、悩みだけがずんずん積み重なる。それをエバ先生みたいに抱え込んでしまうのは……いやだなあ。


 早くタロに想いを吐き出してしまいたい。タロの周りをわたしの好きで全部埋め尽くしてしまいたい。でも……まだできないなあ。


「ねえ、タロには悩みってあるの?」


 一応聞いてみる。


「ある」


 え? すぐに答えが返ってきた。笑顔が消えてる。軽い悩みじゃないんだろう。慌てて聞き返した。


「ど、どういう?」

「まだ言えない」


 秘密を抱えないですぐに口に出すタロが、わたしに初めて隠し事をした。それは……わたしの心に強く引っかかってしまったんだ。


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