第四章 ハイジ、犬を想う

第三十一話 ハイジ、犬の身元を調べる

 いろいろあった夏休みが終わって、乙高生が戻ってきた本井浜は再び賑やかになった。でも、夏休みの前と後で、何もかもが大きく変わった。わたしもタロも。


 わたしとタロの変化は、起こるべくして起こった変化だと思う。

 わたしは……隣にタロがいるだけでいいと思っていた自分に我慢ができなくなった。好きっていう気持ちが、抑えきれないところまでぱんぱんに膨れ上がってしまったんだ。

 だけど、それは暴発しなかった。膨れ上がった「好き」っていうガスを、ちゃんと液体や固体にしようと思ったから。吹き出して終わりの想いじゃ、それっきりになっちゃうもん。何があっても揺るがない気持ちに固めよう。その決意がしっかり定まった。


 タロは相変わらず薄味だった。感情を表す言葉はほとんど出てこないけど、わたしが溺れる前とはっきり違うところが一つだけあった。それは視線。以前のタロは視線が定まってなくて、ぼーっとしてることが多かった。視野の中にいつもわたしがいるとは限らなかったんだ。でも今のタロは、片時もわたしから目を離さない。わたしは、それに無上の喜びを感じるの。

 好きな人から何をもらいたい? 愛の言葉もプレゼントもいらない。わたしなら、好きな人がずっと側にいることを望む。いつでも自分を、自分だけを見てくれている。心がその人ですっぽり包まれる安心感と満足感があれば……それ以外のものは何も要らない。


 タロは想いを言葉にしないけど、視線にしてくれてる。わたしはそう思うことにしたんだ。心のざわざわがすうっと治った。今まで以上に忙しい日々が始まったけど。わたしは逆に落ち着いたと思う。


◇ ◇ ◇


「ねえねえ、ハイジー」

「なんじゃらほい」


 昼休み。お弁当を食べ終わって魚類図鑑を見ていたら、背後からクララがのしっとのしかかった。


「なんかさー、あんた落ち着いちゃったねー」

「ほん?」

「一年の時にはすっごいばたついてた感じがあったんやけど」

「いや、実際ばたついてたと思うよ」


 ホームシック。タロ絡みのどたばた。勉強や部活でのへま。各務先生に、いつまで中学生やってるつもりだって怒鳴られたけど、確かにそうだったかもしれない。

 じゃあ、今は落ち着いた? あの頃よりはね。でも、それは必ずしも成長したっていうことじゃない。最初に神家でタロと話をした時。あの時の方がずっと真っ直ぐで純粋ピュアだった。タロへの恋心を奥底に格納してしまったわたしは、すっかり臆病になってしまったんだ。

 それなのに。心が大きくならないうちに、身体だけが育っていく。少女じゃなくて『オンナ』になってしまう。成長するんじゃなくて、腐熟してしまう。それは……いやだなあ。


「少女ハイジなら響きがいいけど、女ハイジじゃなあ」

「なにそれ?」

「ううん、独り言」


◇ ◇ ◇


 何もかもを否応無く変化させてしまう時の流れからぽつんと離れていたタロは、神家を出て自ら変化することを選んだ。押し寄せる荒波を逆にむさぼるようにして、今劇的に変化している。じゃあ、わたしは? わたしは何かを変えられた? ただ時の潮流に押し流されているんじゃないの?


 未熟なことが許容される少女っていう称号は、すでに取り上げられつつある。もちろん、それはわたしだけじゃない。同じ年齢の女の子、みんなそうだ。

 もし少女っていうのが男性にとって憧れの存在であっても、わたしたちは必ずしもそれを歓迎しない。今は少女っていうカテゴリーに収まることができても、結局そこから追放されてしまうんだもん。それなら自ら大人への階段を登らないと、身体だけが大人で中身が少女未満の奇妙な人間になってしまう。


 心と体のアンバランスは、タロだって同じだったはず。神家の中で神様として振舞っていたタロは、神家を出ると同時に人間のオトナになる必要があったから。でもタロは今、その難題を着々とこなしてる。記憶喪失っていう言い訳を使わなくても、しっかり社会の中に自分の居場所を作れるようになってる。


 わたしが感じている少女喪失への焦りは、心の成長が遅々として進まないからなんだろう。


「はあ……」


 タロが隣にいるだけで満足してる? まさか。わたしはそう言って、自分をごまかしてるだけ。タロに「好きなら相手のことに関心持つのは当然でしょ」って言っときながら、わたし自身はそうできてない。情けない。わたしの心臓が赤熱してることをタロに気づいてもらいたいなら、自分からタロに近づく努力をしないとだめだ。

 まず、神家時代のタロのことをもっと知りたい。この前神家で溺れた時、あそこの神様たちから情報をもらえた。ヒントはもう揃ってるんだ。魚の名前に犬がつくこと。そして、迷魚であること。だから見当はついてる。あとは、わたしがそれを知ってどうするかだけだ。


 栞を挟んであったページを開いて、画像を確かめる。


「イヌザメ、だよね。たぶん」


 暖かい海のサンゴ礁に棲んでいる、最大でも1メートルちょっとにしかならない小型のサメ。サンゴ礁が住みかだから、日本本土の沿岸にはほとんどいない。瀬戸内にいたとしたら完全に迷魚だよね。名前の由来ははっきりしていない。海底で餌を探し回る姿が犬のように見えるから、なんていう説もある。性質はとても温和で、人を襲うことはない。夜行性で、昼間は窪でじっとしていることが多い。鼻先についているひげのようなもので海底の餌を探査する。甲殻類などが主な餌、か。


 タロがもう二度と神家に戻らない、もしくは戻れないのなら、こんなことを知っていても意味はない。でも。タロがわたしとは違う時の流れの中で生きてきたことを、タロが何者だったのかも含めて心に刻んでおこう。そして、わたしとタロの生き方が、必ずしもうまく重ならないかもしれないってことを……覚悟しなければならない。


「わたしには、タロがまだ神様なのか、もう人間なのか、それともイヌザメなのか、わかんないんだよね」


◇ ◇ ◇


 晩ご飯の時に、わたしをじっと見ていたタロに聞いて見る。


「ねえ、タロ」

「うん?」

「前はよく日中ぼーっとしてたけど、最近はそうでもないね」

「昼に潜水するから、しっかり切り替えないとな」

「ふうん……」


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