第三十話 ハイジ、犬とお盆を過ごす

 港に戻ったわたしは、待ち構えていた救急車で救急病院に運ばれたけど、意識はあったし、飲み込みすぎた海水で下痢したくらいで大したことはなかったから、すぐ家に帰れた。

 いつもからっと明るく傍若無人なエバ先生も、さすがに堪えたみたい。船でも病院でもがっくり肩を落として、意気消沈してた。


 でも、エバ先生が法を犯したわけじゃない。ダイバーだったら誰も潜ったことのないヴァージンポイントに惹かれるのは当然だし、神家岩礁の恐ろしい潮流をよく知ってる人は漁師さんにすらいなかったんだから。わたしと小野さんに「危ないからここに潜っちゃだめ」って念を押されたエバ先生は、制止を素直に受け入れてくれた。まあ……溺れたわたしの様子を見てるからね。

 わたしが二度も溺れかけたことで、エバ先生だけでなく本井浜の漁師さんたちも、神家がとても恐ろしい場所であることをしっかり認識してくれたと思う。


 わたしも、あそこには二度と行きたくない。島を支配していた龍神がいなくなったあとも、女だけを引きずり込もうとする怨念みたいなものがまだ残っていること。それが本当に恐ろしかったんだ。


 なんとか家には帰れたけど、タロの心配の仕方ははんぱなかった。トイレにまでついてこようとしたから。どこでわたしが倒れていなくなってしまうかわからない……そんな不安がタロを支配していたんだろう。


「大丈夫だよ」


 何度もそう言って、タロの手を握った。


「助けてくれて、ありがと」


 タロは、わたしのライフベストのオレンジ色が目に入った途端、ちゅうちょなく海に飛び込んだって聞いてる。タロにとっても近づきたくない場所だっただろうに。

 絶対に失いたくない人。タロの中でのわたしの位置付けがわかったことで、わたしの中のタロの位置も変わった。大人のタロに対するふわふわした憧れとか、恋に対する不定形の願望みたいなものが全部消えた。

 違う。そんなんじゃない。わたしにとってタロは、誰も代わりができない不可欠の存在。それは、わたしの中でもう二度と動かないと思う。


 でも……。タロの抱えている底なしの孤独感が別の形に変わらない限り、タロは「好き」という感情を理解できない。好意を言葉や行動に変えてわたしに示すこともないだろう。それは、わたしも同じなんだ。

 タロのどこが好きか。それならどうしなければならないか。タロとの未来をどう引き寄せるか。黒部さんに言われたこと、そのままだ。恋心を単なる憧憬とか願望のまま放っておかないで、自分から動かないと形にならない。


 帰省した時にお母さんにそそのかされたこと。アタマで考える恋愛はうまく行かない。好きなら押し倒せ。ああ、その通りだったね。わたしは、自分から積極的に出られないことにあとからいろいろ理由をつけようとしてた。まだ高校生だから。まだ未成年だから。うちは風紀違反に厳しいから、男の側からアプローチするもんでしょ……。それは、全後付けの理屈だ。

 まだタロに意思表示すらしていないのに、その前に自分からいっぱい障害物を並べて。それで、わたしの想いがタロに伝わるはずがないよね。


 いつまで夢見る少女ハイジでいるんだ! 自分をそうどやしつけながら、供物で賑やかになった仏壇の前でくるくる回る盆灯籠を見つめてる。


 台所でおばあちゃんと賑やかに話をしていたお母さんが、仏間に入ってきて隣に座った。写真のおじいちゃんにそっと手を合わせたあとで、わたしにチェックを入れ始めた。わたしが神家岩礁で溺れたことは、もうみんな知ってる。隠しようがないんだ。


「のりちゃん、溺れかけたんだって?」

「うん……ちょっと、いろいろあってね」

「気をつけてよ」

「はあい」


 それだけだった。こっちに来たのが細かいことをぐちゃぐちゃ突っ込まないお母さんだけで、本当によかった。お父さんが一緒だったら、百パーセント呉に連れ戻されただろう。

 わたしのことがまた心配になったのか、タロがこそっとわたしの様子をうかがってる。それを目ざとく見つけたお母さんがタロを手招きした。


「太郎さん、遠慮しないでこっちにいらっしゃいな」

「あ、はい」


 背中を丸めるようにこそこそとわたしの反対隣に座ったタロは、ぺこぺこと頭を下げてお母さんに謝った。


「済みません。俺が一緒に行ってたのに」

「いいえー。どうせのりがぷっつんしてぶっ飛んだんでしょ。肝心な時に理屈が間に合わない、なんちゃってリケジョだからね」


 そんな言い方ないだろーと思ったけど、溺れたという事実がある限り反論できない。

 座る場所を少し変えたお母さんが、わたしとタロを見比べた。


「少しは進んだの?」

「ううん……」


 まだ。何もかも、これからだ。固まったのはわたしの気持ちだけ。それをどうタロと重ねていくか。タロの気持ちを汲み取っていくか。全てはこれから。でもお母さんは、わたしたちをよーく見ていた。


「なるほどね」


 なにがなるほどなのかわからないけど。そう言ったお母さんは、少しだけ笑った。


「まあ。がんばりなさい。ただ」

「うん」

「一緒になることより、独りになった時にどうするかを考えときなさい」


 え? そんな、今はまだ全然そんな段階じゃないよう。どぎまぎしてたら、お母さんがおじいちゃんの写真に目を移した。


「母を。おばあちゃんを。よく見ておいてね。二人で生きるっていうことは、そういうことなの」


 あ……。


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