第二十九話 ハイジ、犬に泣かれる

 苦しい……息ができない……誰か、誰か助けて!

 ずっともがいていたのか、それとももがく夢を見たのか、それはわからない。意識を取り戻したわたしの目に入ったのは、最初に神家に入った時にじゃんけんをしていたブサメンの神様たち。みんな、心配そうな顔でわたしを見下ろしている。


「あ……ああ」


 声が……うまく出ない。


「だいぶ潮を飲み込んでおる。喉が渇れるから、まだ声を出さぬ方がいい」


 声をかけてくれた神様は、顔が猫っぽい。そうか……この神様が猫神家ねこかんやってことになるのかな。


「そのままで。聞いてくれ」


 神様たちがわたしを取り囲むように座って、あぐらをかいた。猫神家さんがわたしに確かめる。


「ここのことは犬から聞いたか?」

「は……い」

「そうか」


 しばらく押し黙っていた猫神家さんは、他の神様を見回してから説明を続けた。


「ここは。神家は、龍がんでからも力だけを残しておる」


 うん。タロは、それを御しきれないって言ってたな。


「儂らはその力に頼っておるだけじゃ。神として大きな力が使えるわけではない」

「はい」

「儂らにしても犬にしても、お主を捕えるつもりでここに引き入れたつもりはないのじゃ」

「犬神家さんに、生贄だと……言われましたけど」

「あやつの戯言よ」


 猫神家さんが力なく首を振った。


「儂らには生贄なぞ要らぬ。儂らは神家の力に護られておるだけでいい。それ以外のことは何も望まぬ」

「どういう……ことですか?」

「神家の力が及ぶ御座におれば、誰かに滅されることはない。穏やかな日々を過ごせる。それだけじゃ。生贄なぞ要さぬ」

「じゃあ、犬神家さんはなんで生贄なんて言ったんですか?」


 神様たちが互いに顔を見合わせた。


「あやつだけが……放れ神だからじゃ」

「はなれがみ?」

「そうじゃ。あやつは在の者ではない」


 あっ!

 わたしは、すぐに猫神家さんの言おうとしていたことを理解できた。タロは……犬神家は迷魚だったんじゃないかって。わたしの顔をじっと見ていた猫神家さんはぼそぼそと話し続けた。


「儂らは、ここを離れればいつでも娶ることができる。だが犬は」

「彼一人って……ことですね」

「そうじゃ。あやつは外海そとうみから野分のわけに吹き寄せられてきた魚じゃ。隠れ住もうとした場所が神家であったに過ぎぬ。ここに在れば永らえることができるが、一人のままじゃ」

「それで……」

「儂らがここを離れれば、護りを失う代わりに契る相手を探せる。だが、あやつはここを離れても乙女を探せぬ」

「……」

「ここに。神家に、ひたすらしがみつくしかなかったのであろう」


 わたしが親元を離れて本井浜で暮らし始めた頃。自己中になることでしか薄めることができなかった寂しさは、タロの長い孤独の時に比べたらささいなことなんだ。

 タロは……どんな想いでわたしに求婚したんだろう。ああ、あれは求婚じゃない。たぶん違う。俺をここに置いていかないでくれ。もう独りにしないでくれ。穏やかなタロが、全身全霊で訴えた懇願だったんだ。


 猫神家さんは、ひっそり笑った。


「あやつは、ここを出た。お主のところにおるんじゃろ?」

「はい!」

「あやつは犬神家という名にこだわらんじゃろう。お主の隣におること。それだけで満足するはずじゃ」


 力を持たない小さな神様たち。彼らは臆病でおとなしくて……そして優しかった。そんな優しい神様たちでも、タロの底なしの孤独を埋めてあげることはできなかったんだろう。涙がこぼれてくる。


「う……」

「犬が、待っておる。早く戻ってやれ」

「ここを、出られるんですか?」

「儂らは手を貸せぬ」


 猫神家さんが、神家の一角を指差した。そこの景色だけが少し歪んでいた。


「あそこは犬の御座じゃ。犬がおらぬ今は外に開いておる。ただな」

「はい!」

「神家に残る力は何もかも島の下に飲み込もうとする。特に、女は、な」

「……はい」

「儂らはその流れに少しだけ糸を垂らし、流れにあるものをここに引き上げることができる。じゃが、神家の外には力を及ぼせぬ。死力を尽くし、渦の外に出よ」


 猫神家さんの言葉を全部聞き終わらないうちに、わたしは駆け出していた。外でタロが待ってる。俺をもう独りにしないでくれって叫びながら。その声が聞こえる。はっきりと聞こえる。


 猫神家さんの警告は嘘じゃなかった。離岸流っていうのは知ってたけど、その逆。島に押し寄せる潮は岩礁近くで全部下向きになって、急に早くなっていた。わたしが最初に神家から出た時は、タロが護ってくれてたんだろう。

 あの時なんでもタロ任せだったこと。タロに要求しかしなかったこと。子供っぽいわたしには、それしかできなかった。でも……わたしの隣にタロがいてくれるようにするには、もう自分から動かないとならないんだ。


 必死に手足をばたつかせて海面に上がろうとしたけど、まるで誰かに足を掴まれてるみたいに浮き上がれない。息が……続かなくなる。


「がぼっ!」


 大量に水を飲んで、気が遠くなってきた。ごめん、タロ。こんな弱いわたしで、ごめん……ね。わたしは……再び意識を失った。


「タロ。ごめん……ね」


◇ ◇ ◇


 もうあの世なのかなあと思ったけど。わたしは、誰かに抱きしめられてる感触で意識を取り戻した。


「ノリ! ノリ! 行かないでくれ! 行かないでくれーっ!」


 それは。初めて見たタロの激しい感情だった。ぐったりしたわたしを抱きしめて、タロが泣きながら絶叫してたんだ。大丈夫だよって言いたかったけど。声が出なかった。だから。


 いつもタロがしてるみたいに、ちょっとだけ笑った。


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