第二十八話 ハイジ、犬と救助に向かう
お盆の二日前。本井浜に実家がある人たちのお盆帰省が始まって、乙高生の減った分が外からのお客さんで埋まった。普段静かな漁港はそれなりに賑やかになってる。うちのお母さんも明日来て、一週間くらいはこっちにいるって言ってた。賑やかなのが好きなおばあちゃんは、今からそわそわしてる。
でも。わたしは別の意味でそわそわ……いや違う、ざわざわしてたんだ。
網干先生の警告がなくても、わざわざあんな沖にある島まで行って調査しようなんて学生はいないよ。これまでもいなかったし、杉田先生が全体指導してる限りこれからもいないと思う。
漁師さんも、海面下に隠れている岩が危ないから岩礁には近寄らない。周辺でしか漁をしないんだ。かご網を仕掛けてくれたのは、操船がうまい小野さんだから。小野さんじゃなかったら、わたしのお願いはどの漁師さんにも聞いてもらえなかっただろう。
つまり、乙高生も漁師さんも、わたしの時のようなトラブルに巻き込まれる心配はほとんどない。
ただ……その制御を受けない人がいるんだ。
それがどうしようもなく気になって、五時前にもう目が冴えてしまった。わたしたち学生にとっては早朝だけど、漁師さんはもう漁に出てる。港の様子を確かめたくなって、まだ暗い中、家を出た。
「お。のりちゃん、珍しいのう。こんな朝早ぅどうした?」
船は全部出払ってるのかなあと思ったら、小野さんが岸壁でのんびりタバコを喫ってた。
「おはようございます。小野さんは、今日船を出さなかったんですか?」
「ウインチがまあたバカになりよってのう。さっさと換えたいんじゃが、業者がお盆休みでどうにもならん」
「あちゃあ。そっかあ」
「まあ、息子らが戻ってくるけん、臨時休業じゃ」
「楽しみですねっ」
「はっはっは。そうじゃのう。じゃけん、すぐに寂しぅなってしまう。良し悪しじゃ」
大きな漁港でも若い漁師さんは減ってる。小さなところだともっと少ない。わたしがずっと残って欲しいと思っているこの港の風景も、どんどん変わってしまうのかなあ。
「あ、そうだ。うちの高校に来た女の先生、小野さんのとこにも来てます?」
「ああ。エバ先生いうたな。きちょるで。今日は、シゲさんの船で潜りに行く言うとった」
「へえー。昼に出るのかな」
「いや、ついさっき出た。朝ダイブしたい言うて」
ざわあっ! ものすごい悪寒がした。
「あのっ! 小野さん、それもしかして神家……」
「ああ、そう言っとった。あすこは潮の流れがおかしいけん、やめとけ言うたんじゃが」
しゃれに……ならない。
「た……いへんだ。小野さん、止めなきゃ!」
「は?」
「あそこ、本当に危ないんですっ! わたしもタロも危険な目にあってる。半端なく危ないんですっ!」
わたしが言わなかったら、小野さんはまともに取り合ってくれなかっただろう。でも、一時行方不明になってたわたしの状況は、小野さんたちにとって不可解だったはず。小野さんは、深刻に考えてくれた。
「すぐ船ぇ出す。のりちゃんは待っちょいて」
「いえ、一緒に行きます! 小野さん一人だったら、何かあった時にどうしようもない」
他の漁船はほとんど出払ってる。そもそも船に乗れる人がほとんど残っていないんだ。小野さんがいること自体が奇跡みたいなことなんだ。
「ほいじゃ、太郎も呼んでくれるか?」
「あっ! そうですね。すぐ起こしてきます」
◇ ◇ ◇
先に出たエバ先生を乗せた船より、小野さんの船の方が大型で早い。それでも、出港の時間差が取り戻せるかどうかは微妙だった。エバ先生が潜っちゃったら、もう探せなくなる。あそこは決して浅海ってわけじゃないんだ。岩礁の周辺にはとっつけるけど、そこから離れると急に深くなる。
険しい表情の小野さんとタロ。タロは、これまで神家に行くことをずっと嫌がっていた。潜水調査の時も、その海域だけは辞退してた。職員さんは、タロがそこで水難に遭ったのを配慮してくれたから、無理に行かされることはなかったんだ。でも事態が事態なんだ。男手が要るからどうのこうの言ってられない。
「タロ、ごめんね」
「いや、一刻を争う」
タロは、これまで見たことがない怖い顔をしていた。自分の事情は後回しにしなければならないくらい、本当に危ないんだろう。
船が波を逆立てて海面をかっ飛んで行く。神家の岩影が見えて来た。明るくなり始めた朱色の空と、焼けた海面。それに牙を立てるようにして、ごつごつした黒いシルエットが並んでる。
「あれか!」
小野さんが指差した先に、小型のマリンボートが停泊しているのが見えた。船の上でいくつかの人影が動いてる。背の高いのがウエットスーツを着たエバ先生なら、まだ船の上だ。準備中なのかな。でも、もう動きそう。
「小野さん、急いでーっ!」
「おうよっ!」
小野さんの船が、シゲさんのボートの真横で止まるか止まらないかのタイミングで、エバ先生がもう船から飛び込もうとしていた。船の桟に足をかけて揺れに合わせて飛び出し、前かがみになっていたエバ先生にタックルをかます。計算ではわたしも一緒に向こうの船に転がるはずだった。でもエバ先生は、わたしよりずっとごつかったんだ。わたしはエバ先生を押し戻すことに成功したけど、ぶつかった時の反動で海に落ちてしまった。
後ろでタロが「危ないっ」て叫んでたのは聞こえたけど、わたしが覚えているのはそこまで。あの時と同じで、わたしは神家の中に入っちゃった。しかも今度は溺れて、気を失って。
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