024 初夜(2)

「……ふう」


 肺腑を絞り出すような溜息が五郎太の口からもれた。


 このまま倒れ伏したいという欲求をこらえ、用意されていた夜着に着替える。これも昨夜は着方がわからなかったが、夜着だけあって今身に着けている南蛮服に比べれば簡素な仕組みであるし、二度目ということもあって着るのにはそれほど手間取らない。


 もちろん、できるなら寝巻が欲しいところではある。だが、食客の身分で贅沢など言えぬし、それに一昨日までの野宿には比べるべくもない。


「それにしても――」


 背の高い几案つくえの上で明々あかあかと光っているあかりに、五郎太は思わず見入った。


 玻璃はりのように透明な石で造られたうつわの中に火が灯り、部屋の中を照らしている。これはランプという名で呼ばれる、この国ではごくありふれたあかりのための道具なのだという。


 玻璃でできた器など、日ノ本ではみかどの宝物庫でもなければ見つかりはしないだろう。このような道具ひとつとってみても、イスパニアが日ノ本に比べどれほど進んだ国であるか伺い知ることができる。


 ランプに照らされた部屋の中には、矢張り五郎太の見慣れない調度が並んでいる。几案つくえに組で置かれているものと見える床几しょうきのような椅子。堅牢そうな材でできた箪笥と、昨夜はじめてとこを取った、高さが膝までもある豪奢な寝台――


「こればかりは慣れぬな……」


 寝台を見つめながら、五郎太はまたしても溜息をつく。畳に蒲団を敷いて寝かせてくれとは言わないが、このように上げ底の寝床で寝ていたのでは落ちたとき身体を痛めるのではないかという懸念が尽きない。


 だが、考えていても詮無いことであった。郷に入りては郷に従え。何の因果か俺はイスパニアへ飛ばされてきてしまったのであるから、大人しゅうイスパニアの人々に倣って暮らすしかない……。


 そう思い、ランプの灯を消すために几案に近づいた。だがそこで五郎太は部屋の扉が敲かれる音を聞いた。


「誰か」


 扉の向こうにも聞こえるよう、幾分大きな声で五郎太は呼びかけた。けれども返事はない。そのまま待っていると、またしばらくしてこつこつと扉が敲かれる。


「入られよ」


 クリスが今日の労いにでも参ったのであろうか。そんなことを思いながら五郎太は扉の向こうのぬしに入室を促した。


 ややあって扉が開いた。だがおずおずと部屋の中に入ってきたのは、五郎太が思いもしなかった人物であった。


「これは……」


 驚きのあまり言葉が続かない。それは今日の果し合いの相手――エルゼベートであった。


 ともすれば中が透けて見えるほど薄い、繊麗せんれいでゆったりした夜着を身に纏ったエルゼベートは、無言で部屋に入ってくると、後ろ手に扉を閉めた。そのまま何をするでもなく、扉の前に立っている。その腕には白くて耳の長い……何であろう、おそらく兎を模した人形のようなものを抱きしめている。


 五郎太が反応できないでいると、エルゼベートは矢張り無言のままつかつかと歩き、寝台にどっかりと腰をおろした。


「……このような夜更けにいかがなされた」


 どうにかそれだけ言葉が出た。だがエルゼベートからの返事はない。胸の前にしっかと人形を抱き、五郎太の方を見ずにじっと動かずにいる。


 そんなエルゼベートの姿に、五郎太の困惑はいやが上にも高まった。すわ今日の意趣返しにでも来たのであろうか。だがそれにしては……。


 そこではじめて、エルゼベートの口が動いた。


「……りきて」


 相変わらず五郎太に目を向けぬまま、エルゼベートは小声でぼそぼそと何やら呟いた。だが、その声は小さすぎて、何を言っているのか五郎太にはまったく聞き取ることができない。


「今、何と?」


 聞き返しても返事はない。ただエルゼベートの、人形を抱く腕に力が入ったのが見えただけだ。


「すまぬ。声が小さくて聞き取れなんだ。何と言われたか今一度――」


「そんなとこ突っ立ってないで隣に来てって言ってんの!」


 今度は耳をつんざくような大声が来た。ほとんど弾かれたように、五郎太はエルゼベートに走り寄った。


「隣に座って!」


「……」


 言われるまま五郎太はエルゼベートの隣に、ひと一人分の間を空けて腰かけた。これが、五郎太が女に近寄れるぎりぎりの距離なのである。


 エルゼベートはちらと五郎太を一瞥したあと、また視線を前に戻した。そのまましばらく黙っていたが、やがて思い出したように口を開いた。


「……今日はその、ごめんなさい」


 エルゼベートの口から最初に出た言葉がそれであったことに、五郎太は安堵を覚えた。これが和議のための訪問であったとわかったからである。


 思えばクリスの采配で五分ごぶということになりはしたが、エルゼベートとの和解はまだであった。しこりを残さぬためであろう、今日のうちにそれを為しに来てくれたエルゼベートに感謝を覚えながら、五郎太は言葉を選んだ。


「お前様のせいではないわ。元はと言えばクリスが――」


「そうじゃなくて!」


 また大声が来て、五郎太の耳がきぃんとする。顔をしかめながら目を向けると、エルゼベートは怒ったような顔のまま眼前の薄闇を睨めつけていた。


「決闘のときのこと」


「……ん?」


「決闘で、あたしが柱の上に立ってたとき、『背中に羽がはえてる』ってあんた言ったでしょ?」


「……ああ、言ったやも知れぬが」


「実はあれ、ちょっと精霊魔法つかっちゃってたの」


 そう言ってエルゼベートは悄然とうなだれた。それからまた消え入るような声で、独り言のように続けた。


「気を抜くと精霊魔法つかっちゃうんだ、あたし。だからあんたにああ言われて、ドキッとした」


「……」


「走るのだってそう。精霊の力借りて速く走るの、もう身体に染み付いちゃってるの。だから……ごめんなさい」


 そこでエルゼベートははじめて五郎太に向き直り、深々と頭を下げた。


「なぜ、頭など下げられる」


「だって、あんた相手に精霊魔法なんてつかわないって言ったじゃない。それなのにあたし……」


 そう言って唇を噛むエルゼベートに、五郎太はふっと力が抜けるのを覚えた。


「今更であろう。そのようなこと、俺は気付いてもおらなんだわ」


「でも……!」


 尚も食い下がろうとするエルゼベートに、五郎太は親愛の情を込め、完爾かんじと笑いかけた。


「むしろその話を聞き、見事じゃと改めて感じ入っておる」


「見事?」


「精霊魔法とやらのことよ。使おうと思わずとも独りでに使つこうてしまう……それだけの境地に達するまでにどれほどの修練が必要であったものかと思うてな」


「……」


「繰り返しになるが、女であることの一事をもってその者を侮ることは金輪際致さぬ。己にそう戒めることができたが、俺にとって今日一番の収穫よ」


「やっぱり、おっきいなあ……」


 そんな呟きをもらしたあと、エルゼベートはまた前に目を戻した。そして幾分小さな声で、独り言のように言った。


「だったら、あたしの負けだって認めてくれる?」


「ん?」


「みんなの前ではさ、あたしの立場考えてあんなふうに収めてくれたんだよね」


「……まあ、そうなるかのう」


「そっち撤回しろとか言わないからさ、あたしたち二人の間では、あたしの負けだって認めてよ。じゃないとあたしの気が済まない」


「お前様がそう言われるのであれば、俺に異存などないわ」


「なら、決闘はあんたの勝ちってことで」


「うむ。俺の勝ちに相違ない」


 そう口に出して、五郎太の心を爽やかな風が吹き抜けていった。


 もとより、勝負に勝ったことが嬉しかったわけではない。命を懸けて死合った相手と分かり合えたこと――そして何より、その相手が世にもめでたい心映えの女丈夫であるとわかって、身体の疲れも心労も一息に吹き飛んだ気になったのである。


 気が付けばエルゼベートの口調は随分と砕けたものになっている。真剣に立ち合ったことで気心が知れたのか、あるいはあのあににしてこの妹ありと言ったところか。


 ……それにつけても一本気な女性にょしょうである。そう思って、再び前を向いてしまったエルゼベートの横顔を五郎太はつくづくと眺めた。惚れ直したと言っていい。


 もし己の宿痾しゅくあさえなければ、頼み込んででも嫁に来て欲しいところである。だがこうして男女なんにょ二人でひとつ部屋の中に過ごす今もこれ以上身を寄せることが能わぬ情けない男では、この見事な女性にはとても見合わぬだろう。


 そこでふと、エルゼベートが口を開いた。


「……負けちゃったから、約束は守んないとね」


「約束?」


「……約束した通り、あたし、あんたのお嫁になるわよ」


「……」


 エルゼベートの言葉に、五郎太は絶句した。


 そこではじめて、肌も露わな薄衣うすぎぬのみ身に纏った世にも美しい女性にょしょうと二人、夜の寝所に差し向かっているという事実に、五郎太は気付いた。


「さっき、こんな夜更けに何しに来たんだって聞いたよね」


「……ああ、聞いたが」


「そのために来たの」


 そう言ってエルゼベートは真っ直ぐに五郎太を見た。


「今夜あたしがここに来たのは、あんたのお嫁になりに来たの」

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