025 初夜(3)

 薄暗い部屋の中に眼差しが絡み合った。


 エルゼベートの真摯な面持おももちに、五郎太は己が昼間の果し合いどころではないのっぴきならぬ窮地に陥ったことを知った。


 いかな五郎太とて、これまで女に迫られたことがまったくないわけではない。年の近い下女と共に蔵の物を整理していた折、からかい半分に契ってみよと抱きつかれたこと。村祭りの夜も更けてそこかしこで男女なんにょがまぐわいだす中、どこぞの新造しんぞに種をくれと言って腕引かれたこと。……だがそのどれもがその場限りの、いわば遊びとしての交情を求めてのものであった。


 そのとき己に向けられた好色に澱んだ女達の眼差しを思い出す。……今、自分が目にしている眼差しは、戯れに迫ってくる女達のそれとはまったく趣が違っていた。丁度、果し合いに臨むときと同じ、触れれば切れるような真剣なまなこで、エルゼベートは五郎太を見ていた。


 この眼からは逃れられぬ。五郎太はそう思い――けれども己がその真剣を受け止めることができぬ情けなさを思って、ほとんど絶望した。


「こ……婚儀の件はクリスが勝手にぶち上げたことであろう。それを我等が律儀に守る謂われなどないわ。……おお、そうよ。女子おなごにとって婿選びは一生の大事、ここはひとつ慎重にならねばのう」


「慎重に考えたわよ。ちゃんと慎重に考えて、悪くないって結論が出たの」


「……」


「あたしももう十七だし、そろそろお嫁にやられるんだってことはわかってた。……それに、帝国の状況が今こんなでしょ? どうにか建て直そうっておにいが頑張ってるのも知ってるし、あそこで言った通り、どこへでもお嫁に行く覚悟はできてたのよ」


「……」


「同盟工作だったらお嫁の来手きてがないどっかの脂ぎった王子か、王様の後添え。国内の引き締めだったら周りの顔色ばっか伺ってる侯爵か、成金の商売人貴族あたり。……それに比べればあんたの方がよっぽどマシよ。あたしより強いってことは、今日でよくわかったし……」


「……いや、待たれよ。あいわかった。そうした者達に比ぶれば俺の方がまだということは重々わかったが、だからと言うてこのように急な話で、なりたくもない俺の嫁になぞならずとも――」


「ここまで言ってもわかんないの!? あたしはあんたのお嫁にって言ってんの!」


 叩きつけるようなエルゼベートの大音声に、五郎太はと瞠目した。この姫御はクリスの命ゆえ致し方なく嫁に来ようとしている……そんな己の認識が根底から覆されたことを知り、頭の中が真っ白くなった。


 そうした五郎太の胸中を知ってか知らずか、エルゼベートは悔しそうに五郎太から目を逸らし、兎の人形を抱きしめる腕に力を込めて、早口に捲し立てた。


「すっごく強いのにぜんぜん偉ぶったとこないし、勝手なことばかり言ってるあたしのこといちいち気遣ってくれるし、それに……あたし負けたのに、プライド傷つけないようにあんなふうに優しくしてくれて……そんなの……そんなことされたら、好きになっちゃうに決まってるじゃない!」


「……」


「……本当は最初から嫌じゃなかったのよ。お兄がいきなり結婚しろって言うからどんなやつかと思って見てみたら、細マッチョで顔もけっこう好みだったし。サプライズであたしとの結婚のこと言われたあんたがお兄に言ってた文句、あたしの思ってることそのままだったから、きっと価値観も合うんだろうなって思ったし。どこの誰かもわかんないけど、お兄がそこまで買ってるんだったらきっと何か持ってる男ってことだろうし。そりゃ不安はないわけじゃないけど、この人のお嫁になるんなら、まあいいかな……って」


「ならば、なぜ果し合いなど……」


「ああ言うしかなかったのよ! お兄がぜんぶ一人で決めちゃうのはいつものことだけど、あんな冗談みたいな流れで『はいそうですか』なんて言えるわけないじゃない! あたし、こう見えても皇女なのよ!? 皇女には皇女なりの立場ってもんがあるんだから! このお城の中じゃその立場失ったらやってけないのよ!」


「……成る程」


「それをお兄のやつ! わざとあんな、あたしの立場悪くするような言い方して! あんな風に言われたらああ返すしかないじゃないの! あんたと決闘するしかあたしにはなかったの! わかる!?」


「……わかった。今、わかった」


「……でもそのあと、『やっちゃった』って思ったのよ。あんたのこと殺したくないけど、真剣勝負で手抜けるような性格じゃないから、結局そうなっちゃうかも知れないし……。自分の立場悪くしないでどうやって切り抜けようかなんて、あたし、そんな小さいこと考えてた」


「……」


「けど、あんたは上手くやってくれた。あたしの立場悪くしないで、みんなが納得する形でまるく収めてくれた。だから……あたしはもう降参。大人しくあんたのお嫁になろうって……この人のお嫁になりたいって、そう思っちゃったの」


 エルゼベートはそう言って横目に五郎太を見つめてくる。胸に抱いた兎の人形の頭に顎を埋める幼げな仕草が、既にその容色の虜となっている五郎太には一層悩ましく妖艶なものに感じられ、己がいよいよ逃げも隠れも叶わぬ虎口ここうに追い詰められたことを悟らずにはいられなかった。


「お前様の気持ちはようわかった。ようわかったが、俺はその……」


「なによ! あたしにここまで言わせてまだ煮え切らないの!? あんな決闘までしたのに、今更あたしがお嫁じゃ不服だって、そう言うの!?」


「不服ではない! 天地神明に誓って不服ではないが……」


 クリスから事情を聞いておらぬのか――言いかけて、五郎太はその言葉を呑み込んだ。そう……誰にも知られとうない秘中の秘だと言って打ち明けたあの話を、自分の妹とはいえ、クリスが漏らすはずもない。


 だが……だとすればクリスはなぜこのような縁談を持ちかけてきたのだろう。明晰なあやつの頭をもってすれば、遅かれ早かれこの手の面倒な事態が持ち上がるのは目に見えていたはずだのに……。


 進みも退きもできぬ己の状況に、五郎太は思わず歯噛みをした。そんな五郎太を見てエルゼベートははっとした顔をし、それから花がしおれるように悄然と俯いてしまった。


「……そっか。あんたもお兄に乗せられた口だったんだ」


「……」


「別にあたしのことお嫁にしたいわけじゃなかったのに、成り行きで決闘までさせちゃったんだね」


 まさしくその通りよ――五郎太は心の中でそう思い、だがもちろん、それを口には出せなかった。


 エルゼベートの言うことはまさしくその通り。だがそこにはひとつだけ間違いがある。……五郎太はエルゼベートを嫁にしたくないわけではない。むしろ諸手を挙げて嫁に迎えたいのである。


 エルゼベートの言う通り女子おなごにここまで言わせ、しかも本心では嫁に来てくれと声を大にして叫びたいものを、己の呪わしい宿痾しゅくあのためにそうすることができぬのが、五郎太には歯痒くてならなかった。


 いっそ身の恥を晒して、好いた女子おなごと一緒になれぬ己のごうをこの姫御に説いて聞かせようか――遂にそんなことまで考え出した五郎太の意識は、エルゼベートの次の一言で根こそぎ持っていかれた。


「……やっぱりあんたも、こんな黒い髪の女の子は嫌いなんだ」


 その言葉に、五郎太はひっぱたかれたようにエルゼベートを見た。目の前の女が何を言っているのか五郎太にはわからなかった。悄然と俯いたまま、エルゼベートは尚も続けた。


「今はこんなだけど、あたしも昔は『黄金の花』なんて言われてちやほやされてたんだ。でも、エリクシル創製のとき髪の色持っていかれちゃって……。髪がこの色になってからは、みんな掌返したみたいに……あたしは何も変わってないのに」


「……」


「……あんたにだって選ぶ権利あるもんね。同じ髪の色したあんただったら……って思ったんだけど、あたしの思い込みだったみたい。こんな黒い髪だから、あんたがあたしのこと好みじゃなくて、それでお嫁に欲しくないってことなら、あたしは――」


「そんなことはないッ!」


 堪りかねて吼える五郎太に、エルゼベートは弾かれたように頭をあげた。五郎太は、エルゼベートの肩にかかる烏珠ぬばたまの黒髪を見つめながら、何も考えることのできぬ頭でただ一心に己の思うところを打ち明けた。


「そんなはずがあるか! 周りの男どもはどこに目をつけておる! お前より美しい女子おなごなどこの世に一人とておらぬわ! 髪の色が悪い? なにをばかな! その黒髪がいいのではないか! お前のその黒髪を見たとき、俺は息さえけなんだわ! おおそうよ、一目惚れじゃ! 俺はお前に一目惚れしたのよ! お前の容色を、その美しい髪を目の当たりにして、一目でぞっこん参ってしまったのじゃ!」


 そこまで捲し立てたところで、五郎太は我に返った。同時に己が向き合っている女性にょしょうが陶然とした、だがどこか訝しむような眼差しで自分を見つめていることに気付き、狼狽した。


 自分が口走ったことを思い返し、狼狽に拍車がかかった。これではまるで自分が容色だけでエルゼベートに惚れたと言っているようではないか。それが恐ろしく己の沽券に関わることのように思え、最早自分の置かれた状況も思い出せぬまま、五郎太は更に訥々とつとつとエルゼベートへの想いを連ねた。


「いや、一目惚れと言うても……その、容色が好みだったのもあるが、それだけではないのだ。……うむ、決してそれだけではないぞ。あやつの理不尽な要求にたじろぎもせず、凛として己の生きざまを貫き通すその心意気に参ってしまったのよ。お前と夫婦みょうとになれるのであれば何も言うことはない。だがしかし、俺は――」


「待って」


 静かな、けれども決然としたエルゼベートの声が、五郎太の長口上を遮った。


「……ちゃんと言います。どうか、わたくしから言わせて下さい」


 そう言ってエルゼベートは居住まいを正した。両手を膝の上に揃え、背筋を真っすぐに伸ばし、わずかに潤んだ双眸そうぼうしっかと五郎太をとらまえて、一生一世の大事を打ち明けるようにひとつひとつ丁寧に、その言葉を告げた。


「お逢いしてまだ数日ですが、貴方様の勇敢な戦い振りと、大きく包み込むようなお人柄に、わたくしは心を奪われました。貴方様を深くお慕い申し上げております。このようなわたくしですが、どうか末永く宜しくお願い致します」


 そう言ってエルゼベートは深々と頭を下げ、やがて頭をおこした。五郎太を見つめながら瞼をおろし、うすく唇を開いて、それからゆっくりと顔を近づけてくる。


 五郎太が猛烈な悪心おしんに襲われたのは、そのときだった。涙が出るような思いで、五郎太はほとんど必死になって祈り始めた。


 おお、神よ……いや、神でも仏でも構わぬが、どうか平にお願い致し申す。


 何卒なにとぞ、俺をこの姫御に――生まれ落ちてはじめて混じりけのない女子おなごまことを捧げて下されたこの有難いお方に、嘔吐えずき上がってきたものを吐きかけるような情けない男にだけはして下さるな……。


 目を閉じたエルゼベートの美しい面差おもざしが眼前に迫るのを絶望的な思いで眺めながら、五郎太は遂に、己の意識が暗闇に落ちるのを感じた――

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