023 初夜(1)

 ――とまれ、頭痛の種だった果し合いにも片が付き、これで一段落と胸を撫で下ろしていた五郎太だったのだが、まことの難儀はその後に待ち構えていた。


 先ずは湯殿である。息詰まる戦いの中で熱い汗も冷たい汗も充分にかいた五郎太にとって湯は何よりの馳走であったが、問題は下女が垢を掻かんとて湯殿の中にまで入って来ることであった。


 一人で入るからねと五郎太が何度告げても、それではお役目が果たせませぬの一点張りで埒があかず、仕舞いにはエルゼベートの名まで持ち出して下女に退出を求めることになった。


 祝言を前に悋気を焼かれては先が思い遣られるから堪忍して欲しい――そんな苦し紛れの方便は意外にも功を奏し、下女は一目散に湯殿を出ていった。だがあげるつもりもない祝言まで口にのぼらせて下女を追い出した湯殿の居心地は、五郎太にとってどのようなものであったか。


 次に装束。湯殿を出た五郎太は、そこに脱ぎ置いたはずの小袖がないことに気づいた。信じられぬことに褌まで持っていかれてしまっている。代わりに用意されていたのは当然というべきか、南蛮の装束であった。


 堪らず抗議の声をあげかけたが、世話をしてくれる下女は自分が追い返してしまったのだった。


 仕方なく用意された装束を身に着けようとするのだが、着方がわからない。袴をごく短くしたような布切れが褌の代わりのようだが、先ず身に着けるべきその布切れの履き方すら判然しないのである。


 初めて会った日にあの掘っ建て小屋でクリスの装束を脱ぎ着させた様子を思い起こしながらどうにかこうにか装束を着終えた時には、湯を使ったばかりだというのに五郎太は汗みずくになっていた。しかも着心地が悪い。小袖と違って身体のそこかしこを締め付けられるのが窮屈でならないのだ。


 ……汚れてはいるのだろうが、矢張り己の着衣を返してもらうことはできまいか。


 力無くそう思った矢先に下女が戻って来た。すかさずそのことを切り出そうとした五郎太は、けれども切り出せぬまま下女に引ったてられ、そのまま謁見の間へと連れて行かれることになる。


 そこで五郎太を待っていたのは、絢爛という言葉を一幅の絵に描いたような華々しい宴であった。


 広間狭しと居並ぶ、何れも煌びやかな南蛮の装束に着飾った老若男女を前に、クリスは本日の果し合いの顛末と、その結果として結ばれた妹のを高らかに宣言し、五郎太の反論を許さぬまま乾杯の音頭をとった。


 そこから始まった宴は、華やかな席に慣れない五郎太を辟易させるのに充分な体のものであった。


 クリスはあたかも新たに召し出した近習きんじゅのように五郎太を扱い、代わる代わるやってくる御歴々に五郎太を引き合わせては己が命を救われたことや、その人柄の高潔なることを大仰な言葉で触れてまわった。


 最初、その暴走を止めようと口を開きかけた五郎太だったが、クリスが彼らのあるじであることを思い出し、結局なにも言えぬまま受け身に徹することとなった。


 下手なことを口にしてクリスの顔が潰れてはと慮ったのだが、クリスの方では五郎太に全く気を払わないばかりか、勝手なことばかりを言い募るのである。


 嫁娶よめとり云々については果し合いが五分ごぶに終わったことで流れたのではないか。己はもとより、当の本人である妹御の同意は得ているのか……などと五郎太の疑念は尽きなかった。


 だがクリスはそれが最早決定事項とでも言わんばかりに結婚式――おそらくは祝言にあたるものの日取りまで口にし出す始末である。


 せめて妹御がいれば反論のひとつもしてくれるのではないかと探してはみたが、広間にその姿を認めることはできなかった。結果、五郎太は諦めにも似た心持ちでクリスの放言を聞き流すより他なかったのである。


 五郎太を疲弊させたものはそればかりではない。選帝侯やら辺境伯やら、耳慣れない官名つきで次々と名乗ってゆく御歴々の名を覚えるのに必死だったのだ。


 五郎太とて主に仕えてきた身である。人の名を覚えることの大切さは身に染みている。食客としてクリスの世話になる立場を考えても、次にうたとき「どなたか」などと返すような非礼は間違っても犯すことはできない。


 だがそんな五郎太の決意も長くは続かなかった。はじめのうちこれは左馬頭、これは弾正忠というように、日ノ本の官名に置き換えて覚えようと試みたのだが、途中で匙を投げた。


 同じ官名が多過ぎるのだ。なにしろ己に与えられるという子爵ひとつとってみても十人近くいるのでは話にならない。


 もとより日ノ本においては、ひとつの官名は家中に一人という暗黙の了解がある。それ故に官名が通り名たり得るのであり、この国のように同じ官名を名乗る者が何人もいたのではそれも能わない。


 ようやくそのことに気付いて絶望を覚えたあたりで、どうやらこの国の人々は官名とそれに先立つ家名らしきものを組にして呼び名として用いているのだということを理解した。例えばなにがし子爵、なにがし伯爵といった具合である。


 けれどもこれが難しい。彼らの口にする家名は五郎太にとって意味をなさない文字の羅列に過ぎず、とても覚えられたものではなかった。


 唯一覚えられたのは『コロネイア公爵』だが、これは単に既知の顔――ルクレチアの父君ということであり、それならば是が非でもと覚えたというだけの話である。


 果たして、クリス麾下の面々の名を覚えんとする五郎太の尽力は骨折り損に終わった。生来の真面目さから気合いを入れて臨んだだけに落胆も大きく、宴たけなわとなる頃には、石でできていると評された五郎太の神経も、すっかり擦り減ってしまっていた。


 だが、五郎太の神経に障ったのはそんな名前絡みの徒労ばかりではない。それ以上にこたえたのは眼差しだった。


 果し合いの勝利を称える声と共に向けられる畏敬の眼差し、皇女との婚約を寿ことほぐ声と共に向けられる羨望の眼差し。そんな眼差しの中にちらちらと薄暗い眼差しが混じる。


 ねたみ、そねみ、嘲弄、侮蔑……果てはあからさまな挑発を込めて睨めつけてくる者さえいる。


 いずれも五郎太には馴染み深い眼差しだった。お屋形様に有り難いお言葉をかけていただく度、五郎太はいつもこの手の眼差しが己に向けられるのを味わってきた。


 とりわけ波多野との戦で初めてお屋形様に感状を賜ったときは酷かった。家中かちゅうの何処に身を置いていても四方から押し寄せてくるかの如き負の眼差しに、さしもの五郎太も一時は心を病むのではないかと案じたほどだった。


 そうした眼差しに晒され続けてきた五郎太であったから、普段であればどこ吹く風で受け流すこともできたのである。だが、この日の五郎太には何と言っても果し合いの疲れがあった。


 それゆえに宴果て、這々の体で寝所しんじょに戻り着いたときには、五郎太の心身共に真綿の如く疲れきっていたのだった。

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